✤18
ジスランがロッセル家絡みの仕事を一段落させたのは、ロジーナとリゼットと別れてから十日ばかり経ってからだった。そうは言っても、すべて綺麗に片づいたわけではない。
アダンはろくに話をしようとしないらしいし、母親も毎日祈りの言葉をつぶやくばかりで精神が不安定だという。父親も回復には程遠い。使用人たちの証言だけはしっかりと取れたので、裁判をしたところでアダンたちが無罪放免になる確率はまずない。
リゼットにとってはその方がいい。アダンが野放しになったのでは生きた心地もしないだろうから。
もともと、ジスランはロジーナの結婚式までの長期休暇を願い出ていた。その前にアダンたちを捕縛して一段落だ。
バディストと一緒に休暇をもらい、エストレ地方に向かっている。
休暇中、庭の手入れをしたい。ずっと仕事で構えなかった。お抱え庭師がいるのだから、ジスランがしなくてもよいのだけれど、植物に触れている時間が好きなのだ。ゆったりと、何も気にせずにいられる貴重な時だ。
休暇中はアダンのことも忘れていたい。
休暇を前に上機嫌だったジスランだったが、バディストはもっと嬉しかったようだ。今にロジーナと結婚するのだから。
「なあ、あれからロジーナは手紙ひとつくれないんだ。冷たくない?」
「そんなの、今始まったことじゃないだろう?」
冷たいというわりに顔はにやけている。
ロジーナは、どちらかと言えば男勝りなのだ。愛しい婚約者へつらつらと手紙を書くようなしおらしさは持ち合わせていない。きっと、馬に乗って青空の広がる牧草地を駆け回っていることだろう。
それはそうなんだけど、とバディストはつぶやく。
「でも、ほら、今はリゼットがいるから、彼女の相手で忙しいんじゃないか? 俺のことを忘れてるわけじゃないはずなんだけど」
この時になってジスランはようやく思い出した。あれから十日も経つけれど、まだいるのだろうかと。あの御者の青年のことを教えてやりたいとは思うから、いてくれてもいいのだが。
「結婚するくせにそれくらいで忘れられてたら、先が思いやられるな」
思わず笑ってしまったけれど、バディストは気分を害すどころか終始嬉しそうである。
「早く結婚したいなぁ。ロジーナの花嫁姿、綺麗だろうなぁ」
とにかくのろけたいらしい。ジスランはバディストのつぶやきを聞き流すことにした。
しかし、バディストはしつこく言った。
「本当はもっと早くに式を挙げたかったんだけどな。なんせロジーナはお前の心配ばっかりだから」
妹から心配されるほどに情けないつもりはない。心外だ。
しかし、ロジーナが心配してしまう理由もまったくないわけではないのだ。
「気にしなくていい。さっさともらってくれればいいんだ」
強がりでもなんでもなくそう思う。ロジーナの幸せが第一だ。
すると、バディストは目を細め、なんとも生あたたかい目をした。
「お前が嫁をもらえば問題ないのになぁ」
後はもう、断固として聞き流した。
余計なお世話である。
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それから、ジスランは自らの屋敷に馬車で乗りつける。
実を言うと、今日戻るとは一切連絡しなかった。ジスランは連絡無精であり、いつもそうなのだ。唐突に帰ってきては使用人たちを困らせている。今日もまた、皆が慌てていた。
「旦那様、本日お戻りのご予定でございましたか。バディスト様もようこそおいでくださいました」
さすがに家を取り仕切る家令は慌てた素振りを見せない。グレーの髪も髭も、いつも乱れなく整えている。
「ああ、急ですまないな」
「俺は自分の家に戻るけど、ロジーナに会っていこうかと思って」
バディストが言うと、家令はすかさずメイド長に指示を出した。
「お嬢様をお呼びして参りますので、どうぞ応接室の方でお待ちくださいませ」
「ありがとう」
そんなやり取りをしているうちにジスランは自室に向けて歩き出した。
「旦那様、あの――」
「ああ、先に着替えてくる」
「左様でございますか。では、お支度を」
「いや、勝手に着替える。構うな」
「はい、承知致しました」
ようやく一人になり、ジスランは休暇に入ったのだという気分になれた。着替えの介助が入ると、コテコテとした恰好をさせられるのがわかっているので断ったのだ。ジスランは楽な恰好で過ごしたかった。そう、汚れてもいいような。
自室で制服を脱ぎ捨て、シャツと焦げ茶色のパンツ、ブーツに着替える。こんな格好をしてると、まるで庭師だ。庭いじりをしたかったので、これで合っている。
使用人たちは屋敷の主の道楽をよくは思っていないかもしれないけれど、立場上何も言ってこない。
バディストとロジーナはしばらく放っておいてもいいだろうし、少しの時間、庭いじりをして過ごしても文句は出ないはずだ。
――そういえば、フィンとフリーゼがいない。
いつもなら、ジスランが帰還すればすぐに駆けつけてくれるのに。
ロジーナといるのか、毛の手入れ中かのいずれかだろう。また後で顔を見られたらいい。
このエストレ地方には、三百を超える薔薇の品種がある。
ジスランが庭に植えているのはおよそその三分の一にも満たないところだ。さすがにそこまでは手が回らない。今の時季は大輪の薔薇が多く、花弁は縁にかけて濃い色合いをしていたり、その逆であったり、ひと口に薔薇と言っても多種多様だ。新しい発見もあり、楽しい。
正直に言って、騎士よりも庭師でいたい。隠居したら薔薇とだけ向き合っていようと思う。
こういう姿をロジーナに見られると口うるさく小言を言われる。庭師の仕事を取るな、背中を丸めるな、と本当にうるさい。そのロジーナのことはバディストが足止めしてくれているのだから助かる。
ジスランは浮足立ったまま、庭の薔薇たちを指でなぞった。ベルベットのような質感の花が愛しくてたまらない。
どの花も見事に咲いていて、庭師の給金を上げてやろうと思った。
手折って花瓶にいけるのではなく、庭に咲いていてこその花だ。この光景を大事にしていたい。
ジスランはこの時、薔薇に夢中であり、薔薇しか見ていなかった。だから、急に物音がしたように感じられたけれど、本当はジスランよりも先に、その場所に彼女はいたのである。
「やだもう、なんでこんなに可愛いの? 天使? 芸術? ああ、もう例えようがないわ」
うん? とジスランは垣根の向こう側から聞こえてくる声に耳を疑った。なんだろうか、今の甘ったるい声は。
自分の庭に、そんな言葉を発しそうな心当たりがない。誰かが遊びに来ているのか。
向こう側を覗き込もうとしたが、エストレ地方の領主にして騎士でもある自分が客人に挨拶できるような恰好ではないと気づき、やっぱり隠れた。今の言動から、その女性は赤ん坊でも連れているらしい。
ロジーナが招いたとして、どこの夫人だろうか。
一応、確認だけしておこう、とジスランはこっそり垣根の裏側から覗いた。そんな様子を見ていたら、またロジーナに説教されたことだろう。長身をかがめ、見遣ると、そこにいたのは銀髪の娘、リゼットであった。
滞在している可能性もあったが、この甘ったるい声と常に悲壮感を漂わせていた彼女とではあまりにも結びつきが弱かったのだ。リゼットが抱きついているのは、ジスランの飼い犬、フィンだ。膝に載っているのも犬で、小型犬のフリーゼだ。
天使、芸術。例えようのない何かとはうちの犬のことなのか。
しかも、フィンもフリーゼも、主であるジスランがすぐ近くにいるというのに、リゼットにべったりである。あの懐きっぷりはなんだろうか。
しかし、それ以上にジスランが驚いたのは、リゼットだ。
フィンの白い毛に埋もれながら、ウフフ、とそれは嬉しそうに笑っている。かなり悲惨な目に遭ったというのに、この数日でここまで回復するものなのだろうか。
ただ、本当に幸せそうに見えた。うっとりと夢見るように笑っていて、その笑顔を見ていると、ジスランは不思議な気分になった。
あんなふうに笑う娘だったのか。
もともと、アダンに目をつけられたのだから、容姿は整っている。けれど、笑顔を作るのが下手だった。あまり笑わない娘なのだと決めつけていたのかもしれない。
それが、あんなにも自然に、柔らかく笑っている。
誰もいないから気を張らないのだ。それを盗み見てしまったのはジスランの方か。
覗き見はあまり褒められたことではないけれど、その様子を可愛いと微笑ましく思った。




