✤35
馬車のステップを軽やかに飛び越えて降りてきたのは、ジスランだ。こうして一度離れると、近寄りがたいほどの貴公子ぶりに見える。あんな人のそばにいたのが、かえってみじめに思えた。
ジスランの青い目がリゼットを捉える。とっさに顔を背けたが、ジスランはお構いなしに歩み寄ってきた。シャリエが緊張したのがわかる。
「リゼット、君が慌てて出ていくとしたら、復讐の件だろう?」
言い当てられて何も答えられなかった。
軽蔑されただろう。まだそんなことを考えていたのかと。
あのまま別れて再会しなければよかった。胸に杭を打たれたような痛みが走る。
これは人を呪った罰なのか。
リゼットが答えられずにいると、ジスランはシャリエに向けて言った。
「それを止めないのは何故だ? 君も手を貸すつもりか?」
シャリエは精一杯顔を上げた。貴族を相手に怖気づいていると思われたくなかったのかもしれない。
「リゼットが苦しんで、それで望んだことを否定する気はありません。どこへだって付き合います。なんだってしてやりたいんです」
そう言ってもらえて嬉しいと、そんなふうには感じなかった。それが何故なのかもわからない。少し前まで、この苦しみを誰かにわかってほしかったはずなのに。
シャリエの言葉は無色で、風のようにリゼットの横をすり抜けていく。
彼の言い分を聞くと、ジスランは目を細めた。
「否定しない、か」
怒りを抑えたような声でつぶやくと、ジスランはまたリゼットを見た。
「すまないが、俺は否定させてもらう。何をする気かは知らないが、やめておけ」
「あなたに何がわかるんですか」
シャリエが譲らずにいると、ジスランは軽くかぶりを振った。
「リゼットが人生を棒に振ることだけはわかる。どんなに苦しくても、復讐は苦しさを広げるだけだ。リゼットのためを思うなら、協力するのではなくて忘れさせてやるべきではないのか?」
復讐が馬鹿げていると他人に言われたくはなかった。所詮他人事だからなんとでも言えるのだと。
けれど、何故だかジスランにだけは否定されても苦しくない。ジスランが他人事だからこれを口にしているわけではないからか。
本気でリゼットを止めようとしている。馬鹿なことはやめて、自分の幸せを考えろと心配してくれている。この時リゼットにはそう思えた。
それは、ジスランの人柄を知ったからだろうか。
苦しさを否定せずに受け入れてくれたシャリエと、苦しくても振り切って前を向けと叱るジスラン。
どちらも他人事だからと上辺だけで言っているのではない。
リゼットは頭が割れそうに痛んで涙が止められなかった。
「ごめんなさい、シャリエ。私、いろんな人を巻き込んで不幸にしてる」
「リゼット……」
シャリエの声には力がなかった。リゼットの心を察したのだろうか。
あまりにも虫が良すぎる、勝手なこの心を。
「ごめんなさい、ジスラン様。私――」
そこまで言うと、ジスランは棒立ちになっていたシャリエの横をすり抜け、リゼットの手を取った。手を強く引かれ、リゼットはよろけてジスランの硬い体にぶつかる。ジスランの大きな手に肩を抱かれて目を回しそうだった。
ジスランはリゼットに向けて低くつぶやく。
「話は帰って聞く」
「あ、あのっ」
リゼットは、シャリエにどう言えばいいのかわからず、ただ顔を向けた。けれど、ジスランはそんなリゼットを馬車に押し込んだ。ジスランはリゼットが出られないように馬車の入り口に立ってシャリエを振り返る。
シャリエは愕然としていて動かない。そんな彼に、ジスランははっきりと告げる。
「リゼットは連れて帰る。君とは行かせない」
馬車が走り去る時、チラリと見えた顔は蒼白で、あんなにもシャリエを傷つけてしまったことに後悔しかなかった。
すべて、中途半端なリゼットがいけない。
復讐をすると決めたくせに、いざとなると脆くなって立ち止まった。そんなリゼットがシャリエを振り回した。それがつらくて、復讐心が自らに跳ね返ってきた気分だった。
復讐は何も生まない。さらに憎しみを広げる。他人も自分も傷つける。
馬車の中、リゼットはジスランの方を向けなかった。
ジスランがリゼットの肩をつかんだ時、震えているのが伝わっただろう。それでもジスランはリゼットを振り向かせた。馬車の窓にくっついていたリゼットには退くところがない。隠れる場所もない。
ジスランは、馬車の窓枠に手を突いたかと思うと、リゼットの顔を至近距離でじっと見つめた。にこりともしないのは、怒っているからだろう。
それから、体を低くしてボソリと言った。
「男と出ていくのは反則だ」
「えっ」
顔が近い。
あの時のように。あの時よりも――。
ジスランは、窓枠に手を突いたまま、もう一方の手でリゼットを捕まえ、口づけた。最初から息が詰まるほどの激しさで、嵐に遭ったような目まぐるしさだった。リゼットはただ必死で、ジスランの服を握り締める。
急にこういうことをする人ではなかったはずだ。
怒りから乱暴になるのかといえば、それも違う気がした。抑えていた気持ちを吐き出すような勢いというのが一番適当なのかもしれない。
擦れ合っていた唇が離れ、互いの息遣いが車輪の回る音に混ざる。
ジスランはこんな時でも涼しい顔をしているのかと思えば、先ほどシャリエに見せていた冷静さやゆとりはなかった。見たこともないくらい、切ない目をしている。
「話よりも行動が先になったのは悪いが、話を聞かなかったリゼットも悪い」
そんなことを言いながら抱き締められる。今度は優しいぬくもりだった。
「ご、ごめんなさい……」
とっさに謝るけれど、心臓がおかしくなりそうだ。
さっきまで世の中のすべてに絶望していたことが嘘のように塗り替えられる。勝手だとわかっていても、心の奥底でジスランが求めてくれることを嬉しいと思う気持ちが止められない。
「リゼット、復讐は諦めてくれ。その代わり、幸せにするから」
改めてしたい話というのがこれなのか。
呆然としたリゼットに、ジスランははっきりとした口調で言う。
「誰かのことをこんなふうに愛しいと思ったのは初めてだ。リゼットのことを護りたい。だから、どこにも行くな」
幸せとはなんだろうか――それを考えてもわからなかった。
考えるからわからなかったのだと、この時に気づいた。
答える声が震えてしまう。
「復讐を諦める代償が幸せ……?」
復讐なんて、本心ではもういい。忘れたい。それを忘れさせてくれる幸せがあるのなら、それは代償などではない。そんな都合のいいことがあっていいのか。
それでも、ジスランはリゼットの髪を撫でながら優しくささやく。
「幸せにすると偉そうに言っても、俺が至らないこともたくさんあるだろう。それでも、うちには白い天使が二匹もいるから、きっと俺の至らないところを補ってくれる」
ワン、とフィンとフリーゼが張りきって答える声が聞こえるようだった。笑いたいのに涙が零れる。
「それは間違いなく幸せですね……」
泣きながらも笑おうとするリゼットを、ジスランは眩しいものを見るかのようにして眺めていた。リゼットはそんなジスランと涙を拭いて向き合う。
「あの、本当にすみませんでした」
勝手な行動で心配をかけ、ジスランのことも苦しめた。そのことを改めて詫びる。
すると、ジスランは急に悪戯っぽい目をしてリゼットの唇を指でなぞると、その指を自分の口に沿えた。
「悪いと思っているなら、ここに示してくれないか」
真っ赤になるリゼットを見てからかっている。それが少し悔しくて、リゼットはジスランの胸を押すと自分からジスランに口づけた。
多分、やらないと思っていたのだろう。ジスランを驚かせてやれて少し嬉しかった。
――シャリエにはできなかった。それが、ジスランにはできる。
ジスランはいつも、沼にはまっているリゼットを引き上げ、光の差す方へと導いてくれる。誤った行いを叱り、正してくれる。そんなふうに感じるから、飛び込むのが怖くない。
明確な気持ちの差がそこにはあって、そのくせシャリエと生きていこうとした。共にいて、どこまでも傷つけ続けたはずだ。それをジスランが止めてくれてよかったと思うのは、リゼットの勝手だろうか。
きっと、シャリエには恨まれる。復讐されるのはリゼットの方になったかもしれない。
ごめんなさい、とまたいつか謝りたいと思っても、シャリエは受け入れないだろう。




