03
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あまりの眠気に、一度中断してまぶたを抑えていた時、脇においていたケータイが鳴った。
時間的に明斗か、と翔緒はケータイに手を伸ばす。しかし、液晶の名前をみて、少し胸騒ぎがした。
長谷山聖。あれから、誰もかけてなど来なかったのに。
「――――はい、」
どんな調子かがわからなくて、仕事の電話と同じようにとる。
「あー、翔たん、まだアドレス消さないでくれてるー?」
この男にしてはいつものことだが、あまりの軽い様子に力が抜けた。
「別に消す必要もねぇだろ」
「わーありがとー」
口調のわりに、声はいつも通り無機質だ。何の用か問おうとする前に、聖は勝手にしゃべりだした。
「ちょっとねー、耳に入れておきたいことがあってさー、今大丈夫?」
そもそも本気でこちらを気遣っている奴は、こんな時間に電話をかけてなどこない。
聖は翔緒の返答すら待たず、続ける。
「今日さ、姫がちょっと誘拐されちゃってさー」
少しだけ困ったような笑い方でさらりと、そんなことをぼやく。
「は……?」
「参るよねー。まぁ、完っ全に俺たちのミスだから。ごめんねー。〝神能〟つかってもぐりこまれたんだけどね。一応救出はしたけど」
「凛は? 無事なのか」
「いや、ちょっと怪我したよ。応急処置はされてたから、大丈夫だけどね」
ちょっとって、どの程度だよ。その遠回しな言い方が、余計不安にさせる。《表》の世界ではそこそこの大けがじゃなきゃ、ちょっと、とすら表現されない。少なくとも、応急処置が必要なレベルではあるのだ。
「怪我って、たとえば?」
「ちょこっとした刃物傷ってかんじ?」
追求しようとしたが、聖がそれより早く割り込んできた。
「あとね、姫がさ、泣くんだよねー」
脈絡のない、あまりに身勝手な会話の展開だった。
「夜とか、琴音さんが心配して見に行くらしいんだけど、寝つきが悪くてよく泣ているって」
あの夢だ、と思いだす。凛はよく、その夢をみて泣くのだ。
「ひどい時は起こして落ち着かせたら、もう見なくなる」
「それがさ、だめなんだよねー。琴音さんがかわいそうになって頭なでたら、余計怯えて起きちゃったって。その後も結局おんなじ調子で」
「――……」
そんなことは一度も――。
不思議になって黙った翔緒に、聖はやっぱりね、とわかったようにこぼす。
「翔緒は、それでなんとかなってたんだね」
それは、どういう意味だろう。
わからなくて、翔緒は結局、黙ったままでいる。
ただ一つわかるのは、これから聖に痛いところ突かれる、ということだけだった。
「翔緒はさ、姫のことどのくらい大事なの」
聖ともそれなりに付き合いは長い。判断を誘導されるような言動も数えきれないくらいあって、結局誘導されてしまったこともある。
これほど長い前置きがあったときは、大抵痛いところをつかれるのだ。
「俺たちじゃ、姫を安心して寝かしてあげることもできないよ。そんな場所に置いてけるくらい、姫は丈夫だったっけ?」
じゃあ、なんで自分なら大丈夫なのか。その答えは翔緒にはわからない。
「翔緒は自覚がなさすぎるよ」
「自覚……?」
「翔緒にとって姫がどのくらい大事なのかも重要だけどさ、姫にとって自分がどういう存在なのか、考えたことある?」
そんなこと、と言いかえそうとして、考えたことがないことに気付いた。
あたりまえだ。だって凛はいつでも翔緒のことだけは、どうでもいいと流すのだから。
「なんでわかんないかなー、ていうか、なんでわかってあげないのかな」
ため息交じりに愚痴った。
「平等だと言いながら、翔緒にだけそういう態度とるんだよ。しかもそんな態度とっておきながら、姫の悪夢を壊せるのは翔緒だけだよ。大事なら本当はあの時、行かないでって泣きたかったことくらい、気付いてあげなきゃ。姫が嘘つきなことくらい、知ってるよね?」
「…………」
「だから、帰ってきなよ」
聖はさらりと言った。
「ここには、翔緒にしかできないことが多すぎるよ」
その言葉を受けても、結局翔緒は凛と連絡を取らなかった。取れなかったというべきか、単純に聖の言葉に動揺してもいた。
様子は心配だったが、大したことないからという聖の報告に、ひとまず自分を安心させた。
勝手に出ていったのは翔緒の方だ。それなりのけじめがある。
明斗から階級章をもらえれば、復帰が認められる。明斗がもし、本当に翔緒の頑張りしだいで、凛との同盟を考えてくれるのなら、そしたら電話をかけてみよう。
「あー、やっときたな、ほらよ」
呼び出されてきた指令室で、相変わらずけだるい声に迎えられ、何か小さな光りものが飛んできた。翔緒は扉を閉める間もなく、反射的につかむ。
「――――」
《風雁》の紋の下に、三本線が入った高等部の階級章。
「おまえなぁ!」
状況を理解した瞬間、あまりの悲しさに声をあげてしまった。
「俺がこれのためにどれだけ……!」
睡眠時間を極限まで減らして勉強し、休息の足りない体でさらに訓練を受け、最後の方はもはやいろいろ飛び越えて、よくわからないほどだった。原因が原因なので激励の言葉があるとは微塵も思ってなかったが、まさかこんな対応だとは。
喜びや安心よりも、むしろむなしさをかんじた。
「なんだよ、いらねぇなら返せ」
「違う! そうじゃない!」
軽く手を伸ばしてくる明斗に、翔緒は慌てて階級章を握りこんだ。
明斗はそこ座れ、と顎で向かいのソファーを差す。
「すぐ出回るぞ、お前の昇級は。《石垣》がそろそろ動きだす。本来ならお前が離れた時点であの子は少し遠巻きになってるはずだったが、どうやら何かあったらしいな」
計算狂うっつの、と明斗は吐き捨てる。
「まぁ、あの子に接触したのが《石垣》のやつなのかは、どうやらまだわからないらしいが、もしそうならあいつらの目的はあの子ってことになる」
わからないというのは、少し違和感がある話だった。死体があれば組織章なり、それがなくても誰かくらいわかりそうなものだが。
それは明斗が意図的に伏せた情報だった。現場で見つかった死体は、明らかに人体として部位が足りないものばかりだった。何人分なのかすら、すぐにはわからないほどに。
「おまえ、〝神の雫〟の次にヤバいものが何かわかるか」
明斗の言葉は唐突だった。
「――――《殺条》だろ……」
それは《石垣》序列内で、唯一組織として名乗られていないにもかかわらず、軽率に口にするのもためらうような、最悪な名だ。説明のしようもないほどの惨劇を形容する。
正体不明と言われながらも、ひそかに恐れられる《殺条》という名は、戦闘能力に神格化が振り切った連中だ。もはやまだ生存しているかすらもわからない。あまりにも目立ちすぎる素質を持ちながらも、唐突に行方をくらませた。それまでの派手な暴れようから一変した、その突然さが余計に不気味で恐ろしい。
その圧倒的な絶望の存在に、数多の組織が殺そうと手を出した。しかし、組織丸ごとが返り討ちにあっていった。彼らの殺しは、八割がそういう境遇で行われており、要は手を出さなければほとんど危険性はない。それなのに、手を出さずにいられないほどの恐怖心をかきたてる存在なのだ。姿を消したいまですら、安心したような上辺、どこの組織も警戒しているのだろう。
「《殺条》がなんか関係あんのか?」
「いや、そう決まったわけじゃない。ただ、《石垣》の目的がそこにあるような気がするんだ」
呟いて、明斗は自分の椅子から立ち上がった。対面式のソファーの向かい側に座り、机にクリップで止められた資料を滑らせる。
「お前似てると思わないか、周りの反応が」
「何が?」
資料を手に取りながら聞き返す。明斗は少しいいづらそうな顔をして、
「《姫君》への周りの反応。怯え方が似てると思わないか」
明斗が問おうとしている意味を考えて、頭に血が上った。
「あいつが、」
できるだけ冷静を取り繕ったが、自分でも驚くほど低い声が出た。苛立ちからか動機が早い。
「あいつが《殺条》だっていいたいのか」
案の定、といった困った表情を明斗はする。
「違う。そう言いたいんじゃない。そんな恐ろしいことあってたまるか」
落ちつけよ、と誤魔化したつもりの苛立ちは見透かされていた。
翔緒は認めたくないが、客観的に考えれば、確かにそれほど恐ろしいことはないのだ。
凛はつまり神の一部である。ただでさえ邪神である神の一部が殺人鬼と同義であるということは、考えたくもない。
「俺が言いたいのはさ、《殺条》が確認されなくなって十年になる。〝神の雫〟も百年ぶりだ。そのせいで周りは過剰に《姫君》を恐れてるように感じることだ。そして何より怖いのは」
ゆっくり、確認するようにつぶやいた。
「《殺条》が《姫君》に接触することだ」
ぞくり、と背筋が凍った。
「敵か味方か、そういうのはどうでもいい。どちらにしろ絶望的だ。《姫君》には奴らは毒気が強すぎる。でも、消えてしまった奴らの行き先を、もし知っている誰かがいるなら《姫君》の可能性が一番高い」
《石垣》の目的はそこにある気がする、と続けて、翔緒が握った資料を差した。
「事件の少し前だ。《石垣》の資料庫から、《殺条》の情報が持ち出されているらしい。可能性から考えて組織内の連中だろ」
「いや、でも、凛が目的なんだとしたら、なんで俺が」
尾行されてきたのは翔緒だ。状況的に《風雁》に目的があると見える。凛もそう判断したのだ。
「どっちにしろ俺たちが裏で糸引いてないかってのは、確認しないといけないことだろ。お前がまだ俺の命令で動いていたら、《殺条》と接触を取らせようとしてる可能性がある。《石垣》には俺たちに反感を持っている奴らもいるからな。もしそれが事実だったら、《風雁》をまとめて罰する最高のチャンスだ」
目くらましにうまく乗せられていた、ということか。
「だから今回動いている《石垣》の連中は、《殺条》が目的の奴と《風雁》への処罰が目的の奴らが手を組んだ合同チームだ。実際何人か、行方をくらましている。《石垣》自体も大騒ぎで犯人を探して、もみ消しを測ってるらしい」
手元の資料に目を落とすと、そこには持ち出されたらしい《殺条》の資料を、予測で復元したもののようだった。
「これはどっから……」
予測とはいえ、こんなものを復元したことがもれれば大変なことになる。翔緒はつい明斗に尋ねた。
「覚えてるか? 奏だよ。黒木さんのとこのさ、あのクソガキ」
「あぁ、思い出した」
黒木和也。《風雁》と昔から取引の多い情報屋だ。組織自体が雇っているわけではないものの、先代の当主と仲が良かった関係から、わりと《風雁》をひいきに情報網を張ってくれている。奏というのはその弟子にあたる、翔緒と同い年の少年だ。
「クソガキだけどな、腕は確かだ。正式に雇ってくれって黒木さんが冗談いえるくらいには」
「へぇ」
「内容も断片的だし、それ以上重要なことまでは開示できないっていうけど、まぁ、十分だ」
相変わらず高けぇけどな、と苦笑いを浮かべた。それほど信用できる情報屋らしい。
「とにかくもう少し奴らの動きは探ってみる。場合によっては《姫君》と会ってみる必要もあるかもな。ただ、これだけははっきり言っとく」
明斗は、翔緒をまっすぐ見て、厳しい声で言った。
「共同戦線ならありえるけどな、同盟はお前の働きぶりでしか考えないからな」
「わかってる」
無意識にもらったばかりの階級章を握りこむ翔緒に、明斗は笑った。
「んじゃあ、電話でもかけてやれよ。お前、あの追い込まれようだと、それっきりだったんじゃねぇの? あんま放置すると振られるぜ」
からかうような口調に少し呆れた。
多忙なことを差し引いても、明斗の恋人に対する放置ぶりは、昔から有名だ。
「……お前にだけは言われたくない」
思わずつぶやくと、明斗は真面目な顔で、だろうな、と返した。
「明斗っ」
部屋の扉が開くのと同時に、明るい声に呼び掛けられた。明斗は、頬杖を突いたまま、そちらをうかがう。
「都か」
「なによ、その言い方」
部屋に入ってきた都は、不満そうにむくれる。肩を覆うほどの黒髪に白い肌が印象的な彼女は、明斗の恋人だ。横に流した前髪の大人びた印象とはあいまって、顔立ちや浮かべる表情は少し幼い。
「明斗に会いたいって子から連絡があったんだけど、ちょっとどうかなって思って」
「めんどくせぇなー」
暇じゃねぇよ、と続けてぼやこうとして、
「え? ガキ?」
「そう。女の子。声的にまだ十五、六歳ってとこかな。名前きいたら、『凛です』って、それだけ」
都は不安そうに呟いた。
「ねぇ、どうする? やめとく? かけなおして断るけど……」
「いや、会うよ」
「でも、〝凛〟って……」
さすがに聞きおぼえがあったのだろう。都の声は少し咎めるような気配を含んでいた。
翔緒に階級章を手渡してから、ほぼ一日。注意してはっていれば、情報を得るには十分な時間だった。
《石垣》の動きにどれほど感づいているかはわからないが、無関係であるとは思っていまい。
「《姫君》だ。翔緒がそう呼んでた」
「大丈夫なの?」
不安そうな顔に、明斗は堂々と答えた。
「姫君に連絡しろ。時間は向うの都合に合わせる。その代わり、部下ひとりと姫君で出向いてもらう。まさか喧嘩吹っ掛けにくるわけじゃないだろうし、こちらも交渉場には最低限しか立ちあわせない。機密性と安全面から、この場を指定する」
恋人としてではなく、統括する当主としての口調に、都はそれ以上余計なことは言わなかった。