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――リゼットたちが馬車を急がせて追いかけても、ジスランはそれを待たずに王都へ向けて行ってしまったのだ。伝言を託された従士からそう聞いた。
「鍵を手に入れるためにはアダンと接触しないといけなくて、この搬送中に逃げられでもしたら大問題だからな。アダンなら何かやらかしそうだし、ジスランの判断も仕方のないことだと思う」
バディストはジスランの友人でもあるらしい。だからか、ジスランを庇うようなことを言う。
ジスランの妹であるロジーヌは、兄の複雑な立場も理解しているはずだ。それでも、納得いかないといったふうに怒ってくれた。
「それはわかっておりますわ。一番悪いのはあの男です。それは間違いありません。……でも、兄様ならなんとかしてくださると思っておりましたのに。ねえ、足に鎖をしたまま過ごす毎日がどんなものか、考えてご覧になってくださる? 私、一日だって我慢なりませんわ!」
目に涙を浮かべてそんなことを言う。
他人事なのに。まるで自らが経験する以上に心を痛めてくれる。
そんなロジーナの心の綺麗さが、リゼットには眩しかった。もし、出会ったばかりの女性が鎖で縛められていたとして、リゼットは気の毒だと思う以上に何かをしただろうか。
きっと、そこで終わってしまった。我が身に置き換えて嘆いたり、怒ったり、そんなことを自然とできたとは思えない。だからこそ、ロジーナの気持ちが嬉しかった。
気が昂りすぎているロジーナを、バディストが抱き締めて宥めた。リゼットと従士は目のやり場に困り、無言でそわそわした。
それで落ち着いたのか、ロジーナはバディストをやんわりと押しのけると、今度は勢いよくリゼットの手を握り締めた。
「兄様がうちで待てと仰るのですから、何か解決の手立てを探してくれるということでしょう。決して見捨てたわけではないの。リゼット、うちに来てくださる?」
「え、ええ。でも、いいのでしょうか……」
行く当てのないリゼットなのだ。どこへでも行くのは構わない。
ただ、上流階級の屋敷に招き入れられることに気後れしないはずもなかった。
「もちろんですわ。うちのメイドは紅茶を淹れるのがとても上手ですのよ。一緒に飲みましょう」
「あ、ありがとうございます」
微笑むロジーナはまるで女神だった。
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ジスランが待てと言ったのは、王都にあるタウンハウスの方である。領地のエストレ地方には広々としたカントリーハウスを持っているのだろうけれど、ここからなら王都の方が近いのだ。
リゼットは、王都に来たのは初めてで、窓から見る光景のすべてが新鮮に見えた。人は多く行きかい、皆が洒落ていて動きに卒がない。労働階級の人々でさえ誇らしげに見えた。
何もかも、リゼットが育った地方とは違う。
馬車は大通りをまっすぐに行く。最初は商店や民家も見えていたところが、次第に一等地だとわかる造りに変わった。程なくして門を潜り、馬車は停車した。
まず降りたのはバディストで、ロジーナの手を取って馬車から下ろすと、リゼットにも紳士的に手を差し伸べてくれた。リゼットも助けを借りて降りようとするものの、足の枷のせいで難儀した。ほぼ飛び降りるようになると、着地でよろめいて、ロジーナが支えてくれた。
「大丈夫?」
「はい、すみません」
そうしていると、執事らしき老紳士とメイドたちが出てきた。
「ロジーナお嬢様、おかえりなさいませ」
「ただいま、シャトリエ。こちらはリゼット、お客様よ。しばらくここに滞在するから、段取りをお願いね」
シャトリエと呼ばれた執事は優雅に一礼する。
「畏まりました」
バディストは馬車のそばに控えたまま、軽く手を振った。
「俺はこのままとんぼ返りするよ。あっちも放っておけないから」
本来なら、事後処理を任されていたはずなのだ。それを、リゼットの事情に付き合わせてしまった。
リゼットは申し訳なく思い、精一杯頭を下げた。
「お世話になりました。本当にありがとうございます」
それでも、バディストは恩着せがましいことは言わない。にこやかに優しい目をしていた。
「早く問題が解決することを祈っているよ。じゃあね。ロジーナも、大人しく俺の帰りを待っててくれると嬉しいな」
「どうしてそこに『大人しく』が入るのです?」
「いや、だってねぇ」
へら、と笑い、バディストは馬車に飛び乗り、中からまた手を振って馬車を発進させた。
去りゆく馬車を見守るロジーナの横顔もとても綺麗だった。
「――さ、疲れたでしょう? どうぞ」
ロジーナに中へと誘われるも、落ち着かない。
使用人として来たというのならわかる。けれど、客人としてだと言う。分不相応とはこのことだと、ホールを抜けるだけで胃が縮むような気分なのだ。
階段の手すりひとつ取って見ても繊細な紋様が浮かんでいる。ランプシェードの材質はなんなのかよくわからなかったけれど、芸術的だった。絨毯も、靴底から柔らかさが伝わる。
豪奢だけれど悪趣味ではない。そう思うのは、住む人の人柄を知るからだろうか。
「兄様が戻られるのは早くて夜か、翌日でしょうね。あ、そうだ、リゼットの好きな食べ物は何かしら? 食べられないものはある?」
ロジーナの厚意にただ甘えるだけでいいのだろうか。返せるものは何もない。何もないから不安になる。聡明なロジーナはそれをちゃんと理解してくれていた。
「何も難しく考えなくてよろしくてよ。私は私がしたいことをしているまでなの。恩を返せなどとは思っていないわ。私はすべてにおいて満たされているもの」
美しく、裕福で心優しいロジーナ。美貌の兄を持ち、愛すべき婚約者もいる。そうか、満たされていると誰かれ構わず優しくできるものなのかもしれない。
「ありがとうございます」
リゼットの気持ちはほんの少し軽くなった。表情から硬さが抜けたのだろうか、ロジーナも軽くうなずいた。




