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部屋を出てしばらく歩いてから、翔緒が遠慮がちに聞いてきた。
「大丈夫か、その腕」
「大丈夫。利き手じゃなかったし、不自由だけど、今のとこどうしようもなくなっちゃうのは、お風呂と着替えくらい。それも、琴姉になんとか面倒見てもらってるし」
「それ大丈夫じゃないだろ」
本気でおののいた表情に、凛は少し笑った。
「大丈夫。面倒見はいいんだから」
そこで会話がとぎれる。
「――ごめん、凛」
「ん?」
横を歩く凛が、くるりと翔緒の方をみた。
「勝手に出てってごめん」
「ううん。それはあたしも悪いから」
それとね、とめずらしく笑顔のまま、凛は悲しげな顔をする。
「いままであんたにだけ、どうでもいいって態度とって、ごめんね」
ふと、聖の言葉を思い出した。
大事なら、本当はあの時、行かないでって泣きたかったことくらい、気付いてあげなきゃ。
「うちのやつらは、どいつもこいつも、あたしに対する護衛心が薄い。いつでも気にかけてくれてたのは翔くらいなんだよ」
だから、
「あんたがいたら、こんなことにはならなかった。あんたがいたら、あんな思いしなくて済んだ」
あんな怖い思いも、痛い思いも、しなくてよかった。凛は呟く。
「もう、あたしから離れることはあたしが許さない」
苦しげに絞り出した声。
そこで初めて翔緒は理解する。
やっと、凛にとって意味のある存在になれた。相変わらず、無理に背伸びした上からの口調だが、ずっと望んできたのは、その言葉だ。
「私は誰の手にも落ちない。誰の支配も受けない。誰のものにもならないし、誰のためにもならない。世界が世界であり続けるために、私は私であり続ける」
だから、――――そばにいて。
最後の声にならないかすれた息が、そう聞こえたのは気のせいだろうか。
あふれた衝動。なんなのかわからない。
ただ、なぜか、とてつもなく、
ほぼ無意識に手を伸ばした、瞬間、
「翔緒!」
止めたのは、輝の声だった。
その声に我に返って。伸ばしかけた手が何をしようとしていたのか、翔緒はわからなくなった。
「あーも! 輝!」
続けて走ってくるのは陸。声をきいて、輝の友人たちも集まる。
「うわほんとだ女の子だ!」
「すっげぇ! やっぱ、《無音》とは違うわ」
「え、この子が凛?」
「年いくつ? 翔緒とタメ?」
「ちっちゃいなー、背ぇどのくらい?」
「ねね、翔緒がつきまとってるだけで、別に翔緒の女じゃないんでしょ?」
一気に周りがしゃべりだした中、凛はあっけにとられて視線をめぐらせる。
「いきなりうるせぇなお前ら! 一気にしゃべるな! そんで付きまとってねぇよ!」
つい怒鳴ると、一斉に反論が返ってきた。
「お前に聞いてねぇよ!」
「いいじゃん、ちょっとくらい!」
「俺たちが女に縁がねぇのはしってんだろ! ひとりじめすんな!」
ひとりじめって……。
なんだか恥ずかしい表現に、凛が思わず笑ってしまいそうになると、その数倍は動揺した翔緒の声が答えた。
「ひとりじめとかいうな! 違うから!」
「あの……」
収拾がつかなくなりそうな場に、凛はしかたなく、遠慮がちな声で入った。
「はじめまして、凛と申します。今日は明斗さんにお話があってきました。翔緒には今までほんと助けてもらってて、これからも《風雁》の皆さまとは、何かとご縁があるかと思います」
そういって小さく会釈した凛の笑みは、ぞっとするほど艶っぽくて、その場が少し止まる。
もちろん輝たちも、根っからの馬鹿な連中ではない。凛がただ者ではないことくらい、今一瞬流れた空気で察しただろう。唐突な出だしでしくじった印象を、凛は修正したのだ。
しかしそれも、見逃してしまうほどの一瞬だ。
「よろしくお願いします」
次の瞬間には、彼らが言う、いわゆる〝普通の女の子〟の笑顔で肩をすくめた。
「うん、よろしく。俺、陸っつーの。翔緒とはおんなじ部屋だからさ、なんかあったら声かけて」
陸がへらっと笑って、翔緒にむいた。
陸は特殊部隊の立場上、周りの同期より経験が富んでいるため、こういう空気はよく読める。引き際も察したのだろう。
「どっかいくとこだった?」
「あぁ、医療機械班行く」
翔緒は苦笑いを返し、
「凛、いくぞ。あんまり待たせると機嫌損ねるから」
「うん」
「んじゃあとでなー、翔緒」
遅刻すんなよ、と手をあげて、陸たちはその場を離れていく。
「悪ぃ」
「なにが?」
「あいつら、ああいうノリだからさ」
「んーん、へいき。なんか意外だったけど」
「意外?」
歩きだしながら、凛は答える。
「組織の人たちって、やなやつばっかりなのかと思ってたから」
「あぁ、あんなもんだよ」
そうだよね、ここは、あんたが育った場所なんだから。
思ったけれど、口にはしないままだった。
それからしばらく歩くと、遠くから機械音が聞こえ始めた
「先に言っとくけどさ……」
翔緒のどこか憂鬱そうにつぶやく。
「今から会いに行くジジイ、うちの医療機械化学班のベテランなんだけど、まぁ、変人だから」
そういって部屋の前で止まると、重たい足取りでゆっくりとドアを開けた。
「元じい、ほら、客」
そう声をかけた先。たくさんの工具と金具部品が並んだ机のむこうで、一人の老人が顔をあげた。
「よくきたなぁ、チビ助」
小柄なその老人は、確かに妖怪じみた表情で、ひっひっひと笑った。
「いつまでもチビっていうな」
「ちったぁ見れたもんになったら、名前で呼んでやるよ」
「見れたもんになったつもりだったけどなー」
変人とこきおろしながらも、翔緒はわりとなついている様子だった。
「んで、そちらのお嬢さんか」
くぼんだ瞳をむけられ、凛はぺこりと頭を下げた。
「お世話になります」
「いいやぁ、かまわんよ。ほれ、とりあえず座って腕を見せて」
凛が何者かより、とにかく早くいじりたいらしい。いつも使うテーブルには、眼の前にすでに椅子がセットされていて、まってましたといわんばかりだ。
そのあまりのやる気に翔緒は少し不安になる。すぐに口出しできる位置に自分も椅子を引きずってきた。
「傷口の処理はきれいじゃなー。腕のいい医者だ」
何の躊躇もなく解かれた包帯。生々しい傷口に、何ともいえない息苦しさを覚えた。その傷口から腕の中ほどまで、リストカットの跡がのぼっていく。
「切り口もな、きれいじゃ。相手も腕がよかったな」
そんな物騒なことをいいながら、片方の手を広げる。
「ほれ、もう片方も見せてみ」
「え、あ……」
慌てたように凛は手を差しだす。ジジイは右と左とくまなく見比べながら、にやりと笑った。
「どうする? ついてたカッターナイフは護身用か? なんなら腕の中に隠しいれる場所でもつくろうか?」
「――え?」
「あ――! いいからそういうの! 普っ通のなんもない義手でいいから!」
すぐさま却下すると、ジジイはお前には聞いておらん、と不服そうな顔をした。
このジジイが変人と言われるのは、この異常な改造意識のせいである。技術は圧倒的なのに、つくる義手、義足、なにもかもが攻撃的だ。まるで、《無音》の変異を揶揄するような。
「そういったってお前、持ち運ぶというのは不便だろう。身を守る上でも、体内に内蔵していたほうが手っ取り早い」
その言葉に、翔緒はわずかにたじろいだ。眼の前には凛の腕。まるで守れなかった証のように。それに答えたのは凛だった。
「大丈夫です。普通の義手でお願いします。確かに効率的なお話ですが、右利きなんです、私」
やんわりと、しかししっかりとした理由で断る。本人からそういわれ、さすがにジジイも頷いた。
「それならしかたない。残念だが、姫君にふさわしい、最高に美しい義手をご用意しよう」
名残惜しそうな顔で、ひっひと笑った。