✤39
ジスランが倒れた時、リゼットは叫ぶことしかできなかった。いつもは気丈なロジーナでさえ震えている。
「兄様? 誰か、誰か来てっ!」
二人の悲鳴が聞こえたのだろう。家令やメイドが一斉に駆けつけてきた。そうして、ひっくり返った椅子のそばに倒れているジスランを発見し、皆がハッと息を呑んだ。
リゼットは気を失っているジスランの頬を摩る。
「ジスラン様! ジスラン様!」
強く呼びかけても返事はない。それどころか、顔色はみるみるうちに蒼白になっていく。
どこかが悪いなどという話は聞いていない。リゼットたちと同じものしか口にもしていないのだから、毒という可能性も考えにくかった。
リゼットとロジーナではジスランを運ぶことができず、男性二人がかりで運ばれていくジスランの後をついていくしかなかった。
少し気を失ったと、そんな話ではない。このまま目が覚めないのではないかと思ってしまうほど、生気のない顔をしていた。唇がどんどん青ざめていく。
ロジーナはそれでも落ち着かなければと思うのか、家令に向けて言った。
「兄様のお体が不調だなんて、そんな話を聞いていて?」
「い、いいえ、まったくもって……」
それはリゼットも同じだ。べったりと寄り添っていても気づかなかった。どこかが悪いようには感じられなかったのだ。
ロジーナはふぅ、と短くため息をつくと、目元をキリリと引き締めてから言った。
「セネヴィル先生をお呼びして頂戴。それから、バディストとお父様にお手紙で報せるわ。至急、届けて。あと、今は兄様が倒れたとは他の領民には秘密にしていて。皆細心の注意を払って動くの」
ジスランが倒れた今、この屋敷を取仕切るのはロジーナしかいない。ロジーナも不安で仕方がないはずだ。早くバディストが来てくれるといい。
ロジーナは、リゼットに向き直ると少しだけ表情を和らげた。
「私、届ける手紙を書いてくるわ。リゼットは兄様についていて。何かあったらすぐに言って?」
「え、ええ」
リゼットは戸惑いながらうなずいた。今、リゼットはロジーナほど的確な判断はできない。ただ狼狽えているだけだ。
ロジーナが部屋を出た後、リゼットと他に三名ほどが部屋に残ってジスランの様子を見守っていた。
しばらくして、手紙を書き終えたロジーナが戻ってきた時、ラシェルとその亭主の庭師も共にいた。
「旦那様が倒れられたとお聞きして……」
この庭師は大柄で朴訥だが、ジスランはこの庭師の腕を大いに買っている。そんな主人のことを庭師も慕っていたはずだ。倒れたと聞いて飛んできたのだろう。
「ええ。今、先生をお呼びしたところなの」
ロジーナが部屋に入って振り返ると、夫婦は中へは入らずにそこで顔を見合わせた。それから、おずおずと亭主が切り出した。
「あの、関係があるかどうかはわからないのですが、このところ旦那様がよく脇腹を押えているのを見ました。……あの傷がある辺りじゃないかと」
それを聞くなり、ロジーナは顔を強張らせた。
「脇腹の古傷? 痛むことはあったとしても、それで気を失うなんて、そんなことってあるの?」
それだけ言うと、ロジーナは柳眉を顰めた。それから、リゼットをそっと見遣る。
リゼットは何も知らない。
けれど、そろそろ知ってもいいのではないのか。
ジスランに関わることならば、知らなくてはならない。何があったとしても、ジスランを嫌うことはないつもりだ。そこは信じて話してほしい。
「ロジーナ、以前少しだけ聞いたお話……。刺されたのは、ジスラン様?」
それを口にした途端、ロジーナが急に頼りなく小さな女の子になったように感じられた。リゼットのそばに歩み寄ると、リゼットの手を取るけれど、リゼットよりもロジーナの方が余程震えていた。
「近いうちに話さなくてはと思っていたの。兄様からこの話はされていないのではなくて?」
リゼットはうなずいた。ロジーナがリゼットの手を握る力を強める。
「兄様は、その時のことをほとんど覚えていないの。相手のことも含めて」
そこまで言うと、ロジーナは人払いをした。と言っても、この屋敷で働く者は知っているのだろう。
セネヴィルたちが到着する前に話すつもりでいるらしい。ロジーナはリゼットとソファーに座り、語り出す。
「まず、このクララック家のことを詳しく話すわね」
「ええ……」
「兄様と私は後妻の子で、先に腹違いのサミュエルという兄がいたの。年もジスラン兄様と十歳離れていて、私たちは子供、サミュエル兄様は大人、そんな具合で、一緒に遊んだ覚えもないわ」
ジスランとロジーナの兄妹は仲が良く、もう一人兄がいたと言われても上手く思い浮かべられなかった。異母兄だということなので、それほど似ていなかったのだろう。
ロジーナが長兄を語る口調には、ジスランに向けるほどの親しみも感じられない。
「サミュエル兄様は、後妻の私たちの母様にも馴染もうとしなくて、冷たい印象だった。それでも、妹の私はまだ少しマシだったのかも。ジスラン兄様は特につらく当たられていたわ。父様も、サミュエル兄様の母様のことを本当に大事にされていたみたいで、後妻の私たちの母様のことはあまり……。便宜上の妻とでも思っていたのかしら。愛情は感じられなかったみたい」
ここはあたたかで綺麗で、輝かしいものだけでできているような気分になっていた。
けれど、それはリゼットが裏側を覗かなかったからだ。光の裏には、相応の闇がある。
リゼットは黙ってその話の先を待った。
「母様が出ていかれたのは私がふたつの時で、私は母様のことをほとんど覚えていないわ。私とよく似ていたそうだけれど」
兄妹の父は長兄を特に可愛がったのかもしれない。亡妻への想いに加え、実母を亡くして不憫に思えたはずだ。
ジスランとロジーナにしてみれば、親からの愛情は乏しく、互いだけが家族のように感じたのではないだろうか。仲がいいのも当然だ。
「ジスラン兄様は年頃になると、家を出て騎士になったわ。しばらくは家に寄りつかなくて、私も孤独だった……。この家は、そのサミュエル兄様が継ぐはずだったの。それが、馬車が滑落して、父様と一緒にサミュエル兄様も亡くなって――。だから、ジスラン兄様がこの家を継ぐしかなくなったわけ」
そういえば、この屋敷には肖像画がない。リゼットが働いていた屋敷には鬱陶しいほどの肖像画で溢れていたのに。ここにはそうしたものを飾る習慣がないようだった。
もしかすると、思い出すのはつらい記憶ばかりだからだろうか。
ロジーナは、深くため息をついてから続けた。
「次男のジスラン兄様が継ぐのは自然な流れだったはずだけれど、そこで納得しなかったのが、サミュエル兄様の婚約者」
「婚約者がいらしたの……?」
「ええ。アリアンヌ様と仰って、黒髪の綺麗な方だったわ。一見物静かに見えるのだけれど、内側には激情を抱えていたみたい。アリアンヌ様が、ジスラン兄様を刺したの。サミュエル兄様が亡くなったのは、ジスラン兄様が馬車に細工したからだって言いがかりをつけて……」
「それで、刺したの?」
リゼットが震える声で訊ねると、ロジーナは浅くうなずいた。
復讐――。
そのアリアンヌという女性にしてみたら、婚約者を葬った犯人に復讐したつもりなのか。
それほどまでに二人の長兄のことを愛していたのなら、不仲だった弟が家督を受け継ぐことになって尚更、やり場のない感情が爆ぜたとしても不思議ではないのか。
けれど、それはジスランにとって災難でしかない。
「リゼットなら信じてくれると思うけれど、もちろんジスラン兄様がそんなことをするはずがないの。そもそも、屋敷にはいなかったし、突拍子もない言いがかりだと、誰もがわかっていたわ」
ジスランの穏やかな人柄を屋敷の人々も、町の人々も知っていただろう。アリアンヌの言い分を信じる人はいなかったに違いない。
「……よっぽど、その亡くなったお兄様のことがお好きだったのね」
そう考えると憐れだ。リゼットも、もしアリアンヌの立場でジスランがサミュエルの立場だったなら、仕方がないと諦めきれた気がしない。
しかし、ロジーナは目を伏せ、首を横に振った。その表情はどこか怒っているようにも見える。
「いいえ。親が勝手に決めた縁組で、どちらもお互いにはそれほど関心を寄せていなかったわ」
「そう、なの?」
それならば、何故そうした凶行に及んだのか。彼女を動かした原動力はなんだったのだろう。
「……口に出して言われたことはないけれど、アリアンヌ様はきっと、サミュエル兄様ではなくてジスラン兄様のことがお好きだったのよ」
「えっ?」
「見ていればわかるわ。たまにしか会わなくても、ジスラン兄様がいるといつも目で追っていたもの」
「もし、そうなら余計に、どうして刺したりなんて……」
好きな人を刺したりできるものなのか。
身体中の血の気が失せていくようで、リゼットは寒さを感じた。
この時、ロジーナは今までに見てきたどんな時よりも鮮烈に微笑んだ。
「あら、好きだから刺したのでしょう? 好きなのにジスラン兄様はちっとも振り向いてくれないのよ? 家督を継ぐ時、アリアンヌ様のご実家から、このままアリアンヌ様をジスラン兄様の婚約者にしてもらえないかと仰られて、ジスラン兄様はそれをお断りしたの。サミュエル兄様に申し訳ないからって」
好きなのに、振り向いてもらえない。
その気持ちが恨みに変わった。
もし、ジスランに特定の誰かがいたのなら、その女性に向いただろうけれど。メロディがリゼットにしたように。
この時は、ジスラン当人にアリアンヌの憎しみが向かった。
好きなのに、手に入らない。だから、どんな形でもジスランの心に自分を刻みつけたかったのだろうか。
これもまた、『復讐』であるのかもしれない。
「……ジスラン兄様は細身のナイフで浅く刺されただけだったから、怪我そのものはたいしたこともなかったのに、しばらく寝込んだの。起きた後には刺された時のこともアリアンヌ様のこともまったく覚えていなかったのよ。ショックが大きかったんだろうって、セネヴィル先生は仰っていたわ」
「そのアリアンヌ様は亡くなったのよね?」
以前、ロジーナが確かそう言っていた。
ロジーナはうなずく。
「そうよ。毒を煽ったの。ジスラン兄様を殺すつもりではなかったと思うわ。ただ、気持ちを知ってほしかったのだとしたら、あんなことをする前に言うことがあったのではないかしら。冷たいようだけれど、私、アリアンヌ様にあまり同情はしていないのよ」
父と長兄を一度に亡くした後、そんな事件が起こったのだから、ロジーナの憤りは当然だ。最後の肉親がジスランなのだから。
「これはこの屋敷で起こったことだから、使用人の皆に口止めしたわ。屋敷の外で知っているのは、バディストとお父様、セネヴィル先生たちくらい。アリアンヌ様のご実家にはご遺体を引き渡したから、正直に話したけれど」
リゼットは、ロジーナの手をギュッと握った。今まで、ロジーナは常にこうしてリゼットを励ましてくれていたから。
「大変な目に遭ったのね……」
大事に育てられ、苦労を知らないふうに見えていた。けれど、ロジーナにも苦しい時があったのだ。
「その分、今が幸せだからいいの。兄様が起きてくれないと、私たちの挙式が延びてしまうわ。意地でも起こさないと」
ロジーナは冗談めかして言うけれど、ずっと震えが止まらない。
リゼットは、今、自分にできることを精一杯探さなくてはと思った。




