✤25
それから、リゼットの心を反映したかのように天候が崩れる日が続いた。
雨と風とが、薔薇の咲き誇る美しい庭を乱す。
「この時季には珍しい嵐ね」
ロジーナも憂鬱そうにため息をついた。しかし、それ以上に、口数が減って物思いにふけっているのがジスランだ。常に窓の外を見て難しい顔をしていた。
初めはリゼットのせいかと思って気にしたが、ロジーナがこっそりと教えてくれた。
「兄様は庭が気になるだけよ」
綺麗に咲いた花が風に煽られ、雨に打たれて無残なことになっているかもしれないと気を揉んでいるらしかった。よほど大事なのだろう。
――あれから、この嵐のためかシャリエは来ていない。また来るとは言ったものの、とても来れたものではないだろう。
そのことに関しては少しほっとしていなくもない。
「こう雨が続くと憂鬱だわ」
「ロジーナにはやることがたくさんあるでしょう?」
もうすぐ花嫁になるロジーナは、ただでさえ忙しい。雨だからといってそれは変わらないはずだ。
「だからこそ、息抜きに庭でティータイムくらいしたかったわ」
と、唇を尖らせている。
けれど、この暴風雨があって身動き取れないのはリゼットも同じだ。この嵐が過ぎ去るまでどこへも行けない。
嵐を理由に、まだここにいる。
この雨がやんだら町へ出て仕事を探そう。リゼットも窓を殴りつける雨を眺めつつそれを決めた。
✤
しかし、その日、あまりに風の音がひどくてリゼットは寝つけなかった。
風の音が嘆きの声のようで、夢見が悪かった。悪夢から解き放たれて飛び起きた時、リゼットは泣いていた。
起きている時は我慢している分、寝ている時に泣いてしまう。泣かないと自分が壊れてしまいそうだから、勝手に体が涙を零すのだろうか。体も汗を掻いて冷たくなっていた。
リゼットはベッドから抜け出すと、なんとなく窓辺から外を見た。横殴りの雨が降り、風が窓をカタカタと鳴らしている。
そんな中、ふと、窓の下に灯りが見えた。
こんな夜更けに。
灯りは外でフラフラと揺れている。カンテラの火なら風に消されないとしても、それを持って人が移動していることになる。こんな時間にまともな来訪者がいるはずがない。
こっそりと忍んできたのだとするなら、それは何故だ。
まさかとは思うけれど、シャリエだろうか。
昼間ならば追い払われるかもしれないと、夜分にやってきたなんてことがあるだろうか。
しかし、これでは捕らえられて牢に入れられても文句は言えない。そうなる前に帰らせるべきだろう。
リゼットは薄いネグリジェの上にケープを羽織ると、部屋にあったカンテラに火を灯して廊下に出た。そぅっと、音を立てないように歩く。誰もが寝静まっているはずの深夜だ。
風の音が少々の足音なら消してしまう。ただただ、闇がうすら寒く感じられた。こうしていると、アダンの屋敷の地下に閉じ込められていた時を思い出す。
あそこでは、自由に灯りを灯すことができなかった。すべてのことはアダンが決め、リゼットは暗闇に置き去りにされてしまうこともしばしばだった。
そんなことを思い出すと、また夢に見てしまう。投獄されたはずのアダンだが、リゼットの夢の中には何度も訪れるのだ。
階段を一段ずつ慎重に下りていく。
すると、中庭に続くテラスの入り口のカーテンが開かれていた。誰かが出入りした痕跡がある。
リゼットはカンテラを足元に置き、カーテンの裾からガラス扉の鍵を見た。鍵が開いている。
すでに誰かが入ってきた後なのかと思ったけれど、それにしてはあまり床が濡れていない。
これが意味することはなんだろうかとしばらく考えていると、急に灯りを近くに感じた。暗闇の中、フードを目深にかぶった大柄な男が灯りを手にテラスの入り口を開けたのだ。
風がものすごい勢いで入り込み、リゼットはカーテンにしがみついてしまった。その隙に男は屋敷に難なく入り込む。
「あっ……」
シャリエではない。
雨にさらされて全身ずぶ濡れの男の服から水が滴る。リゼットは、思わず膝を突いて悲鳴を上げかけた。その途端、男は機敏にリゼットを引き寄せ、手で口を塞いだ。それは強い力だった。濡れそぼった男とぶつかり、リゼットのネグリジェにも水気が染みた。
んん、とリゼットが呻くと、男は困惑しているようだった。
「す、すまない。こんな時間に起きていると思わなくて」
その声を聞き、リゼットは思考が鈍るのを感じた。シャリエではない、ジスランの声である。
ジスランの背後には、同じようにずぶ濡れのフィンがいて、二人の横で思いきり体を振って水気を飛ばした。
「あっ、こらっ」
ジスランはすでに濡れているが、この水飛沫はしっかりとリゼットを濡らした。灯りに照らされたフィンはすっきりした顔であったが、リゼットから雫が滴る。
「リゼット、すまない」
慌てたジスランがリゼットの口から手を放して、自分が着ていた上着を脱いでリゼットを拭こうとしたが、そんなもので拭かれたら余計に濡れるだけである。
ジスランもそれに気づき、焦っていた。いつも澄まして見えるだけに、濡れそぼった上に取り乱しているジスランは珍しかった。それに驚きつつ、リゼットは声を潜めて訊ねる。
「すみません、その、こんな時間ですから不審者かと思ってしまいました」
そう勘違いされても仕方のない行いである。ジスランはどこか恥ずかしそうに見えた。
「いや、あまりにも雨風がひどくなってきたので、気になって庭の様子を見てきた。庭師があちこち補強してくれてあったが、やはり天候ばかりはどうにもならないな」
「こんな時間にですか?」
思わず言ってしまうと、ジスランは少し気まずそうにつぶやいた。
「日中より夜になって風がひどくなったからな。それと、ロジーナに見つかると、当主がそういうことをするなとうるさい」
庭を気にしているのは知っていたけれど、嵐の中、こんなにずぶ濡れになってまで見に行くとは思わなかった。いつも見栄えのいいジスランが、こんなふうに乱れているところは想像しにくいくらいだ。
今のリゼットもぐっしょりと濡れてしまったので人のことは言えない有り様だが。
話をしている二人のそばでフィンが構ってほしそうにしていた。リゼットに顔を寄せると、頬をペロリと舐める。これは濡らしてしまった罪滅ぼしのようだ。くすぐったいのもあって、リゼットは笑っていた。
フィンは、リゼットが喜んでくれていると思ってか、そのままペロペロと顔を舐める。
「フィン、くすぐったいよ」
クスクスと笑い声を立てていたリゼットだが、大型のフィンがそのままじゃれつくと支えきれない。床に転がってしまった。
「こら、調子に乗るな」
主であるジスランが言うと、フィンは名残惜しそうにリゼットから離れてジスランの背後に回った。そうなると、リゼットは床に倒れているだけであり、急に恥ずかしくなる。
「うちの犬たちはやたらと君に懐いているな?」
ジスランはそんなことを言いながらリゼットに手を差し伸べる。自分で起きれますと言う前にジスランの手が目前にあったから、リゼットは手を借りるしかなかった。
おずおずと手を重ねると、ジスランは柔らかく笑った。今まで、何度か微笑を向けられたことはあったけれど、この時の笑顔はどこか無邪気な少年のように見えた。
こんなにずぶ濡れになって恰好をつけても始まらないと思うのか、悪戯が露見した子供にも似た笑顔で、そんな表情をする人だったのかとリゼットは意外に思った。けれど、いつもの整いすぎた容姿よりも親しみやすさを感じる。
「犬が好きなんです。メイドを辞めたら老後は犬のいる生活がしたいってずっと考えてました」
だからか、つい余計なことを言ってしまう。
「もう老後まで待たなくても飼えるだろう?」
「そうですね。でも、まずは自分が食べていけるだけ稼げるようにならないと」
ジスランにつかまりながら立ち上がる。しかし、床が濡れているのを忘れていた。
「ひゃっ」
へんな声を上げて滑ったリゼットを、ジスランがとっさに抱き留めてくれた。
ジスランの服からリゼットのネグリジェに水気がじわじわと移っていくのを感じた。それくらい密着している。
ジスランの手がリゼットの腰を支えているのだが、ネグリジェは薄くて、濡れた布一枚を隔ててそこにジスランの手があるというのは、リゼットにとって災難でしかない。
ここへ来て美味しいものをたくさん食べさせてもらった。意外と腰回りに肉がついているとか思われていたらどうしようか。
「大丈夫か?」
そう言ってジスランはすぐに手を離したけれど、リゼットは恥ずかしくてうつむいてしまった。
「は、はい。すみません」
「悪いのはこっちだ。怪我がなくてよかった」
ほっとしたような息遣いと共にそう言ってくれたけれど、なかなか顔が上げられない。しかし――。
顔が見れないからといって、ジスランの濡れて張りついたシャツばかり見ているのもまずい。
肌が透けて見える。体は無駄なく締まっていて、名工の手による彫像のようだ。
じっくり見ていると思われてはいけない、と目を逸らそうとした。
その時、ふとジスランの濡れたシャツの下、脇腹に傷跡があるように見える。刃物が突き刺さったような、短いけれど深そうな傷だ。騎士なのだから傷くらいあっても不思議はないけれど、それが気になったのは、ロジーナからあんな話を聞いた後だったからかもしれない。
――あのね、私も強い恨みを持った女性を知っていたの。復讐というか、逆恨みなのだけれど、彼女はその恨みのまま行動に移したわ。相手を刺したの。
刺されたのは、この人なのか。




