宝物
「3」
なぜ時間はその時々で長さが違うように感じるのだろう。
楽しい時間はすぐ過ぎ去るとか、辛い時間は長く感じるとか、そうゆうのはよく聞くけど、そんなの終わってしまえばどっちもあっという間だった気がする。
要するに、「今」は長さを感じるのに「過去」は一瞬なのはどうしてだろう。
なんで神様は人間の頭を、過去を思い出すだけでその時の経験をできるように作ってくれなかったのだろう。
そうしてくれれば、こうして家にいる間も宝物に囲まれて過ごすことが出来たのに。
そんなことを考えたところで週末はやってこないし、部活も始まらない。
仕方なく目の前のノートへ向かい、時間を有効活用する。
と、いっても、今日の5校時をうっかり睡眠学習してしまい、授業の穴が開かないように復習をしようと思っただけなので、時間の有効活用というか、時間の無駄をプラスマイナスゼロにしたいだけだった。
高校の合格祝いに親に買ってもらった、若干くたびれているリュックを手に取り、今日の5校時の内容の地理の教科書と、クラスメイトに頼んで貸してもらった今日のノートを取り出す。
僕が築いた人間関係の中で、恐らく1番几帳面であろう彼のノートは、期待どうりとても綺麗に整理されており、思わず感嘆の声が漏れる。
「おお…」
いつも黒板の文字を写すだけの自分のノートと比べものにならないな。
このノートがあれば教科書は要らないのではないかと思ったが、一応開くことにする。
素晴らしいノートの上部に記載された参照ページの数字を確認し、教科書を開く。
目標とするページへと移動しようとした時、以前 授業で習った内容が目に止まった。
〈世界の総人口数とその内訳〉
[ 総人口]72億4400万人
1位 中国 約13億9380万人
2位 インド 約12億6740万人
3位 アメリカ 約3226万人
4位 インドネシア 約2528万人
5位 ブラジル 約2020万人
6位 パキスタン 約1851万人
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教科書にぶたれたような気がして僕の動きが止まる。
僕は似たような構成のページを教科書とは別に見ていた。
この授業中、先生が2位のインドは最近になって爆発的に人口が増えた、と教えてくれたのを覚えている。
嫌だな、勉強をしたいだけなのに。
教科書のその文字に手を伸ばす、触れた側からページの文字が次々に書き換わっていく。
反射的に手を引っ込めたのに、それは止まってくれない。
やがて全ての言葉が書き換わった。
「友達にランキングをつけるとしたら、あなたは誰を1位にしますか?」
頭の中で誰かが読み上げる、その声が、離れない。
ぐるぐるぐるぐると頭の中を駆け巡って問いかける。
ああもう煩い、
いちいち出てこないでよ
あのとき正しい解答をしたんだからもういいでしょ?
もう答えは出たんだから、用はないでしょ?
100点満点だったんだから、見直しする必要なんてないから。
バラバラに溶けて無かったことになってよ、 僕はこんな言葉なんて掬ってないから。
これ以上…僕の宝物に近寄らないで。
目を逸らし、大きく息を吐いて教科書を閉じた。
椅子の背もたれに体重をかける。
右腕で視界を遮り、今度は大きく息を吸った。
理性が頭にブレーキをかけてくれている、暴走気味だった思考は速度をおとし、声はもう聞こえなくなっていた。
ため息をして視界を繋ぐ、授業の復習をしたかっただけなのに、何故こんな気持ちにならなければいけないのだろう。
教科書とノートを一瞥した。
今日はもう開く気にはなれない。
机から離れ、部屋を出る。
僕は気持ちを切り替えたくて、階段を降りてリビングへと向かう。
リビングでは、母が洗濯物を畳みながらテレビを見ていた。
「父さんは?」
「今日は遅くなるみたい。」
「そっか。」
僕もソファへ座ってテレビを見る、テレビには聞いたことのないクイズバラエティ番組が映し出されていた。
「新しく始まったんだって、この番組。結構面白いのよ。」
「へぇ。」
「母さんみたいに頭が良くなくても解けるの、閃きと発想力が重要なのよ。」
「そうなんだ。」
「広輔もやりましょ、あなたはこうゆうの得意そうだし。」
「うーん…どうかな…。」
閃きと発想力か、自信ないな、何をもって得意そうだと判断したのだろう。
「ほら、次の問題。」
結局、次の問題から参加して、番組が終わるまでリビングで過ごした。
すぐに解ける問題もあれば、ヒントをもらっても解けない問題もあった。
母さんも僕も同じような結果だったので、やはり得意なわけではなかったようだ。
「あーあ、終わっちゃった、来週も見ようかしら。」
「ねぇ母さん、」
「ん?どうしたの?」
「あ…えっと、毎週毎週うるさくない?」
クイズでついていた勢いを利用して、母さんに質問をしようとしたけど、直前になって内容を変えてしまった。
「え?ああ蓮くん達のこと?」
「…うん、ほら、最近は夜まで集まってたりするし。」
「いいのいいの、前にも言ったでしょ?友達とは仲良くしなさいって。あ、でも相手の親御さんを心配かけるのはダメよ?」
「うん…分かった、ありがと。」
「それにね、私はあなた達の事を小さい頃から見続けてるのよ?もう息子みたいな感覚よ、気にしてないわ。」
「そっか。」
「実際、お茶菓子とかも とっくの昔に出さなくなっちゃってるしね。」
「それはちょっと欲しいかも。」
「自分達のお小遣いで買ってきなさい。」
顔を見合わせてふふふっと笑った。
僕の悩みは解決していないのに、体が軽くなる。
どうしてこうも安心するのだろう。
高校生活にも慣れてきて、もう半分以上大人になっていると思っていたのに、僕はまだまだ子供だ。
大人になるってどうゆうことなんだろう。
新しく疑問が出来てしまったけれど、嫌な気分ではなかった。
「うん、急に変なこと聞いちゃってごめん。俺風呂入るね。」
「あ、新発売の入浴剤置いてあるから入れておいてちょうだい。」
「また新しいの買ったの?もう普通の湯の方が珍しいんだけど。」
「新しいものに惹かれちゃうのよね。」
「それは慣れ親しんだものがあってこそだと思うけど。」
そういって、軽くなった足取りで風呂場へと向かった。
廊下は寒いので、足早に移動して脱衣所に入る。
一気に服を洗濯機へ脱ぎ捨て、中へ入った。
すがるようにシャワーを浴びる。
そのまま身体の汚れを落とし、綺麗になってから固形状の入浴剤とともに湯船に浸かる。
手の中から泡と共に落ち着く香りが広がった。
うん、今日のはいい香りだ。
新しい出会いっていうのも悪くないな。
プルルルル、プルルルル
扉の向こうから固定電話の音が僅かに聞こえた、父さんかな?
今日は随分遅いな、仕事先でなにかあったのだろうか、働くって大変だ。
人ごとのように考えを巡らせて目を閉じる。
シュワシュワとだけ音がする、
今日も一日が終わる、明日も学校があって部活がある、明後日は午前に部活があって、午後は僕の部屋に彼らが来る。
考えただけなのに口元が緩んでしまう。
そのまま考え続けていたら、落ち着く香りに包まれて意識が遠のいた。
見慣れた2つの背中、楽しそうに喋っている。
いつの間に仲良くなったのだろう 、湊はああ見えて人見知りなのに。
あ、話しかけたんじゃなくて話しかけられたのか、それなら納得だ。
相手が誰だろうと、すぐに本音をぶつけて距離を詰めてくるからね
きっと湊は最初戸惑って、でもすぐに仲良くなって、口数も増えて軽口も叩くようになっていったんだろうな。
きっとそうだ、僕は前から2人は話が合うと思ってたんだよね。
今は何の話をしているんだろう、部活の話かな、僕に仕掛ける悪戯の話かな、それとも別の楽しい話をしているのかな。
ねぇ僕も混ぜてよ、話したい事が沢山あるんだ。
2人は僕に振り返り手招きをする、湊が笑っているのが見える。
あれ?彼の顔がよく見えないな、今は眩しいわけじゃないのに。
ねえ今どんな顔をしてるの?
期待に胸を膨らませたような顔?
話をしたくて堪らないといったような顔?
それとも僕がここにいることに驚いた顔?
ねぇ…笑ってるよね?
体が脊髄反射して目を覚ました、お湯が勢いよく跳ねる。
危なかった…いくら睡魔に襲われたとはいえ湯船での睡眠はよくない、反省しないと。
手の中の入浴剤は、とっくに溶けて無くなっていた。
僕は体に力を入れて立ち上がり、軽くシャワー浴びてから脱衣所へと出た。
体を拭きながら入浴剤の感想を考えて、寝巻きへと着替えた。
その途中で、先程まで何か夢を見ていたことを思い出す。何故か内容が出てこない、僕はどんな夢を見ていたのだっけ?
どうしても思い出せないので、大した内容じゃなかったことにしてリビングへと向かう。
なんだか廊下がさっきより寒く暗い気がした。
湯冷めする前に暖房の効いた部屋へ急ぐ、ガタのきていない引き戸を開けて、入浴剤の感想を言おうとした。
「はい上がったよ、あの入浴剤だけどさ、俺は結構好きかな、新しいものも…案外…悪く……え…?」
目の前の光景を飲み込むことが出来なくて、せっかく考えた感想を言い終われない。
そこでは、さっき僕に元気をくれた筈の母が、目を真っ赤にして泣いていた。
「…広輔……」
ただならない雰囲気を感じて、芯まで温まった筈の体に鳥肌が立つ。
「ど、どうしたの!?何かあったの?」
バスタオルをその場に落として駆け寄った。
「今…電話で連絡があって…」
電話、電話?さっきの父さんからの?
「電話…弘樹くんのお母さんからで…っ」
弘樹のお母さん?こんな時間に?
「っ…あのね…広輔…あのね…!」
母さんが僕の両肩を強く掴む。
「え、なに?…どうしたの?」
状況が掴めない、不安ばかりが押し寄せる。
「落ち着いて…っ落ち着いて聞いてね…?無理かもしれないけど…落ち着いて聞いて欲しいの…!」
ボロボロと雫が落ち続けている
「なに?なんなの?早く言ってよ。」
不安ばかりを煽るから、焦燥感に駆られて言い方が強くなる。
「あのね…あのね…っ、」
少しの間の後、下を向いたまま、意を決したように口を動かす。
なんだ?弘樹に何かあったのか?
「蓮くんが…っ今日の部活中に…打球が胸に当たって……!」
………………………………………え?