✤45
森の奥に蔦が絡んだ小屋があった。
この小屋はいつどのようにして建てられたものなのだろうか。木璧の変色具合からかなり古いことだけはわかるけれど、わかるのはそれくらいだった。
「入って」
軋む扉を開け、魔女がリゼットを中へ促す。
扉の奥から薬草の強い香りが漂う。蠱惑的な、気が遠くなるような香りだった。
リゼットは一度かぶりを振ると、お邪魔しますと断って中へ入った。乾された薬草が壁一面に吊るされているのに対し、中央にある机の上はこざっぱりとしていた。
「座って」
端的に言い、魔女がリゼットに椅子を勧めた。リゼットが背もたれのない丸椅子に座ると、魔女は棚から人差し指ほどの小さな小瓶をいくつか取り出して、リゼットに背を向けながらカタカタと小さな音を立てて調薬し始めた。
そうして、ひとつの小瓶をリゼットの前に置いた。
これがジスランを救う薬なのかと、リゼットが期待したのを感じたのか、魔女はすぐさまその希望を打ち消す。
「違うわよ。この薬はあなたが飲むの」
「え?」
リゼットはどこも悪いつもりはない。首を傾げると、魔女はうっすらと笑ってみせた。
「この薬はアリアンヌも飲んだわ。私は報酬にお金をもらうのは好きじゃないのよ。だからね、私の術の対価は『気持ち』で払ってもらうわ」
「気持ちで?」
「そうよ。清々しいくらい強い気持ちが好きなのよ。アリアンヌは強かったわ。だから手伝ったの。あなたはどうかしらね?」
目の前の薬は薄い緑色をしており、これだけではなんの薬だかわからない。
ドクン、ドクン、と心音がうるさく感じられ、指先が小刻みに震えた。
「この薬はなんでしょうか?」
問いかけると、魔女はあっさりと言った。
「悪夢を見る薬よ」
「あ、悪夢?」
そんなものは薬を飲まなくてもよく見る。うなされてばかりいる。
しかし、魔女が言う悪夢はそんなに生易しいものではないようだ。
「あなたが悪夢を見ている間に、私は解呪のための薬を作るわ。目が覚めたらあげる」
「ほ、本当ですか?」
「ええ、もちろん。ただし、あなたが悪夢から覚めた時に正気を保てているのかはあなた次第。せっかく作る薬を無駄にしないように頑張ってね」
そんなにもややこしいことをしなくても、普通に作って渡してくれたら嬉しいのに、そうはいかないようだ。魔女は、独自の判断基準で物事を決めてしまう。
「……わかりました。飲みます」
リゼットが選び取れる選択肢はそれだけだ。
けれど、魔女はうぅん、とわざとらしく唸った。
「あなた、もしかするとアリアンヌより嫌な夢を見るかもしれないわ」
「そうだとしても、ちゃんと目覚めます。ですから、解呪の薬を必ず仕上げてください。お願いします」
小瓶の蓋をつまんで開けた。悪夢を見るというわりに、花のような匂いがした。
ごくり、と唾を呑む。
悪夢の中に出てくる登場人物は決まっている。あの二人だ。
大丈夫、負けない。
リゼットはそう強く念じて薬を一気に煽った。
その後、小瓶をテーブルの上に置いたところまでは覚えている。それから先のことは、まるで記憶になかった。
✤
――リゼットは、眠っていた。
深く、どこか遠いところへ魂だけが漂っているような気分だった。
そんなリゼットの顔を覗き込んでいる大勢の目がある。
ここは――どこだろうか。皆がいるのはわかるのに、この場所がどこなのかが認識できなかった。
そして、そんなことはどうでもいいような気もした。
クスクス、クスクス、とリゼットを取り囲む人々が時折笑い声を立てる。
「いつまで寝ているんだい、起きな!」
パチン、と頬を張られた。リゼットが驚いて飛び起きると、そこにいたのは太ったメイド長だった。その後ろにはシェフやナディア、ジョス――見知った顔がある。
ここはどこだろうかとリゼットが目を擦っていると、メイド長の太い腕がリゼットの胸倉をつかんだ。
「グウグウ寝て、あんた何様なのさ? とっとと働きな!」
「わ、私は……」
もうこの屋敷のメイドではない。あなたの指図は受けない、とリゼットは言いたかった。けれど、首が締まって上手く声が出ない。そんなリゼットを皆が囲んで嗤うのだ。
「馬鹿なリゼット。メロディが貴族に見初められて出ていったから面白くねぇんだろ? だからってお前には無理だ。愛嬌の欠片もねぇし、お前のことを好きになる男なんていねぇよ」
アハハハッと皆がリゼットを嘲笑う。
メロディが。
メロディ――。
その名を聞くと、無性に苦しくなる。
最後に顔を合わせたのはいつだっただろう。
――自分に可愛げがないのは知っている。誰も、リゼットを好きではない。
異性に限らず、同性でもそうだ。誰も、リゼットを好きではない。
『リゼットは幸せにならないと』
優しく、あたたかく、美しい声音でそう言ってくれたのは誰だったか。孤独なリゼットが勝手に作り出した幻だっただろうか。思い出せない。
「おい、何をぼうっとしてる? さっさと働けよ、この愚図!」
「は、はい……」
リゼットは立ち上がり、箒を手に駆け出す。
けれど、急に首をつかまれて箒を取り落とした。
「おい、何を勝手に出歩いている?」
男の声が薄気味悪いほど近くで聞こえた。首に指が食い込み、締め上げられた。
「お前は僕のモノなんだから、主人には従え。なあ、リゼット、お前のご主人様は誰だ?」
鬱陶しい前髪をした細身の男だ。身なりはよいけれど、目つきが粘着質で不快感しか湧かない。
これは、誰だったか。
いつの間にか、メイド長たちはいなくなっていた。ここにはリゼットとこの男との二人しかいない。
「返事は?」
グッと、リゼットの首が折れるほど締め上げる。指が、首輪のようにリゼットを縛める。
この人は、リゼットを殺す気なのだろうか。苦しい、死んでしまう。
「ア、アダ――」
リゼットの喉から誰かの名が漏れる。リゼットはこの人を知っている。知っていて、思い出したくないのだ。
しかし、この時、目の前に御者のシャリエが立っていた。リゼットは思わず彼に手を伸ばした。
「シャリエ、助けて……っ」
そうしたら、シャリエは感情の籠らない目をリゼットに向けただけだった。
「どうして?」
首を締められている女性を前にして、どうしてと問いかける方がどうかしている。シャリエはこんなにも冷たい人だったのか。
リゼットがそう思ったのを見透かしたのか、シャリエは嫌悪感を剝き出しにした。
「どうして俺がリゼットを助けるんだ? リゼットはいつも、俺に惨い仕打ちをしてばかりなのに。じゃあ、助けたら俺にリゼットの生涯をくれるのか?」
「生涯……」
この人から助けてくれるのなら、なんだっていい。助けて。
リゼットは恐ろしさのあまりそれを口走ろうとした。その時、シャリエの向こう側にメロディの顔が見えた。幸せそうに輝いている。
なんて満ち足りた笑顔だろうか。恐怖に引き攣っているリゼットとは大違いだ。
メロディは繊細なレースのついたドレスを着て、白い手袋をはめた手で誰かの腕に抱きついていた。背が高い男性だ。
それは、ハッとするほど綺麗な男性だった。少し長めの金髪にサファイアのような目、長い手足、均整の取れた立ち姿だ。気品に溢れ、どう見ても平民ではない。
思わず見惚れたけれど、その男性はそんなリゼットに不快感を示した。
「メロディの仕事仲間だというが、不躾だな」
すると、メロディは彼にしなだれかかりながらクスクス、と可愛らしく笑い声を上げた。
「リゼットは可哀想な子なの。許してあげて。ね?」
ゾワ、と肌が粟立つ。身体中の血が頭に上るような感覚がした。
あの笑顔が、幸せそうな声が、リゼットの神経を逆なでする。
「メロディは優しいな。愛しい君がそう言うのなら……」
「ありがとう、****様」
愛しい――。
リゼットにはそんなふうに言ってくれる人はいない。
言われたことはないし、これからもきっと、誰もリゼットのことを好きにはならない。
リゼットは、ずっと独りだ。
『誰かのことをこんなふうに愛しいと思ったのは初めてだ。リゼットのことを護りたい』
「え?」
頭の奥底に響く声があった。
優しい、甘いささやき。あれは――。
「リゼット、お前は僕の花嫁だ」
首をつかんでいた男が、リゼットを引き寄せる。いつの間にか、リゼットはウエディングドレスを着ていた。リゼットは結婚する――誰かと。誰だ。
「わ、私は……」
「お前の夫は誰だ? 僕だろう?」
耳元で言われた。この人があんなにも優しい言葉をくれるはずがない。
違う。この人は、違う。
「――もう行きましょう、****様」
メロディが青年の腕を引く。この時、メロディの表情は勝ち誇った喜びに輝いていた。
リゼットは不幸なのに、メロディは幸福に満ち溢れている。二人にこんなにも落差を与える世界は嫌いだ。何もかも、嫌いだ。誰も彼も、リゼットの敵でしかない。
リゼットは、一人だ。
こんな世の中で生きる意味はあるのか。
何も要らない、何もない、自分も、要らない――。
青年は振り返る前に一度リゼットに目を向けた。蔑むような感情の中に、僅かに憐憫が滲んでいると思った。
「俺はその程度の人間なのか?」
誰にとって、その程度だというのか。彼は何を訴えかけるのだ。
「一体何を――」
喉から声を絞り出した時、リゼットの中で何かが弾けた。
その程度。そんなはずがない。
他は何もかも投げ出していいくらい、大事に想っている。
もし、助けられないのなら、リゼットも一緒に眠りたい。
彼のいない人生はもう要らない。
あのあたたかい腕の中で、蕩けるような微笑みを見せてほしい。
リゼットの目から涙が止め処なく溢れた。その涙が持つ熱だけが本物のように感じられた。リゼットの首をつかむアダンの手も、シャリエもメロディも、皆、嘘だ。幻だ。
「放して!」
アダンを突き飛ばすと、アダンはグニャリと歪んで消えた。
「ジスラン様!!」
リゼットは、力の限り彼の名を呼ぶ。
届け、と願った。
どこまでも、どこにいても、この声が届けと。
「リゼット」
暗闇の中、ジスランだけが光を放つように見えた。微笑んで、リゼットに手を差し伸べてくれる。
ジスランだけがリゼットにとっての現実だ。リゼットは泣き出したいのを堪えてジスランに向けて走る。
リゼットが伸ばした指先が、ジスランに触れることはなかった。闇の底から生えた茨がジスランの体を絡めとる。茨はまるで檻のようにしてリゼットからジスランを遠ざけた。
ジスランはくたりと首を傾けるが、茨に支えられて倒れ込むことはなかった。
「ジスラン様!」
茨は、リゼットが触れると刃物のように鋭く皮膚を切り裂いた。引っかけた腕から、息が詰まるほどの激痛がする。
「っ――!」
思わず手を引くと、茨は意志を持つのか鳥籠に似た形に編まれた。リゼットは尻もちをついて後ずさるしかなかった。しかし、茨の鳥籠の中に横たわるジスランに寄り添う女がいた。
艶やかな闇色の髪。白く滑らかな肌。赤い、胸元の開いたドレスが彼女の美しさを際立たせている。夜の女神がいるなら、こうした姿ではないのかと思えるほどには麗しかった。
彼女はジスランの頭を膝に載せて、ジスランの体を優美な腕で抱き締める。愛おしそうに、ジスランの体を指でなぞった。
その光景を、リゼットはへたり込んで見ているしかなかった。
「この方はわたくしのもの。あなたには渡さない」
薔薇の花弁のような唇から言葉が零れ落ちる。
リゼットは、この人を知らない。
けれど、これがアリアンヌだと、そうとしか思えなかった。
ジスランを愛し、呪った女性――。
「ジスラン様……」
リゼットが立ち上がると、茨が威嚇するようにして蠢く。切られた腕が焼けつくほどに痛んだ。怖い。痛い。
足がすくむ。勝てない。勝てるわけがない。リゼットはただの娘でしかないのだ。
「あなたには過ぎた男性なの。諦めなさい」
アリアンヌはジスランに頬を寄せる。
――リゼットが釣り合う男性でないことくらい知っている。
けれど、それでも好きになってしまったのだから、この気持ちは自分でも止められない。
諦めるのは、リゼットが死ぬ時だけだ。
もう、諦めのいいリゼットには戻れない。求めれば想いを返してくれたのはジスランだから。
彼よりも惜しいと思える何かをリゼットは持ち合わせていない。
それなら、恐れるな。前を向くしかない。
「嫌よ。あなたの指図は受けない」
リゼットは、はっきりと言い放った。そして、痛みに耐え、身体中をズタズタにしながら茨の隙間に滑り込む。血が、リゼットの服を真っ赤に染めた。それでも、リゼットは痛みにも勝る達成感を覚えた。
「ジスラン様」
穏やかに眠っているジスランに呼びかける。すると、アリアンヌが悪鬼の形相でリゼットを睨みつけた。
「この泥棒猫! 恥を知りなさい!」
リゼットは、美しい顔を歪ませるアリアンヌに虚しい気持ちでつぶやいた。
「執着と愛情は違うから。あなたは、ジスラン様を幸せにしたいと思ったことがあった? 自分が幸せになりたいからジスラン様を求めたのなら、それは執着とは違うの?」
リゼットがそばにいると、ジスランは嬉しそうに微笑んでくれた。そんなふうに幸せそうにしてくれるのなら、リゼットがジスランのそばにいる意味はあるのだと思えた。
幸せになりたいし、幸せにしたい。
だからこそ、互いが必要なのだ。それがわからないなら、そんな相手には負けない。
手を伸ばし、アリアンヌの腕をジスランから払い除けた。
その時、アリアンヌの姿は弾けるようにして消えた。
ジスランの姿も。
そして、リゼット自身も――。
涙がリゼットの袖口を濡らしていることに気づき、目を覚ました。掻いた汗が冷えて冷たい。
突っ伏していた机から身を起こすと、正面に黒尽くめの魔女が立っていた。魔女は微かに口元を持ち上げる。
「おめでとう、あなたの勝ちね」
魔女は、リゼットの手前に小さな飾りっけのない陶器の入れ物を置いた。




