2.闇の歴史
【θ6】
車内アナウンスが入る。
「次の停車駅は、古新宿。古新宿。未来でも現在でもありませんので、新宿でお乗り換えの方はお間違えのないように願います」
「大丈夫よ、今度は降りないってば」
佐和子に向き直って、注意される前に宣言しておく。いつも新宿で降りるけど、今このレモン色の電車では降りない。到着したのは現在ではないから。
「じゃあ、荷物お願いね」
「え?」
ガシャン、と音を立てて扉が開くと同時に、佐和子が飛び出した。呆気にとられて姿を目で追う。
また放送が聞こえた。
「特急列車の通過待ちのため、三分ほど停車いたします。なお、ここは昨年の冬に当たりますのでご注意ください」
佐和子は知っていて駆け出したのだ。佐和子が今話している男の人のところへ。
青い背広を着ていて、黒縁の眼鏡をかけた若い男性。
一体誰なんだろう。
会話の内容は聞き取れない。案外彼氏だったりして。興味本位に耳を欹てる。
その時声がした。
「中原さん」
私のことだ。思わず声のする方へ首を回す。
ホームの左端に、あの子が立っている。
絶対に降りないって心に決め込む。そんな私の気持ちなど知らずに、彼女は近づいてきた。
紺のブレザー。胸元に赤いリボン。少しフレアの入った紺のスカート。私も高校の時に着ていた制服姿だ。
彼女は、私の真ん前まで来ると、にっこり笑ってこんなことを口にした。
「私、推薦でM大に受かったの。知ってる?」
【α6】
「今更、何を言っても仕方がないんだけど」
予備校の食堂で、佐和子と二人だけでお昼にラーメンを食べた。そこで雑談となったら、そんな台詞がついこぼれてしまった。
「それは私も同じよ」
佐和子は、汁を飲み干してから続けた。
「麻子は、推薦のチャンスを逃しちゃったんだろうけど、私は私で受験のチャンスを逃したりしたわよ。その上、何となく受けた短大に受かって、進路指導の先生に報告に行ったときにはがっかりしたものよ。ここでもういいだろう、ってしつこく言ってた」
「先生は、こっちの気持ちまで考えてくれなかったりするよね」
「そう。うちはお兄ちゃんが現役で受かっているもんだから、余計にうるさかったし。女の子の浪人なんてって、偏見まで持っていたわ」
「分かる、分かる」
私は、ため息交じりに相槌を打った。
秋風の吹く頃、私の成績は芳しくなかった。
模擬試験では、志望大学ごとに合格率を高い順にA~Eの判定で出される。
私はこの頃、時々B判定が出ていた大学で、C判定やD判定まで出るようになってしまった。要するに、受かりそうと思っていた志望大がそうじゃなくなっているってこと。ここで巻き返しを図りたいところだけど、何をするとよくなるのかは手探り状態だった。
佐和子も、詳しい話は聞かなかったけど、この頃成績が思うように伸びなかったらしい。その上、新たに学部や学科を調べて検討したりして、いろいろ悩んでいるのは知っていた。
予備校からの帰り道、二人で過去のことを蒸し返したりして、つい不毛な会話をしていたものだ。
ちょうど一年前くらいだろうか。
高校三年生の秋頃、推薦入試の話を何度か耳にした。私の通っていた高校は、正直進学率はあまり高くなかった。受験する人が少なかった分、私自身が甘かったところがある。
ある時、進路指導の先生から「C大とM大の推薦枠がある」と聞かされた。ただ私の受けたい学科と少し違っていた。推薦といっても必ずしも受かるわけではないものだった。
それだったら、一般の受験ひとつに絞って思い切ってやろうと私は決めた。だから、そのときは何もしなかった。
後日、私とよく成績で競っていた上谷さんがM大の推薦入試を受けて合格した。私が受けて受かったかどうかは分からない。
しかし、忘れられないのは帰りのホームルームで担任の先生からその話を聞かされ、その直後に本人と廊下ですれ違ってしまったこと。
上谷さんとはクラスが違うので、そう会うことはないと思っていたのに、ばったり。
その時、彼女は何も言わずににっこり笑ったのだ。まるでこう語りかけているみたいだった。
『私、推薦でM大に受かったの。知っている?』
それを古新宿で言われてしまったのだった。
【θ7】
「お待たせ」
佐和子が戻ってきた。ぽん、と足音も軽く車内に入る。
「荷物ありがとう。おかげてすっきりしちゃった」
本当にさっぱりとした笑顔で佐和子が話すものだから、一瞬自分の黒い感情を忘れる。
「誰に会ったの?」
「高校の時の先生よ」
「なんだ。若いから佐和子の彼氏かと思っちゃった」
「まさか。まあ、進路指導の先生にしては若いかも」
本当に。普通白髪交じりのベテラン先生が進路指導をするような気がする。
「若いせいなのかな、すごく気負っていてね。浪人するよりどこでもいいから大学に入ってほしいと思っていたみたい。私にも行きたいところより間違いなく入れるところを受けさせようとしていたのよ。頭に来ちゃうでしょう」
「うん」
その通りだと思う。進路指導の先生が進学率を上げたいのは当然のことだ。でも、受ける側の気持ちを最優先してくれなくちゃ、だめだ。
「それでね、せっかく見つけたから私、言ってやったのよ」
一息入れて、佐和子は続けた。
「私、少し未来から来たんですけど、確かに先生お勧めの短大には受かりました。でも、蹴ったんですよ。知りたくなかったでしょう」
【α7】
予備校からの帰りがけに、古本市を覘いた。
本来なら少しでも早く帰って、勉強時間を増やした方がいいのだけど。息抜きだって大事だ。そう自分に言い訳する。
重くなった鞄を抱えて、私は駅へと向かう。
予備校のテキストよりも、今しがた買った本のほうが重量があるかも。そう考えたら、心もずっしり重くなる。
ふと、駅を見上げると、佐和子が改札口に行くのが目に入った。定期券を取り出して、私は追いかけた。
「佐和子」
呼んだけど、聞こえなかったようだ。背の高い佐和子は、案外足が速い。
ホームの階段を登り切ったところで、やっと追いついた。何しろ、鞄が重たい。
「佐和子」
息を切らしながらもう一度呼びかけると、佐和子はやっと振り向いた。
「え、あ……麻子」
意外そうな口ぶりだ。佐和子としては、先に帰ったと思った私がいて不思議だったのだろう。
「買い物してたの。それで帰ろうとしたら、ちょうど佐和子がいたから」
「何買ってたの?」
佐和子は、挨拶程度に訊いただけなんだろう。それなのに、どきっとした。あんまり言いたくない物だ。
「えっと、ウインドウショッピングがほとんど。佐和子こそ、どこに行っていたの?」
佐和子と私とでは、選択科目が若干違う。この日、佐和子はもっと早い時間帯に帰っているはずだった。
「それがね、中学の時の友だちに会っていたのよ。ちょうど、こっちのほうまで遊びに来る予定があるから、って言われて。高校出て、就職したんだって。新社会人も勉強が大変みたいよ」
「でも、履歴書に書けていいよね」
さりげなくそう呟いてみせたら、佐和子はくすりと笑った。
この日の確か二限目。先生が授業中にこう話した。
「いいか。これから大学へ行ってそのあと就職しても、予備校のことは公には書けないんだぞ。履歴書に、何年何月○○予備校卒業、とか間違っても書くなよ。何年何月高校卒業の次は、何年何月大学入学だ。一年空いても聞かれなければ、黙っているもんだ。いわばこの一年はみんなにとって、闇の歴史になるんだ」
日本史の先生が言うのだから、ちょっとしたジョークも入っているんだろう。けれど、印象に残ったものだ。
【θ8】
電車が古新宿を出た後、佐和子に上谷さんのことを話そうとする。ところが、今の駅で乗った人たちがなぜか前の車両へ次々進んでいて、私や佐和子の肩にぶつかったりする。
「すみません」
謝りつつも、急ぎ足で別の車両へ駆けていく女の人もいる。空いている車内を目指しているんだろうけど、とても速い。
「過去から未来の人たちに追いつこうと、急いでいるみたいだなあ」
私たちの後ろにいた中年の男の人がぽつりと呟いた。大きなリュックを背負い、軽登山に行くような格好をしている。
前へ進む人は、それとは対照的で若手のビジネスマン風の人が多い。焦っている様子は、確かに追いつこうとするようにも見えた。未来から過去の新宿へ来ていた人たちなのかもしれない。
やがて通り過ぎる人が少なくなり、この車両にとどまる人も出てきた。そんな中で、私は知り合いを一人見つけた。
「博美ちゃん」
中学時代の友だちだった。
「麻子ちゃん」
少し大人っぽくなった博美ちゃんが、私の方へやってくる。博美ちゃんの隣にいる男の人も一緒に進んでくる。
「会社の同僚なの」
博美ちゃんは、その人を紹介した。軽く会釈した男の人は、紺のスーツ姿が決まっている。
「中学時代の友人です」
挨拶しながら、恥ずかしくなった。
男の人は多分、博美ちゃんの彼氏なんだろう。だって、博美ちゃんすごくきれいだ。グレーのスーツをきちんと着こなしていて、お化粧もばっちりだ。それに比べて、私は安物の上着にジーンズのズボン。お化粧なんて当然していない。
動揺ついでに、一番言ってはいけないことを口から滑らせてしまう。
「すっかり、社会人なんだね」
「そう。麻子ちゃんは?」
ほら、訊かれちゃったよ。
「予備校生」
こう答えるしかなかった……。
【α8】
中学時代の、就職した友人に会った佐和子も、予備校生だって答えたそうだ。
「仕事も人間関係も、大変だって。それに比べて、私はすっかり出遅れたような気がするのよね」
佐和子が「ひろちゃん」と呼んでいたその子のことは、私の中学の友人の博美ちゃんを思い出させた。高校に入ってから、博美ちゃんには会っていなかったけれど。
とにかく、ひろちゃんの話をしている佐和子は、いつになく弱気な感じだった。
「大学が四年間でしょ。それプラスこの一年。社会に出るときには、二十三歳になっている」
「しょうがないじゃないの」
答えたものの、心に引っかかる。