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七つの樹に七つの果

舞え舞え、蝶々

作者: 七ツ樹七香

 三十二歳の哀れなドン・キホーテが傘ごと水車に突っ込んだとき、三雪の恋はくだけちり、苦心した婚活もご破算とあいなった。


「ねえ、やめてってば。聞いてる? 清彦くん、ちょっと!」


 三雪のとがめる声など、まるでそよ風だ。

 寺の参道、水路にかかる古びた水車の前で結婚式帰りの赤ら顔が振り向いてへらりと笑うと、むっと酒の香が漂う。すわりきった目に、まるで正気の影はない。


「止めてくれるな、サンチョ・パンサ。あれは水車にあらず。バケモノなり。いざっ」


 フェンシングを気取ったつもりか、いい加減な身振りで手を振り上げ雨傘を構えると、するすると回る水車めがけて、礼服の酔っ払いが突っ込んでいく。振り払われてよろけた三雪は転んで膝を打ち、取り落としたトートバッグの中身が無残にあたりに散らばった。悲鳴さえ歓声に聞き変えて突撃した清彦は、勢いも目測も誤った末に、水車手前の丸木の柵にはじき返され、間抜けに倒れてしたたかに頭を打つ。ゴッ、という鈍く深刻な音がした。


「うそ、清彦くん、ねえ! 聞こえるっ?」


 間抜け面で天を仰ぐ清彦の傍らに駆け寄り、軽く揺すっても返事はない。

 遠巻きにしているまばらな人影の中から男がひとり進み出て、蒼白の三雪に「大丈夫ですか?」と声をかけた。振り返る。常なら悲鳴をあげたろう。短く黒髪を刈り込んだ清潔な風体の若い男は、のっぺらぼうだ。――しかし、不思議と怖くはない。返事もろくにできず、半ばパニックの三雪をなだめるように、彼はおだやかな声で言った。


「救急車呼びました。頭打ってるみたいだから、動かさずにいましょう。酔ってるんですよね、彼」


 目も鼻も口もないのに、確かに声は聞こえる。救急車はほどなく到着し、まだ舌と頭の回らない三雪に代わり、こまごまとした状況さえのっぺらぼうが伝えてくれる。その上、三雪が心細い面持ちで清彦につきそっている間に、男はちらばった荷物を手際よく拾い集めてくれたようだった。画面にヒビの入ったスマートフォンを気の毒そうに手渡され、三雪は受け取りつつ口の中に張り付いていた舌を剥がして繰り返し礼を伝えた。


「すいませんっ、すみませんっ。お礼、お名前を――」

「いいです。たいしたことしてませんから」


 そっけない調子で立ち去ろうとするひょろりと背の高い男になおも食い下がると、彼は少し面倒そうにちいさなボディバッグから名刺サイズのカードを取り出す。三雪はあわてて手を出したが、カードにはたちどころに羽が生え、金色の蝶になって飛んでいってしまった――。

 まるで夢のように美しく羽ばたいて。


 ◇◇◇



「誰が、サンチョ・パンサだ。くたばれ、酒乱!」


 夢の名残をかきむしるように、薄い掛け布団をはねのけてガバリと起き上がった三雪は目覚めしなに悪態をついた。

 記念すべき令和初日の夢が、あのどうしようもない元婚約者(きよひこ)だなんてうんざりだ。別れて数日は泣いたが、もうそんな気分じゃない。

 婚約解消の申し出にうなだれた男に投げつけたかったのは、「今までありがとう」なんてお行儀の良い言葉じゃない。


「くたばれ!……うん、そう。ホントにそう」


 すっきりするつもりで言い捨てたのに、自分の真ん中にぽっかりと空いた黒い穴が嗤っている気がして、三雪は舌に残るざらついた苦みを無理に飲み込んだ。昨夜の友人との飲み会ではしゃぎすぎた。

 ため息が口をつく。

 清彦・デ・ラ・マンチャは酒乱さえなければ、顔立ち良く、気性もやさしく頭も良く、上場企業勤めで将来もそこそこ有望な男だったが、概ね「~さえなければ」なんて但し書きがつく野郎は、そこが致命的な欠点なのだ。SNSで目にしたか、友人から言われたのかも忘れたが、誰かがたどり着いたこの真理に、今こそ三雪は深くうなずくことができる。


『仲良しの従姉妹ちゃんの厳かな仏前式だし、絶対飲まないとか言っててさ。結局披露宴でタガ外れたみたい』

『迎えに行ったらべろべろのドン・キホーテになってたわけね。風車じゃなくて水車に突撃かぁ。ないわぁ、別れてヨシ! 直んないもん、そういうの。悪い縁切ってくれたんじゃないの、お寺の仏様が。また違う縁を、てか、助けてくれた人が運命の人だったり?』


 片ひじをついた三雪は、友人の慰めとも言えない茶々に眉を寄せながら、どこからか入り込んだちいさな蛾を、鬱陶しそうに焼き鳥の串を振って追い払う。


『ないでしょ! 顔も覚えてないもん。それに運命なんて、そんな甘っちょろいこと言ってられる歳じゃなーい!』


 失恋と婚約破談の苦杯を友人とガハハと笑いながら飲み干し、無事排泄してトイレに流し終わった今、じゃあ縁とやらを結び直してもらおうじゃないか、という傲慢な仏頼みの心持ちにプラスして、やぶれかぶれの前向きな気持ちが満ちている。

 遅い起床後、身支度を調えた三雪は深大寺に行くことに決めていた。

 木目のテーブルの端に置いた白いカードをするりとなでてみる。手指に弄ばれるままのカードはすべらかな手触りで、白い蝶が菜の花に向けてひらひらと舞うデザインがかわいらしい。だが、はじめは絶句した。ショップカードと見えるのに、どう目を懲らしても店の情報と思しき言葉は解読不能の異国語のみで書かれていたからだ。

 しかし、現代機器の前にひねりのない謎は淡雪だった。思いつきでかざしたスマホの翻訳アプリは、あっさりと日本語の意味を三雪に教えてくれた。


『丁寧な仕事 深大寺そば 鳥の夢』


 深大寺そばの店だと分かれば話は早い。ちいさな菓子折りを買って手に提げ、住所を頼りに青葉並木の深大寺通りをきょろきょろと歩く。時々ズキリと痛むくじけた心に手を当て包帯を巻き、ふと因縁の深大寺水車館の側で足を止めた三雪は奥歯を噛む。

 足取りが重たくなった。

 吹っ切れない。――情けない。

 そうしてどうにかたどり着いた店の木彫り看板は、カードと同じ白い蝶が大きく彫り込まれ、隅にちいさく「夢見鳥」と刻んであった。屋号が一致しないのは機械翻訳の都合だろうが、問題は別にあった。


 定休日。


 扉にかかる墨書の木札の前で呆然と立ちすくむ三雪に、「あのう」と声がかかった。振り返る。すると、あののっぺらぼうの面影に、またたく間に目鼻口が描き足されていく。


「先日はっ、ありがとうございました。あれです、あの酔っ払いの……。お礼をと思って」


 三雪が何者であるか思い出したらしい目の前の男は何度か細かく頷いた。切れ長の目にスポーツ刈りの二十代半ばの面差しだ。大きめサイズの白い厨房服が少し野暮ったいが、思ったより無愛想ではない。


「ああ、大丈夫でしたか、旦那さん?」

「はい、脳しんとうで退院もすぐ。それで、あの人、旦那じゃないです。他人です」


 きっぱり言い切ると、虚ろだった胸の黒い穴をパステル色の風がしゅるりと通り抜けた。


「へえ、大変でしたね。多分、わざわざ調べてココ来てくれたんでしょ? ちょっと失礼な感じになっちゃってすいません。アラビア語で店のカード作ってみたとこだったんですよ。最近多いんで、観光の人。渡したあと、間違ったって思ったけど。お礼とかホントいいって感じだったし、まぁいいかとか思ってて……」


 困ったように頭を掻く正直な彼の背後に、青い翅のアゲハチョウが横切った。


「せっかくだし、良かったらそば食べていきませんか。今日の、良い出来な気がしてたから」


 三雪が菓子折を差し出すと男は恐縮の体で受け取って言った。


「でも、定休日なんじゃ……」

「休みは修行してます。自分、親父から引き継いだばっかりの駆け出しなんで。お礼、うちのがもし好きな味なら、お客様になってもらえるといいなあ、とか――」


 照れくさそうな仕草は甘っぽくも若々しくて、三雪の干からびた胸の底に、双葉が萌えるようなくすぐったい気持ちが芽吹いた。うながされるまま店のカウンターに通されると、客と距離の近い調理場で、テキパキと彼は動き回る。子守歌の似合いそうなおだやかな声も、裏腹に忙しない手の動きも不思議と心地いい。お湯が沸くまでの間に三雪が水車突撃事件のくだりを語ると彼は声を立てて笑い、そして申し訳なさそうにあたたかいお茶を差し出した。


「笑っちゃって、すいません。発想すごいっすね、水車に戦い挑むとか。勝つつもりだったんですかね」

「ハハ、ほんと、もうわかんないです。実はあの人「婚約者」だったんですよ。酒癖悪くて、もう飲まないっていうから何回も信じたけど、あれで諦めました」

「酒乱が大変なのはわかります」

「結婚の最後のチャンスかもと思ってズルズルしてて。でも、今は縁切れてよかったのかなと」


 不思議に言葉がスルスルとこぼれる。

 飲んでもないのに、思うより饒舌な自分を三雪は恥じたが、男は気にしない様子で薬味を刻みながらゆっくりと応じた。


「仏様が導いてくれたんですよ。まっとうに生きてたら大丈夫です。縁はめぐります」

「へえ、若いのに達観してますね。お坊さんみたい!」

「まあ、親父の口癖なんですけど」


 渋すぎたかな、とはにかむ横顔にすこしだけ得意げな色も見て取れる。


「お節介ついでに、「夢見鳥」って蝶の別名なんです。仏教的にいうと輪廻転生の象徴で、だから、その、まあ……、うまく言えませんけど、心機一転ってことで、頑張って下さい」


 途切れがちの訥々とした励ましがじわじわと沁みる。三雪は口をつぐんだが、ギュッとこぶしを結び、そして決意とともに薄い桃色の唇をほどいた。


「名前、聞いても良いですか。私、小野寺三雪です。新しいスタート、切れますかね?」


 思わず前のめりになった三雪にひとしきり笑って、彼は形のいい唇で名をかたどった。

 窓の外をおどるように、蝶がひらり、金色に光る――。

2019、公募落選作の供養

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