✤23
心の綺麗なロジーナや恩人のジスランにまで、リゼットは醜い感情をさらしてしまった。それが苦しくて、いてもたってもいられない。
もう二人に合わせる顔がないような気がして、一刻も早くこの屋敷の敷地から逃げ出してしまいたかった。
ここから遠ざかりたい一心で走っても、引きずるほどに長いスカートでは思うように動けない。スカートの裾を持ち上げ、必死で駆けた。
行く当てなんてないくせに、それでも。
本音は、このまま野垂れ死ぬよりもロジーナたちに軽蔑される方が耐えられないと、それだけのことだったかもしれない。
振り向かずに走っていると、誰かが駆け寄ってくる軽快な足音がした。多分シャリエだと思ったから、リゼットは振り向かず、立ち止まりもしなかった。
このままでは追いつかれてしまう。
ただ、リゼットは走った。それでも、その足音は容易に追いつき、リゼットの肘をつかむ。
「リゼット!」
その声はシャリエではなかった。ジスランだ。
肩で息をしているリゼットとは裏腹に、息ひとつ乱れていない。
リゼットはというと、髪を乱してひどい有様だ。もともと結びにくい髪だから、リボンがするりと解けて落ちる。それをジスランが拾った。
ジスランはこんなリゼットに何を言うのだろうか。考えただけで怖くなった。
リボンを差し出すジスランの顔を見ることができなかった。それでも手を伸ばしてリボンを受け取ろうとしたリゼットだったけれど、ジスランの手の上のリボンに指をつけた時、ジスランは開いていた手を閉じる。
「っ!」
ジスランに手を握られ、リゼットは驚いて顔を上げた。すると、今度はジスランがリゼットから顔を背けるようにして、リゼットの手を引いたまま歩き出した。
「おいで、リゼット。薔薇を見せてあげよう」
薔薇を――。
今、この時に。
シャリエが相手なら要らないと言って突っぱねるけれど、ジスランにそんな失礼なことはできない。
「あっ」
手を引かれるままに歩くしかなかった。
ジスランと手を繋いでいるということがリゼットには信じ難かった。これにはなんの意味があるのだろう。
しかも、あんな発言の後にだ。薄暗い感情を抱えるリゼットの手を優しく引いてくれる。
ジスランはそれでも、リゼットが可哀想だと同情してくれているのかもしれない。ロジーナもジスランも、根っから心が綺麗なのだ。だから、恨みを抱くリゼットをただ可哀想だと思っている。そういうことだろうか。
それなら尚更つらいのに。
そんな二人とはまるで違うリゼットだから、そばにいるのがつらい。
リゼットの心をジスランはどこまで感じ取っているのだろう。リゼットの方を見ずに歩いていた。それでも、時折声をかけてくる。
「薔薇は繊細な花だから、手はかかるし虫にも食われやすいが、その分咲いた時の喜びは格別だ。このパウダーピンクの薔薇はエウリディーチェ。波状の花びらが繊細で綺麗だろう? 強い芳香がするから、より存在感がある。毎年、あれが咲くのを楽しみにしているんだ」
申し訳ないけれど、今は花を愛でる余裕なんてどこにもない。慰めのつもりなのだろうけれど、ジスランの言葉がまったく頭に入らなかった。
だからか、ジスランと手を繋いでいてもリゼットはどこか冷めていた。何をやっているんだろう自分は、という気分になるだけだ。
心は少しも浮かれることなく沈んでいる。まるで、澄んだ湖面に落ちた石ころのようだ。
頑なで、醜い。
ジスランの言葉に、はい、とだけたまに答える。けれど、まったく気が乗らない。ただ苦しかった。
リゼットの声が暗いからか、ジスランは薔薇の話をするのをやめた。
気を遣っているのに失礼な娘だと思ったかもしれない。
それでも、リゼットは嘘をつけないのだ。
「こっちにおいで」
ジスランはそう言って、薔薇から離れる。手をつないだままなのだから、そのまま引っ張られるようにしてリゼットもついていくしかなかった。
庭のベンチに座らされた。そうして、ジスランもその隣に座った。
かと思うと、ジスランはリゼットの手を放すどころか、もう片方の手も握った。さすがにこれには驚いてリゼットは慌ててうつむいた。
そんなリゼットのつむじにジスランは語りかける。
「リゼット、聞かなかったことにするべきかと思ったが、やはりそれではいけないようだ。少し話そうか」
それは明らかに先ほどのシャリエとの会話だろう。カッとなって口走ったものの、軽はずみに言うべきではなかった。今さらそれを悔いても遅い。
「はい……」
助けてもらったばかりか世話になっている手前、無下にもできない。リゼットはしょんぼりと肩を落とした。
「つらいかもしれないが、『裏切られた』というのが何を指すのか、可能な限りで教えてほしい。命令ではないから、どうしても嫌だというのなら強くは言えないが」
ジスランがリゼットに逃げ道を用意してくれていることも感じたから、リゼットもその誠意には応えなくてはいけないような気になった。
語って、それで、『そんなものは使用人の立場上断れない。仕方がないことだ』とでも言って片づけられたら傷つく。ジスランはどう答えるのだろう。
それがわからないから、語るのは怖い。リゼットは感情の波に声が揺れるのを必死で抑えた。
「――ロッセル家のアダンから、私をもらい受けたいと申し出があったとメイド長から聞かされて、私は引き渡される前に逃げ出すつもりでいました。支度をして、同室の友達にだけそれを伝えたんです。そうしたら、その子は送別会だと言って使用人仲間と一緒に私に食事を振る舞ってくれました。でも、その食事には睡眠薬が盛られていて、私は眠ったままアダンに差し出されたんです」
やっとの思いでそれだけ言った。けれど、ジスランは無言のままだった。その沈黙が苦しくて、リゼットはさらに言葉を繋いだ。
「友達だと思うから教えたんです。その信用を裏切られたことが、アダンが私にした仕打ち以上に許せません。このまま何もなかったみたいにして忘れるのは悔しいから、私は裏切ったあの子たちに復讐をしないわけにはいきません」
それをなくして、リゼットの将来が明るく照らされる気がしない。
晴れやかな気持ちになって今後を生きるためには必要なことだから。
リゼットの感情の昂ぶりを、ジスランは繋いだ手から感じたかもしれない。小さくため息をつく音が聞こえた。
「それはつらかっただろう。結局、悪事は自らを滅ぼす。そんな連中はろくな目に遭わない。だから、被害者のリゼットがいつまでも苦しみに縛られることはない」
忘れてしまえとジスランは言うのだ。
やはり、この人もわかってはくれない。
誰も同じ目に遭わなければわかるはずもない。
リゼットが顔を上げたのは、下を向いていると涙が零れそうになるからだ。上を向いたリゼットは、ジスランを睨むような目をしていたかもしれない。
それでも、ジスランは責めるようなことは言わなかった。
「君は復讐よりも幸せになることを考えたらいい」
優しい目をして、ジスランはそんなことを言った。
復讐を成し遂げてこそ幸せを感じることができる。少なくともそう信じたいリゼットは呆然とした。
「幸せってなんですか?」
やっと言えたのはそんなことだった。
リゼットにとっての幸せは、リゼットが決めることではないのか。
一番の願いが叶うことを幸せと呼べないのか。
ジスランは困ったようにして目を閉じた。
「そうだな、それはロジーナにでも訊くといい。幸せそうだろう?」
「ええ、まあ……」
「では、気分が落ち着いたら戻ろうか。ロジーナも心配している」
リゼットは、消え入りそうな声で、はい、とつぶやいた。
この時、ジスランはそれ以上何も言わず、零れそうな涙を拭うリゼットの方を見ないように空を見上げていた。




