血汚齢糖
「山家さん! あんたみたいなシーラカンスを雇ってるのは、慈善事業をしてるわけじゃないんだ! 口ばかり動かさず、ちゃんと手を動かしてくれ!」
と、森工場長の怒号が飛んだ。
「はいよ。どうもすみませんね」
山家は頭をさげた。
隣の新人従業員との世間話に夢中になってしまい、回収する手がおろそかになったのだ。
山家たちは白い防塵服を身につけ、頭も白い頭巾で覆い、毛髪が落ちないようにしていた。手袋とマスクをし、眼の部分しかすき間がない。
それにしても、山家はヌシと呼ばれるだけある。
腰はすっかり曲がり、いかにも口が達者な老女だった。
女郎屋で遊女を斡旋する女将のようなしたたかさを漂わせていた。いったいいつまで働くつもりなのか。年齢は75にもなるという。
いかつい機械が、ごってり配置されたチョコレート製造工場のライン。
バレンタイン商戦が迫っていた。ピリピリした空気が張りつめている。
森工場長が現場で指揮を執っており、手の遅い従業員には容赦なく叱責を浴びせた。まるで海兵隊の軍曹である。
デポジッターという機械から液状になったチョコレートを、断続的に板チョコ用の型枠に流し込む。
コンベア上で大量の型枠が流れ、やがて振動させる工程にさしかかる。製品内の気泡を取り除くためだ。
そのあと型枠を乗せかえ、冷風が吹き付けてくるトンネルにくぐらせる。こうして製品が冷やされ固着。
冷却されたものは、デモールダーなる機械で型底を叩き、製品が外れる仕組みだ。
こうしてラインの者は、せっせと板チョコをトレイに並べていくわけである。
ここ最近は残業時間がかさみ、土日の休みもなかった。
現場の従業員は疲労の極みに達していた。どの顔ぶれも、眼の下にクマを作っている。
休憩時間では、テーブルに突っ伏して仮眠をとれるならまだしも、床に座り込み、腕に顔を埋めている者もいる。さながら強制収容所の様相だ。
来たるべきバレンタインという一大イベントの陰では、こうした犠牲者が悲鳴をあげているのである。
「まったく傍迷惑なイベントだわね。意中の男がいて、女どもはこれを機にモノにできたらまだいい。けど、人間関係を円満にするため、お義理をしなきゃいけないなんてナンセンス。くだらない社交辞令なんか、なくなっちゃえばいいのに」
と、山家は呪わしく言った。
二十代の新人である橘が山家の腕を叩いた。
「そんな愚痴ばっかりこぼしてると、また工場長からお叱りを受けますよ」
「それにしたって森の奴。会社に入ってきたころは鼻タレ小僧だったのに、ずいぶん生意気に出世したね。いまじゃ反対にロバのようにこき使われる有様。いつか思い知らせてやるから……」
山家は苦々しげに言った。年老いた眼は、疲れの色が濃く、充血もひどい。
カカオ豆を炒めるロースターの横にいた森が、目ざとくそんな山家たちを睨んだ。
「おい、そこ! 山家さん、またあんたか! 黙って仕事に集中しろ! 何度言わせりゃわかる!」
と、指弾を浴びせた。
「どうも、すみませんね。私ゃ、お話が好きでね」
山家は曲がった背をさらに曲げて詫びた。
「――ったく!」
森は伝票が挟まれたバインダーを抱え、向こうへ大股で歩いていった。
別のフロアで怠慢な者を見つけ、怒鳴り散らしている。
「やれやれ、やっと雷雲が退散したようだ」と、山家は型枠を取る手をとめ、隣の橘にささやいた。「――で、さっきの続きだけどね」
「ええ」
「時にあんた、そもそも日本におけるチョコレートの歴史をご存知?」
「歴史、ですか?」
「私ゃ半世紀も、この会社にいるんだよ。――日本人で初めてチョコレートを味わったのは、1617年、伊達 政宗の密命でスペインに行った支倉 常長の一団だとされているの。この人たちはヨーロッパにやってきたばかりの――正確には、チョコというよりココアね。この飲み物を飲んだそう。お次が明治時代、1873年、岩倉使節団がフランスのリヨンで、チョコレート工場を見学し、試食したとのことなんだけど」
「山家さん、物知り」
「これはミルクチョコが発明される前だから、今で言うとブラックチョコみたいな苦みのあるイーティングチョコだったと思うの。その4年後の1877年に、東京米津風月堂が『千代古齢糖』を発売しはじめたわけ」
「ふーん、なるほど」
「でも当時、日本ではいまいち認知されなかったみたい。というのも、これも『血汚齢糖』と言って、牛の血を固めて作ったお菓子だ、みたいな、イヤな噂が広まったからなの。誰だってモーモーさんの血で固められたモノなんか、食べたくないわよね」
「牛の血」
橘は眼を丸くし、身体をのけ反らせた。
「多分これは、『牛の乳』が誤って、『牛の血』と伝えられたんじゃないかと。ほら、そそっかしい人って、いつの時代にもいるじゃない? そうして都市伝説が生まれていった……。あらためて迷信だとわかり、ようやく売れ行きが伸びるのは、そのあとの時代ってわけ」
そのときだった。
背後のフロアに通じるドアが開き、森工場長が現れた。どうやらグルッと工場内を一周してきたらしい。
「何度言えばわかる山家! わざと席を外せばいつもそうだ。しゃべってないで、真剣にトレイに並べろ! 給料泥棒め! あんたみたいなのが会社の吸血鬼っていうんだ!」
と、山家につかみかかった。完全なるパワハラだった。
「あらま。抜き打ちでやってくるなんて。さては聞き耳立ててたわね!」
負けじと山家もやり返す。
橘が悲鳴をあげ謝っているが、もはや森のブレーキは利かない。
「別室に来い! あんたの、今後の身のふり方について話し合おうじゃないか!」
「望むところさ! 血を見る目になるよ!」
と、反抗した山家の眼は狂気じみていた。
そう言って二人は、別のフロアへ行ってしまった。
残された橘はオロオロするばかり。
その間にもコンベアから型枠の波が押し寄せてくる。
二人でようやく拾えたのに、橘一人では回収しきれない。
早くさばかないと、ラインの非常停止ボタンを押すはめになる。そうなったら、また雷を落とされるだろう。
別室では二人の言い争う声が聞こえた。
もみ合う音にまでエスカレートした。
硬いものが倒れる音が響く。
二人の悲鳴。
そのうち、男のうめき声が洩れた。
鎖状のものを巻きあげる音が続く。
いったい、なにごとか?
橘は型枠を手にしたまま、息を殺してドアを見つめた。
ゆっくりと、そのドアが開き、山家だけが現れた。
防塵服は血に染まっていた。
手にはナイフ。カカオ豆の入った麻袋を切る専用のものだ。
「ちょっ……山家さん、どういうことですか! まさか、森工場長を?」
橘は手にした型枠を捨て、ドアの方へ走った。
別室に飛び込んだ。
そこで見たものは生涯忘れまい。
重量物を吊りあげる歯車装置の鎖で、森が逆さ吊りにされていた。両眼が開いたままだ。
首に無残な切り口が開き、鮮血がしたたり落ちていた。
真下にはブリキバケツがあり、その血を受けていた。かなりの量がたまっていた。
山家がこう叫んだ。
「別に消費者にはなんの怨みもないがね。私がとっておきのチョコレートをこしらえてあげるよ!」
了