✤21
リゼットは、またこの屋敷を出ていく機会を失ってしまった。
まさかジスランまでもがまだいればいいと言ってくれるとは思わなかったのだ。ありがたいけれど、このままでは本当に外へ出た時に何もできなくなる。
二人は優しいから、つらい目に遭ったリゼットを甘やかしてくれる。それでも、それで一生生きていけるわけではないのだから、一人でなんとか生きられるようにならないといけない。強い自分にならないと、復讐もままならない。
この翌日、ロジーナは仕立て屋との打ち合わせがあって忙しかった。その間、リゼットは犬たちと散歩をすると言ってある。
二匹と戯れるのも楽しい時間なのだ。
――しかし、そこに思わぬ邪魔が入った。
「リゼットさん、お客様が訪ねていらしたのですが……」
メイドのラシェルがそう声をかけてきた。
最初、ロジーナの客人だからという理由から、『リゼット様』と呼びかけてきたので、それはやめてほしいと頼んでやっと『リゼットさん』と呼んでもらえるようになった。
リゼットよりも十五歳ほど年上だというし、呼び捨てでもいいくらいなのに。
彼女は生まれも育ちもエストレ地方で、両親は町で宿屋を営んでいるという。ちなみに、夫はこの屋敷の庭師である。
「お客様ですか? 私に?」
リゼットがここにいることを知っている人はそう多くない。大体、リゼットに用がある人がいるとも思えなかった。
「ええ。シャリエ・コンスタンさんと名乗られましたが」
シャリエ。
サンテールの屋敷で御者をしていた青年だ。
寡黙だが仕事はいつも的確で、主人からの信頼も厚かった。
御者は使用人たちの中で扱いが違う。メイドたちに比べれば格段大切にされているのだ。
それで他の使用人たちに偉ぶったり態度の悪い御者もいる中、シャリエにはそうした傲慢さはなかった。ただ淡々と職務をこなしていた。
だから、あまり口を利いたことはなかったかもしれない。
それでも、リゼットなりに彼を仕事のできる人だと評価していた。シャリエに憧れているメイドもいたようだった。
それで――そのシャリエが何故このエストレ地方にいるのだろうか。
もし本物だとするのなら、何をしに来たのかがまったくわからない。
自分に今更なんの用があると。
皆でリゼットを陥れたことを謝罪に来たというのなら、そんなものは受け取らない。
また沸々と怒りが湧いてくる。怒りというには生易しい、憎しみと呼ぶべきものが。
このまま会わずにやり過ごすのでは気持ちが収まらない。どういうつもりか話だけでも聞こう。
メロディからの伝言でも携えていたのなら、暴言を吐いてしまうかもしれないけれど。
「……会います」
そう答えた自分は薄暗い目をしていただろう。
ただし、主の許可なく他人を中へ通すわけにはいかない。シャリエが通されるのではなく、リゼットがシャリエが待つところへと向かうのだ。
ラシェルはリゼットを心配そうに送り出した。ジスランかロジーナに報告しに行くだろうか。
話は手短に終えたい。
表玄関の階段下に立っていたのは、リゼットの知るシャリエ当人だった。
ただし、いつもの御者の制服ではなく私服姿で、キャスケットを被っている。
シャリエは落ち着いた目をこちらに向けた。
表情が乏しく、感情が読み取れない。シャリエはいつもそうだ。
だから自然と身構えてしまう。
無言のままシャリエを睨みつけるが、睨み返しては来なかった。
「無事でよかった」
無事でよかったとは――。
我が身可愛さに皆で嵌めたくせに。
やはり、シャリエは謝罪に来たのか。
カッと頭に血が上るのを感じ、それを押し留めるのに必死だった。感情が昂りすぎて震えが止まらない。それをどう解釈したものか、シャリエは一歩前に出た。
「……あの日、俺は呼ばれなかった。知っていたら、何をしてでも止めた」
それを言われて、ハッと瞠目した。
確かにあの時、送別会と称した場にシャリエはいなかったかもしれない。顔を見た覚えはなかった。
シャリエは声をかけられなかったのだ。
彼なら加担しなくても立場が悪くなることはなかった。きっと断られるとわかっていて、誰も声をかけなかったのだ。
それならば、シャリエは敵ではないと言えるのだろうか。
急なことで、感情に整理がつかない。頭が考えることを拒んでいる。
シャリエが関わっていないとして、だからなんだというのか。メロディたちに対する恨みはそれでも消えないし、薄れない。
ひと言も口を利かないでいると、シャリエはどこか憐れむような目を向けてきた。
かと思うと、急に近づいてリゼットの手首をつかんだ。驚いてとっさに振りほどこうとしたけれど、強い力が込められている。
シャリエは静かに、それでも重みのある声で言った。
「屋敷を辞めてきた」
「えっ?」
「皆からリゼットがいなくなった理由を聞き出したんだ。それで、皆がリゼットに何をしたのかも知った。それなのに今まで通りあそこで働きたいとは思わない」
この人は、卑劣なことが許せない性質なのだ。
もし知っていたら止めたと今言ってくれたように、本気で止めようとしてくれたのかもしれない。
――けれど、もう遅い。
リゼットの心には消えない憎しみが渦巻いている。
「そうね。あんなところで働いても、私みたいに捨てられるだけだもの」
この後、シャリエがどうするつもりなのかは知らないけれど、自分一人くらいの面倒は見られるだろう。
刺々しいリゼットをシャリエは悲しそうに見つめた。
手を放さないまま、むしろ力を込める。
「リゼット、迎えに来たんだ」
最初、シャリエが何を言おうとしているのかがまったく理解できなかった。
それでも、シャリエは続ける。
「いつまでもここにいるわけにはいかないだろ? だから、一緒に行こう」
「……どこへ?」
「それはこれから考える」
いつまでもロジーナやジスランの厚意に甘えていられないのは事実だ。けれど、だからといってシャリエを頼る理由がない。
関わりのない二人が当てのない旅に二人で出るのは変だ。
何を言っているんだろうという目を向けたせいか、シャリエはこの時になって初めて照れたようにして目を背けた。
「ずっと、リゼットのことを見ていた。いつも人一倍働いているのに手は抜かなくて、そういうところがいいなって……。それで、旦那様の許しがもらえたらリゼットと結婚したいと思ってた。それが――」
と言葉を濁す。
正直なところ、開いた口が塞がらなかった。
まさかシャリエがそんなことを考えていたとは。
だから屋敷を辞めたのか。
他の皆はそれを知っていて、あの送別会にわざとシャリエを呼ばなかったという可能性も考えられる。
けれど、リゼットはシャリエをそういう目で見たことがなかった。
何を考えているのかよくわからない人だと、そんなふうにしか思っていなかった。真面目で仕事ができるから敬意は払っていたけれど、彼と夫婦になるなんて考えてみたこともない。
だから本当に唖然とするばかりである。
そんなリゼットの反応にシャリエは気づいていないのだろうか。マイペースに話を進める。
「リゼットのことは養えるように頑張る。嫌な思いをしただろうから、何も訊かない。嫌なことは忘れて一緒に暮らそう」
嫌なことは忘れて。
そんなことは簡単に言ってほしくない。
簡単に忘れられるのなら、とっくに忘れている。
その無神経なひと言に、シャリエの手を振り払おうとしながら思わず声を荒らげた。
「嫌な思い? したわよ、そりゃあね。メロディたちが私を売り渡したことを一生忘れない。友達だって信じてたのに、あっさり裏切って――それを忘れろっていうの? 嫌よ。絶対に復讐してやるんだって決めたんだから。私が嫌な思いをした何倍も、あの子たちも不幸になればいいのよ!」
これは呪いの言葉だ。
彼女たちが、リゼットは馬鹿だと嘲り笑った分だけ不幸になればいい。
ただ、こんなことを口にする自分自身を好きになれるはずがない。人を呪えば自分もそれ相応に汚れていく。
リゼットには幸せになってほしいとロジーナは言ってくれるけれど、こんな思いを抱えたままでどうしたら幸せになれるのかがわからない。
だから結局、リゼットは復讐によって得られるカタルシスだけを追ってしまう。
こんなことを聞かされても、シャリエはリゼットを軽蔑しなかったのだろうか。
つかんでいる手をさらに引き寄せる。
「リゼット、もういいから。ごめんな、助けてやれなくて――」
シャリエが謝るのは傲慢だ。善意とは違う。
リゼットにとってシャリエは特別な存在ではないのに、そういうふうに振る舞うのは違う。
そこにも腹が立って、シャリエの胸を押して抵抗した。
「やめてよ。もう帰って!」
涙が滲むのは、いろんな感情が入り乱れて整理がつかないからだ。
シャリエは無神経だ。
悪い人ではないのだとしても、少しも愛しくはない。
もしくは、自分の方が人として欠けているから、誰も受け入れられないのかもしれない。
きっと、誰のことも好きにはならない。多分、なれない。
――この時、リゼットは自分のことに精いっぱいで周りが見えていなかった。
すぐそばまでジスランとロジーナが来ていることにも気づけなかった。シャリエがリゼットをつかむ手を緩めたのは、二人に気づいたからだった。
ハッとして二人に顔を向けると、二人とも神妙な面持ちだった。特にロジーナが悲しそうに見えたのは、リゼットが復讐などと口走ったのを聞いてしまったからだろうか。
この二人には醜い感情をさらけ出したくなかったのに。
やはり人を呪えば我が身に返るということだ。
緩んだシャリエの手を振り払うと、リゼットはその場から逃げ出した。




