友達(2)
「2」
パンッ!
「「ヨシッ!」」
空気を切り裂くような景気の良い音と共に、綺麗に揃った掛け声がこの空間を引き締める。
僕は今の感触を忘れないように頭の中で反復し、次の矢を番えるその時間でもう一度頭をリセットする。
矢を番え、静かに立ち上がり、静かに的を見る、足を大きく広げ、少し重心を下げて、一度的から目を離す。
右手を弦にかける。
少しだけ大きく息を吐き、左手の弓の感覚を感じて、また的を見る。
そして、まるで自分を大きく見せるように、両腕でゆっくりと引く。
何も考えなくていい、ただただ、的を見て集中する、この時間は自分だけのものだ。
弓がしなり、その小さな音だけがこの弓道場に響き渡る。
やがて音はしなくなり静寂が訪れた、空気が、変わる。
…誰かが、息を吐いた。
ーー瞬間、綺麗に張られた障子を破くみたいに、大きな音を立てて弓が吠える。
鋭く弧を描いた矢は獣のように的へと向かう。
その行く末をこの場にいる全員が目で追った。
が、矢は先程のような景気の良い音は立てず、的の右側に鈍い音を立てて収まった。
僕に集中していた視線は散り、掛け声の為に吸われた空気がため息に変わって皆の口から吐き出される。
張り詰めていた空気が一気に緩む。
その空気を察知し、僕も気が緩まる。
「こらぁ、最後まで気を緩めるなぁー。余計な事を考えるからそうなるだろー。」
「…!…っはい!」
突然すぐ後ろから低い声がしたものだから、驚いて返事が遅れた。
「お前はさぁ、最後の一本が弱すぎるなぁ。最後の一本が当たらない奴はスケベって呼ばれるんだぞぉ。」
「…すみません。」
「ちゃんと心と体を整えてから立ちに入りなさい、分かったかぁ。」
「はいっ」
監督は、うん、と一言いって頷き、曲がった背中をこちらに向けて、のそのそといつも座っている椅子へと向かった。
…というか、いつの間に背後に回りこんでたんだよ。
弓を下ろし、定められた動作で退場する。指定の場所に弓を静かに置き、使った矢の掃除をしに行く準備をする。
この弓道場は他の高校の弓道場と比べて一回り小さく、部員数も少ない。3年生の先輩がもう引退してしまっているので、更に人数は減り、先輩後輩関係なく仕事をしないと練習が回らなくなる。
この、協力しなければ練習が出来ない状況は、今まで厳しかった上下関係を多少緩和し、上級生と下級生の関係を親しくさせた。
それが良い事なのか悪い事なのかは知らない。
靴を履き外へ出ると、先に立ちを終えていた同級生がニヤニヤしながら矢を拭いていた。
「よぉスケベ野郎、また最後外したなぁ。立ちの途中に何 変なこと考えてんだよ。」
「うるさいな、お前はデリカシーって言葉知らないの?」
後輩が持ってきてくれた矢を手に取り、僕も矢拭きに参加する。
「だってヨッシーにも言われてんじゃん、スケベって言うんだぞぉぉおって。」
「ヨッシーって誰のこと?」
「吉田先生」
「急に誰も知らないあだ名使うのやめてくれない?」
彼はくっくっくと笑い、矢に着いた土を綺麗に拭き取った。適当な言動のくせに仕事は丁寧だ。
僕も言われっぱなしでは引き下がれないので、軽く反撃に出る。
「そんなこと言うならお前はどうだったのさ。」
その言葉を待っていたかのように、彼の目が光った気がした。
まずい、墓穴を掘った、と瞬間的に思う。
「おいおいおい、俺を誰だと思ってんだ、天才無敵の湊様だぞ?外すと思うか?」
片手を顔に添え、ビジュアル系バンドみたいなポーズとり、これでもかというくらいに勝ち誇る顔をみて、こいつの頭をどうやって射抜いてやろうかと真剣に考える。
「お前はいつか俺に刺されると思うよ。」
「残念、俺の方が強いから返り討ちだな。」
「…今日の帰りは背中に気をつけた方がいいね。」
湊はさっきと同じように笑って矢を拭く、僕も、笑った。
僕が最後の1本を拭き終わったので、2人で拭いた矢を1つにまとめた、ジャラジャラと音がする。
「この矢を中に持っていってもらってもいい?俺は矢取りをするから。」
「えー?しょうがねぇなぁー、じゃあ帰りにドリンクな。」
「なんで普通に受け答えできないの?」
湊は、冗談だよ、と笑って矢を受け取り、古くなりガタがきている引き戸を開けた。
やたらと五月蝿い音が鳴る。
僕は自分じゃなかったらとっくに手が出ているのではないかと思いながら、さっき矢を持って来てくれた後輩と仕事の交代をする為に歩き出す、舗装のされていない砂利道が軽快に音を立てた。
後輩は、矢を回収するために的の横側に設けられた狭い部屋の中で、退屈そうにしていた。
僕のことが目に入ってか背筋をのばす。
「お待たせ、ごめんね、ちょっと邪魔が入って少し遅れた。」
「あ、広輔先輩、また湊先輩ですか?」
「うん、あんなのが新しい男子主将なんだからこの部活の未来は真っ暗だよね。」
「まぁ性格はともかくこの部活で1番上手ですからねー。」
「…ん、まぁね。」
また、体の何処かが軋む音が聞こえた、暖まっていた心が冷え始める。
「というか湊先輩はこの県の高校生の中でもトップレベルじゃないですか、そりゃチームを引っ張る立場にもなりますよー。」
「そうだね…俺も置いていかれないようにしないとな。」
「自分達からしたら広輔先輩もめちゃくちゃ上手いですけどね。」
湊が僕よりも上手なのは自分が1番わかってるし、勝ちたいとも思っていない。
だから多分、僕が気にしているのはそこじゃない。
「別に気を使わなくてもいいよ、ほら、仕事かわるね。」
「あっ、ありがとうございます。」
軽く会釈をして練習へと向かう背中に、頭の中だけで、どうせお前も分かってるんだろ?と声をかける。
…自分から言わせておいて、なんて勝手な話だ。
後輩の背中を見えなくなるまで見つめ、1人になってから昔友達に借りた本の内容を思い返した。
その本に習って、僕も自分の内に生えてきた苗木を残らず引き抜く。
いつか、自分を食い尽くすような、大きな木へと成長しないように。
深呼吸をしてから狭い部屋へと入り、設置されている小窓から射場の様子を伺う、丁度、凛とした声が弓道場に響いて、練習が再開した。
今、射場に立っているのは後輩達だ、まだ探り探り弓を引くので、動作が操り人形みたいにカクカクしている、危なっかしい。
僕もこんな感じだったのだろうか、1年しか違わないのに大きな差があるものだなと、いつも思う。
風が吹き、落ち葉が舞うのを見た、夏は僕達に別れを告げ、入れ替わりで秋が訪れていた。
もう着込んでいないと肌寒い、掃除の行き届いていないこの部屋で体を動かすと埃が舞った。
軽い咳がでる、今日練習が終わったら掃除しよう。
ゆらゆらと飛ぶ矢を眺めて、仕事が来るのを待つ。
きっと来年の今頃、この矢は僕の矢よりも鋭く研ぎ澄まされているのだろうなと思う。
パンッ
「「ヨシッ」」
誰かの矢が当たる。僕も1人離れたこの場所で声を出す。声が壁に反射して、とても大きな声を出した気がした。
立ちが終わるまでやる事が無いので、先程の後輩よろしく暇を弄ぶ。本当は後輩の立ちを見て、アドバイスの1つでも考えないといけないのだけど、ここからじゃ遠くて分からない。
ふと、誰がが砂利道を歩いてくる音がした。
「うぃーす、手伝いに来てやったぜ。」
「…見ての通り仕事は無いよ。」
さっきも見たうるさい顔に、ぶっきらぼうな言葉を投げつける。
「これから出来るだろ、俺達と違ってあいつらは人数多いんだから1人じゃキツイっしょ。」
「本当は?」
「サボりにきた。」
「お前凄いね。」
「なんだ今更、照れるじゃねぇか。」
「そうゆう意味じゃ無い。」
この部屋に2人も入ると、空気を2人の間で循環させてるみたいになって気持ちが悪い。
「ちょっと、狭いんだけど、可愛い後輩達にアドバイスでもしてきたら?」
自分の事は棚に上げて言う。
「ヨッシーが見てるし大丈夫だろ、それに、信頼出来る女子主将も見てるしな。」
だったらお前も主将なんだから教えないといけないんじゃないか、と言いかけてやめた。
「まぁいいけど…じゃあ、矢上げしようか。」
全員が立ちを終え、射場から退場したのを確認する。
今から的の前へ出ます、と知らせる為に手を2回鳴らして、あちら側へ合図を送る。承諾の返事が来た。
「矢上げします!」
もう一度、今度は大きな声で合図を送り、矢を回収しに行く。
無秩序に散らばった矢を引き抜いて素早く的前から退く。
「どうぞ!」
回収が終わった事をあちらへ伝え、返事を確認して仕事を終えた。
2人で分割した仕事量だったけれど、そこそこの量の矢が手の中にあった。
「な、俺が来て良かったろ?」
「はいはい、このご恩は決して忘れはしませんよ。」
「うっし、じゃあ帰りにドリンクだな。」
「それとこれとは別。」
「頼むよー、今月ピンチなんだよー。」
「じゃあ買わなきゃいいんじゃない?」
胸の奥がじんわりとする、僕達は土のついた矢を持って砂利道の上を歩いた、楽しそうな音が鳴っていたかもしれない。
こいつは僕にとってなんなんだろう、高校生になってから僕の中に急に現れたその存在に、僕はまだ戸惑っている。
宝物の顔が浮かんで消えた、まだ1年半程度の付き合いじゃないか。
いつも、対等な立場から物を言ってくれている気がするその背中を見続けて、僕はいつかの心理テストを思い出していた。