✤1
「あなたがリゼット・ルグラン?」
ここはルヴェリエ王国南東、サンテールの町。
国の中心部に位置する王都よりも港町に近い、流通の通過地点に過ぎない田舎の町である。しかし、だからこそのどかではあったかもしれない。
その町長の屋敷でメイドをしているリゼットは、バスケットを持って買い出しに出た途端、屋敷の前で呼び止められた。肩で切りそろえた銀髪を揺らして振り向くと、呼び止めたのは馬車の窓から顔を覗かせた婦人だった。
帽子を目深に被り、手にした扇であまり顔が見えないようにしている。それでも、黒光りしている馬車も立派で、御者のお仕着せも仕立てがいい。貴族であることはわかる。
婦人は大きな子供がいるような年齢だろう。化粧でごまかしていても、目元の皺が見える。
明らかに見下されているのは感じる。貴族の夫人にとって労働階級など人間扱いもされないところだ。こういう扱いには慣れている。
答えずにいると不敬だと叱責されるだろう。そうなると町長夫妻にも迷惑がかかるから、仕方なくリゼットは礼を取って答えた。
「はい、マダム」
リゼットは身分のないメイド風情ではあるけれど、町長の屋敷には貴族が訪れることもある。これくらいで臆したりはしなかった。
「……メイドのリゼット、ね」
そうつぶやいて、鋭い目でリゼットを上から下まで品定めするように見回した。この時になって初めて背筋がうすら寒くなる。蛇に睨まれた蛙というのはこういうことかと思った。
何か粗相をしただろうか。
鈍くなった頭で考えるけれど、わからない。この婦人に見覚えはなかっただろうか。
顔をちゃんと見せてくれたらわかるかもしれないけれど、向こうにそのつもりはないようだ。
何かを言わなくてはいけないのか、それともこちらから声をかけるのは無礼なのか――。
焦りから冷や汗が出た。
しかし、婦人はリゼットを眺め倒して満足したのか、御者に指示を出して馬車を走らせた。
遠ざかっていく轍と蹄鉄の音を聞きながら、リゼットはブルリと身震いした。一体、今のはなんだったのだろうか。
「か、買い物、しないと」
夕食に間に合うように買い物をして戻らなければ、メイド長に叱られる。戻ったら戻ったで仕事は山積みなのだ。
リゼットは浪費した時間を取り戻すように駆け出した。
他の娘たちに比べ、リゼットの仕事量は多いように感じられる。手の空いている娘はいるのに、メイド長はなんでもリゼットに言いつける。この買い物にしても、通いの商人からわざと買い忘れてリゼットを走らせているような気がしないでもない。
リゼットには身寄りがなく、住み込みの仕事はありがたいものなのだ。大工だった父は木材の下敷きになって亡くなり、母は病に倒れた。それが十歳の頃で、しばらくは孤児院の世話になった。六年前からメイドとして働き、十九歳になった今、少しは今の環境にも慣れた。
町長夫妻は下々の者にまで特別優しいということはない。かといって、取り分けて厳しくもない。普通だ。普通に、目に見えぬもののように扱う。六年いて、名前すら覚えてもらえていないだろう。リゼットと他のメイドたちとの区別もつかないと思う。無関心ではあるけれど、雇ってもらっている以上、そのことに感謝している。
メイド長は厳しいし、そりが合わないとも感じる。けれど、他の使用人たちとはそれなりに上手くやっている。同期の子たちだけでなく、後輩の面倒も見て、粗相があれば一緒に謝った。
仕事はできない方ではないはず。そう自負している。
今日の買い出しは香辛料だ。煮込み料理の臭み消しに使うので、これがないと夕食の仕込みができないからと言われている。リゼットは見苦しくない程度に急ぎ、屋敷へ戻った。
シェフは礼を言ってくれて、仕事はちゃんとこなせたようでほっとした。
「リゼット、おかえり~」
メイド仲間のメロディだ。リゼットと同い年で、気心が知れている。癖のある赤毛を丸めて留めていて、笑顔が可愛らしい。
「ただいま、メロディ」
「メイド長がリゼットが帰ったら呼んでって言ってたけど、帰ってきたばっかりだもん。少し休んでからでいいよね?」
そんなふうに言ってくれたけれど、休んでいたのがばれるとメロディまで一緒に叱られてしまう。リゼットは苦笑した。
「ううん、大丈夫。メイド長のところへ行ってくるね」
メロディは緑の目で何度もぱちくりと瞬いた。
「いいの? 大丈夫?」
「うん、平気」
「リゼットは働き者だなぁ」
おっとりのんびりとしたメロディはそう言ってリゼットを見送った。
メイド長のいる地下の個室に向かうと、そこには椅子に座って何かを書いていたメイド長がいた。年はリゼットから見て祖母と言えるだろう。知り合った頃よりも幾分太り、動くごとに椅子がキシ、キシ、と悲鳴を上げている。
「ただいま戻りました」
「ああ、遅かったね」
それほど遅くなってはいないはずだ。いつも決まってこれを言う。だからリゼットは聞き流すに限ると思っている。
すると、メイド長は言った。
「三日前にお泊りになったロッセル男爵家のアダン様を覚えているだろう? あんたがお部屋を担当したはずだよ」
ロッセル男爵は、この辺り一帯の領主である。この町と、もうひとつ主となるソワイエの町を治めている。この町は、縁者である町長に任せているのだ。だから、ロッセル家の夫妻が年に一度は泊りに来る。今年は男爵の体調が優れず、代理として一人息子のアダンが来たのだ。
アダンは毎年来るとは限らず、リゼットが担当にされたのは今年が初めてのことだ。
ただ、初めて会った時から、リゼットはアダンのことが苦手だった。嫌いと言った方がいいだろうか。
メイド風情にも優しい僕。下々の者にも分け隔てない僕。
いつも何かを演じている。その割に、本性が透けて見えるのだ。
鬱陶しい前髪も、粘着質な声も、貪欲な目も、全部嫌いだ。貴族が使用人に馴れ馴れしくしたら喜ぶと思っているらしかった。
スキンシップは苦痛だった。肩に手を載せたり、腰をなぞるように触れたり、ゾッとするようなことばかりだった。帰った日には心底ほっとした。
その時、リゼットはアダンのことを思い出さされたついでに、先ほど門前で呼び止めた婦人のことも思い出した。これまであまり近づいたことはなかったけれど、あれはアダンの母であるロッセル夫人ではなかっただろうか。
気のせいであってほしい。ただただ嫌な予感がした。
「あの、もちろん覚えておりますが、それが何か……」
粗相がなかったかと言えば、顔は強張っていたと思う。擦り寄られると距離を取っていた。生理的にどうしても受けつけなかったのだ。
メイドとしてまだまだ未熟である。そうは思っても、耐えられなかった。
メイド長はふぅ、とわざとらしくため息をつくと、鼻の頭まで落ちていた眼鏡を押し上げた。
「アダン様がお前をいたくお気に召したそうで、引き取りたいと仰っておいでだ」
世界が崩壊したような心境だった。
メイド長の声がどこか遠く感じられる。
誰が誰を気に入ったと――。
「相手はお貴族様だ。あんた、玉の輿でも狙ってたのかい? 抜け目がないねぇ」
リゼットを見るメイド長の目が冷たい。色目でも使ったと思われているのだろうか。
「そ、そんな。私はここで働いていたいのです。ロッセル家に行っても、私のような未熟者が間に合うとは思えません」
絶対に嫌だ。あの馬鹿息子のそばになんて金輪際近づきたくない。その親にもだ。
すると、さらに冷ややかな視線を浴びせられた。
「何か勘違いしているみたいだけど、あんたをメイドとして使いたいって話じゃないんだよ。アダン様の嫁にほしいらしいよ」
「は?」
それこそ、頭の中が真っ白になった。
貴族の息子が、メイドを嫁にと。
そんなことが起こり得るのか。
しかし、少しも嬉しくない。全力で回避したい。
「わ、私では釣り合いが取れません。とんでもないことでございます。謹んで辞退申し上げます」
当然だ。あんな馬鹿息子に人生をめちゃくちゃにされてたまるか。
それがリゼットの本音である。
メイド長は面倒くさそうにため息をついた。
「まあね、あんたがいなくなると仕事も溜まるし、あたしは反対したんだよ。でも、向こうはどうしてもって言って譲らないんだ。仕方ないだろう? どうせ飽きたら暇を出されるだろうから、一回行ってから戻っておいで」
それはリゼットが傷ものにされても、メイド長にとっての利用価値は変わらないからどうでもいいということだろうか。あんまりな言い分に、リゼットの堪忍袋の緒が切れた。
そのことに気づかないまま、メイド長は続ける。
「アダン様は二十六歳だけど初婚じゃないからね。何人目だか知らないけど。ちょっとの辛抱というか、まあ、しばらくはいい暮らしができるんだからさ」
あたしがもうちょっと若かったらねぇ、とか言い出した。笑うたび、椅子がギシギシいう。
震えが止まらなくなってきた。この人の下で働くのももう嫌だ。
メイドもやめよう。どこかパン屋とか食堂とか、そういうところにしよう。住み込みで雇ってくれるところだってあるはずだ。少々の蓄えはあるから、それを探しながら食いつなげなくはない。
ふと、この時のリゼットは勘が働いた。今ここで辞めますと言ってしまうと、アダンの手前、なんとかしてリゼットを引き留めようとするだろう。
ここは大人しくしておいて、暇乞いは荷物をまとめてからにした方がいい。
「……それはお断りできないことなのですね?」
あくまでも落ち着いて言った。
メイド長はその言葉を鼻で笑った。
「当たり前だろ。断るって、あんた何様なのさ?」
「わかりました。では、仕事が残っておりますので失礼致します」
丁寧に頭を下げながら、リゼットは舌を出していた。お前の顔なんてもう二度と見たくない、と。