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逆襲の花嫁  作者: 五十鈴 りく


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29/52

✤29

 リゼットがベッドに横たわっていると、ドアをノックされた。またジスランかと思ったが、それだけでもなかった。見知らぬ人を連れている。


 眼鏡をかけた、四十歳くらいの男性だ。癖のある淡い色の髪を後ろで束ねているのが山羊の尻尾のように見えた。白いシャツにループタイ。誰だろうか、この人は。

 ぼうっとそちらに目を向けていると、ジスランが低く心地よい声で言った。


「リゼット、こちらは医師のセネヴィル先生だ」


 医者だということらしい。本当に、たいしたことはないただの風邪なのだから、寝ていれば治るのに、わざわざ呼んでくれたようだ。

 また余計な出費をさせてしまったかと思うと苦しい。


 セネヴィルはニコニコとリゼットに語りかける。


「こんにちは。リゼットさん、風邪気味だということですが、念のために診させて頂いてもよろしいでしょうか?」


 リゼットのような小娘にまで腰の低い人だ。ジスランの前だからというだけではなさそうだ。


「は、はい。お願いします」

「では、ちょっと失礼します。口を開けてください」


 言われるがままに口を開けると、セネヴィルはふむ、とうなずいて、それからリゼットの額に手を添える。カバンから筒のような器具を取り出し、リゼットの胸に軽く押し当てて心音を聞いたりして診察をする間、ジスランはずっと壁際で様子を窺っていた。

 セネヴィルはリゼットではなく、壁際のジスランを振り返って言う。


「風邪ですね。熱さましの薬湯を飲んで安静にしていればすぐによくなりますよ」


 やはり、ただの風邪だ。わかっていた。知っていた。

 むしろ、それ以外の病名がつくとはまったく考えていない。


 ですよね、とリゼットは心の中で思った。

 それでも、ジスランはどこかほっとしたように見えた。その表情に、胸がトクリと鳴った。

 本気で心配してくれているのがわかるから、多分、嬉しかったのだ。セネヴィルに心音を聞かれている時でなくてよかったと心底思う。


「そうですか。ありがとうございます」


 壁から背を浮かせ、セネヴィルの正面に来るとジスランは彼に微笑みを浮かべる。セネヴィルは、一度リゼットの方に視線を落とすと、それからジスランに向き直った。


「詮索するつもりはないのですが、彼女とは親密な間柄なのですね?」


 こんな状況なら誤解も招く。当たり前なのに、ジスランはそれに気づかなかったのだろうか。少し驚いたふうにも見えた。

 リゼットは違うと答えようとしたけれど、寝転びながらだったので答える前に咳込んでしまった。ゴホゴホ、と咳をしていると、ジスランがリゼットの背中を摩る。


「リゼット、大丈夫か?」


 その行動は誤解に拍車をかけただけである。

 セネヴィルは二人が親密な関係だと結論づけたようにしか思えなかった。眼鏡を押し上げつつ、小さく息をつく。


「そうでしたか。いや、()()()()時も経ちました。ジスラン様の前途が光に満ちておりますよう、私もお祈り申し上げます。では、お大事に」


 誤解が解けないまま、セネヴィルが出ていってしまった。

 ――二度と会わない人であってほしい。それなら誤解を受けたままでリゼットは関わらないのだから。ジスランはまた会うだろうけれど。


 咳込み過ぎて涙を流すリゼットを、ジスランは心配そうに見下ろしていた。リゼットはやっとの思いで言う。


「あの、誤解されました、よ」

「え? ああ。まあ、セネヴィル先生とは度々顔を合わせるから気にしなくていい」


 誤解を解くことはいつでもできるということらしい。

 それならリゼットも気にしなくていいだろうか。


 背中をさする手が止まったかと思うと、ジスランはリゼットの額に触れた。熱を確かめているようだ。


「……もう少し寝るといい。後で薬湯を持ってくるから」


 そう言うジスランの笑みは柔らかく、本当に大事にしてくれていると錯覚を起こしそうだった。

 けれどこれは、リゼットの風邪に責任を感じるからで、それが癒えたら終わるのだろう。この微笑みがリゼットに向くのも今だけだ。


「はい――」


 リゼットは大人しく答えると目を閉じた。

 目を開けていると落ち着かない。別世界の人が、リゼットの世界の中にいるかのような気分になる。

 それは違うのに。

 リゼットの世界には闇と泥しかない。そんな世界にジスランのような人はいないはずだから。



     ✤



 そのまま眠っていたリゼットは、ドアが開く音で目を覚ました。窓の外から夕陽が漏れているから、思いのほか長く眠っていたようだ。そのおかげで少し楽になった気もする。


 ジスランはトレイの上に嫌な臭いのする薬湯を載せていた。薬だから臭くても仕方ない。

 リゼットがうっすら目を開けていると、ジスランはトレイをテーブルの上に置き、そのテーブルごとベッドのそばに運んできた。


「薬湯だ。飲めるか?」

「飲みます」


 薬は高価だから、ありがたく飲む。不味いとしても。

 すると、ジスランは薬湯と共に持ってきた器を手に取る。その中にはチェリーが宝石のように輝いていた。


「薬湯を飲んだ後はしばらく口の中に味が残るから、口直しに持ってきた。果物、好きだろう?」

「え、ええ」


 果物は好きだけれど、どうしてジスランがそれを知っているのだろう。驚いていると、ジスランがリゼットの肩に手を回し、上半身をゆっくりと起こした。その手を離さないまま、薬湯の入ったカップをリゼットの口元へ近づける。


 リゼットはそれに手を添え、少しずつ慎重に、むせて吐き出してしまわないように飲んだ。気を抜くと吐きそうな匂いだった。リゼットが全部飲んだのを確認すると、ジスランはそのカップをテーブルに戻した。ジスランの支えがなくなっても、リゼットは座っていることくらいできる。

 ジスランはチェリーの入ったガラスの器をリゼットに手渡すと、優しく微笑みかけた。


「よく頑張ったな。これでよくなる」


 そう言って、まるで子供にするみたいにして頭を撫でてくれた。

 その途端、リゼットは何故か急に込み上げてくるものがあって、気づけば泣いていた。


 いつも、苦しくても泣かなかった。歯を食いしばって耐えることができていた。それが今、容易く零れ落ちている。

 どうして止められないのか、自分でも不思議なくらいだ。


 何故リゼットが泣くのか、ジスランにわかるはずもない。急なことで慌てている。


「リゼット、どうした? 苦しいのか?」


 リゼットはとっさに答えられずにかぶりを振った。チェリーを太腿の上に下ろすと、ネグリジェの袖口で涙を拭った。


「いえ、こんなふうに親身になって看病してもらったのは久しぶりだと思ったら、急に――」


 子供の頃、リゼットが寝込めば両親が寝ないで看病してくれた。食欲がなくて何も要らないと言っていたリゼットがオートミールをひと口食べただけで大騒ぎして喜んでくれた。

 そんな懐かしい記憶を思い出すくらい、ジスランはリゼットを大事にしてくれた。今は申し訳ないという気持ちよりも嬉しいという感情が勝っていた。


 だから、急に涙が止まらなくなった。

 こういう時に人は泣くのだと、身をもって知った。

 今だけは余計なことは考えず、ジスランに感謝していたい。


 ジスランは柔らかく微笑んでくれているかと思った。けれど、この時、ジスランは笑っていなかった。どちらかというと表情がない。

 ゆらりと首が揺れたかと思うと、ジスランの顔がリゼットの顔の前にあった。肩に手が載る。


「っ!」


 リゼットはその近さに目を瞑ってしまった。とても直視できない。

 その時、こつん、と額にジスランの額が合わさる。


「……熱は、まだある、な」


 そんなことを言った。今のでかえって熱が上がったような気がする。

 ジスランが離れた気配があり、恐る恐る目を開けるが、その時ジスランは顔を背けたところだったので表情は見えない。


「薬を飲んでもすぐに効くわけじゃないか」


 淡々とした声ではあった。急に機嫌を損ねたように思えたのは気のせいだろうか。

 ジスランは窓際に行くとカーテンを引き、それからさっさと扉の方へ行く。


「それじゃあ、あとはゆっくり休むといい。おやすみ」


 それだけ言い残して去った。

 リゼットは、口の中に残る苦さと共に言いようのない感情を持て余した。

 さっき、あんなに近づいたジスランが急に離れたのは、リゼットのせいかもしれない。リゼットがジスランに対して過剰に意識をしたから。


 ジスランがリゼットに触れるのは看病だ。そこに特別な意味はないはず。

 それなのに、さっき、唇が触れそうだった。勘違いだと、そんなはずはないと、ジスランが最後に態度で示したような気がして、リゼットは少し落ち込んだ。


「そんなわけ、ないのに――」


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