✤34
シャリエに手を引かれながら歩いていると、シャリエは並木道の途中で足を止めた。
リゼットを振り返り、特に表情を浮かべないまま言う。
「リゼット、疲れてない?」
病み上がりだと聞いたからだろう。リゼットのことを気遣ってくれる。
「うん、大丈夫」
ずっと、シャリエは他人に興味がないのだと思っていた。
仕事を正確にこなし、自分の役割というものからはみ出さない人なのだと。
それは、リゼットから見てそう見えたというだけでしかない。こうして接してみれば、人間臭く優しい面も持っている。
それをメロディは知っていたのだろうか。それとも、単に出世株だから目をつけていただけなのだろうか。
シャリエの優しさを感じると、こんなことに付き合わせていいのかという気になる。
メロディがリゼットを妬んだのはメロディのせいでしかなく、本来ならシャリエには関わりのないことだから。
「いいよ、休もう」
そう言って、シャリエは木の木陰に座り込む。そのままリゼットを引き寄せ、膝に載せた。
「ちょ……っ」
起き上がろうとしたけれど、シャリエはリゼットの腰を抱え込んで座らせる。リゼットは抗っても無駄だと思い、そのまま大人しくした。
「シャリエ、あなた、メロディの前で私とひと芝居打って、それでサヨナラって気はないでしょう? 見返りは何?」
何かをしてもらって、ありがとうだけで済ませていいと言ってくれる人は少ない。ジスランやロジーナも口では返さなくていいと言ってくれたけれど、リゼットが出ていったことを知ったら水臭いとか恩知らずだとか思っただろうか。
シャリエに復讐の片棒を担がせてしまうのなら、それに見合った報酬がいる。彼が望むのは、リゼットの人生で決して軽くないものであるということは覚悟して手を取ったつもりだ。
「芝居を打つつもりじゃない。嘘もつかない。ただ本当のことを言うだけだ」
そう言えばそうなのかもしれない。
シャリエにとってそこに嘘はない。嘘をつくのはリゼットの方だ。
シャリエが迎えに来て、求婚してくれた。ひどい目に遭ったけれど、おかげで今は幸せだと。
これからずっと、好きな人と幸せに暮らしていくから、メロディのことは恨んでない。許してあげる。
――そう、嘘をつくのはリゼットだ。
好きな人と幸せに、なんてひどい嘘だ。
リゼットは、シャリエを好きではない。嫌いでもない。
ただ、それでもこんなリゼットに付き合ってくれるのはシャリエだけかもしれない。
「……それで、見返りは?」
ポツリ、と繰り返すと、シャリエは膝の上のリゼットを抱き締めた。痛いくらいの力だった。
シャリエの腕の中で、リゼットは違うことを考えた。
ジスランとはまるで違う。あんなに、壊れ物を扱うように優しく触れたりはしない。
「リゼットの生涯」
短く、シャリエはやはりとんでもなく大きなものを要求してきた。
痛い、とリゼットが呻くと、やっと力を緩めてくれた。
「ごめん」
ごめんとシャリエは謝るけれど、ひどいのはリゼットだ。
何か急に苦しくなってきて、胸が詰まった。声が出なくて、かぶりを振る。
頭を空っぽにして、立ち上がった。シャリエも砂を払いながら立つ。
「行こうか」
シャリエが促すまま、二人でまた歩き出した。
この道の先に望んでやまなかったものが待っている。それにしては、足取りがひどく重い。
長い距離を歩いたのが久しぶりで、そもそも歩きやすい靴ではなかったせいもあり、しばらくするとリゼットは靴擦れに苦しむことになった。ひょこひょこと歩いていると、シャリエが立ち止まった。
「足が痛いのか?」
「大丈夫」
とっさに、考えるよりも先に答えていた。本当は痛いし疲れたけれど、そんな程度の弱音は吐けない。
リゼットのやせ我慢をシャリエは眉を顰めながら聞いた。
「馬車を借りてくればよかったな」
御者をしていたシャリエなら操縦はお手の物だとしても、馬車そのものが高級品だ。庶民には過ぎた代物なのに、庶民のリゼットが馬車に乗せてもらってばかりいたから、足がこんなにも軟弱になったのかもしれない。
「平気」
我慢に慣れているリゼットは、これくらいならまだ歩けると思っていた。だから、シャリエがリゼットの手をつかんで止めたことに驚いた。
シャリエは不機嫌に見える。
「平気だとか、大丈夫だとか、そんなことばかり言ってないで、もっと頼ってくれ」
甘えるのが下手なリゼットだ。自然とそういうことができない。
けれど、それがリゼットなのだと承知してほしい。本当につらくなったら頼ることがあるとしても、できることは自分でしたいし、まだ平気だと思っている。
甘えるのが苦手で、それをするとかえってつらくなる性格を承知で好きだと言ってほしかった。
「頼るの、苦手なの。でも、今回は頼ってる。シャリエがいないと復讐ができないから」
――こんなことしか言えない。心底、自分が嫌になる。
今、リゼットを動かしているのは本当に復讐心なのだろうか。
ただ単に、後に引けなくなっているだけではないのか。
目の前の現実から逃げるために、復讐を理由にしているのとは違うと言えるのか。
復讐を成し遂げて抜け殻になったリゼットがそばにいて、シャリエが幸せになるとは思わない。
シャリエはそばにいればいつか、リゼットがシャリエの想いに応えてくれる日が来ると考えているのかもしれない。けれど、リゼットにそんな保証はできない。
シャリエがリゼットの手を強く握った。痛みに顔をしかめてしまった。
「リゼットはこれから俺と生きていくんだ。俺がリゼットにとって特別だって教えてくれ」
不安にさせるのは、リゼットの言動だろう。
リゼットがこの調子では、利用して捨てられると思っても仕方がない。復讐に付き合わせるのなら、シャリエが望むように生涯共にいるつもりはある。
シャリエと結婚して、平凡な家庭を築いて――。
けれど、その平凡な暮らしの中で、ふとした瞬間に色んなことを思い出しそうだ。そのたびに泣いているかもしれない。
それが、リゼット自身がが選んだ道だとしても。
リゼットはシャリエを見つめ、頬に手を添える。シャリエもその手を取った。背伸びをすると、靴擦れの足が痛んだ。リゼットの髪とシャリエの髪が触れ合う。
この時、リゼットはまた思い出していた。
唇が触れるほど近くにあった端整な顔。額にかかった金髪。
あの瞬間、嫌だという気持ちはなかった。それよりも、触れる前に離れたことを寂しいと感じた。
それは恋とは違うのか。
今、シャリエにあの気持ちを抱いているのか。
義務のようにして触れる行為に気持ちは籠らない。こんなことは無意味だ。
それどころか、余計にシャリエを傷つける気がした。
共にいるつもりでも、心は遠くに馳せている。それは共に生きるとは言えないのではないのか。
リゼットは、背伸びするのをやめてうつむく。そのまま地面にへたり込むと、涙が止まらなくなった。
悲しいのか、情けないのか、苦しいのか、この涙にはどんな理由をつけたらいいのだろう。
「ごめんなさい」
何もかもが嫌になって、このまま雪のように地面に融けていきたくなった。復讐はしても、しなくても、リゼットの心が健やかになることはないのだ。
醜い心はリゼットのものだから。リゼットがリゼットでいる限り、幸せとは縁遠い。
地面に手をつけて泣いているリゼットに合わせ、シャリエは膝を突いた。怒っている様子はない。
「俺こそごめん。行こう」
シャリエの方がリゼットを追い詰めてしまったと思ったのだろうか。声が苦しそうに聞こえた。もしかすると、無理を感じているのはリゼットだけではないのかもしれない。
この時、蹄鉄と車輪の音が聞こえた。とっさに音のする方に目を向ける。道なのだから馬車が通ってもおかしくはないのだけれど、来た方角と見覚えのある車体にギクリとした。
乗っているのは、ジスランかロジーナだ。
リゼットは慌てて立ち上がったが、馬車の進みは速い。速度が出ているから、むしろすぐに停まれないかと思ったけれど、そこは慣れた手綱さばきで徐々に速度を落とした。
逃げたい。
逃げたとしても馬車から逃げ切れるはずがないのに。
シャリエはリゼットを庇うようにして立った。そのそばに馬車が停まる。やはり、御者の顔には見覚えがあった。停車した馬車の扉が勢いよく開いた時、リゼットは思わず目を閉じた。




