第1章 7節 老人はバレンツ海でライオンの夢を見るか?
鈍色の透徹。空だ。透徹した服、雨風で濡れる、わたしのブラウス。犬の遠吠え。静寂の街。背後と憂懼。新陳代謝との戦い。記憶と憎悪の保守。杞憂と雨空のメタフィジカルな観測。わたしは砂。空に溶けそうな砂。夜に凍えた指と同じ。砂は雨と混じり泥になり消える。わたしは街を歩いていた。隙があれば、あのむさ苦しい屋敷から抜け出し、街を歩いていた。雨の降る音が聞こえれば、街を歩いていた。わたしは雨が好きだ。
「ねえ」
右から声が。なっ……。わたしみたいな、どう考えても関わったら飼い主が来そうな危険な奴隷に話かける人がいるのか……。聞き覚えのない男の声だ。わたしは喫驚に心を奪われ、歩いていた足を止めた。
「ここには法律というものが存在しない。皆、道徳と規範の傀儡だ。良い意味でね。俺はスシャーの軍人だ。空軍でも防空軍でもないよ。まあ、そんなことはどうでもいい。あそこでは、法律で禁止されているから人を殺すなだとか、この罪状に触れてしまうからこういうことはやるなだとか、そんな"言葉"に溢れていた。でも、ここは道徳に生かされた世界だから」「ごめんね、もう……千日……そうだな、千日は誰とも話してなかったから寂しくてさ……なに、軍人の端くれの戯言さ。聴いてくれてありがとう。これやるよ」
男がわたしの胸に、紐のかかった重い箱を押し当てた。箱は地に向かって落下し、最後に紐がわたしの腕に絡り、着地を免れた。そろそろ帰らなければいけない。わたしは不思議な気分になって、屋敷に歩きだした。ところでこれは何か?指で箱を撫で回すと、端に長細い突起物がある。表面には無数のボタン……
«カチッ»
『日記……ov…聞こえ…ove…了解…over』
なんだ?
ガサついた音声が……
『音声日記、二百日目。今日は、身の危険を覚悟で、上司に抗議しようと思う。最後の日記になるかもしれない』
さっきわたしにこの箱を渡した男の声だ……。
『あっ、チーフ!話がある。千日後、本当に落とすのか?』
『そうだ』
雑音が入り、聞きにくい……。
『……スシャーはそこまで落ちぶれたのか!!……俺は降りる。もうおさらばだ。俺の技術を、無差別殺人の道具に使わせるわけにはいかない。ああ、それでいいさ。俺を辞めさせろよ。俺は社会に対して告発する。民主主義国なんだから、その権利は俺にもあるだろう?』
『おい、わかっているだろお前……!』
上司とさっきの男は、
もみ合い、暫く雑音が……
『なんだ?俺のような内部告発者を封じる、いや、殺す、それがこのご都合民主主義なのか?』
『やめろ!おい!ボイスレコーダーを返せ』
『メシトリに核が!』
«ザーー»
わたしは、足を止めた。メシトリに核……?はやくなる鼓動がわたしの心臓を圧迫、やや目眩に襲われ、地べたに座り込んだ。わ、わたしは死ぬのか……。
スシャー国民であるマクレーンさんはこの事を知っているに違いない。多分メシトリ人やフウイヌム人を殺す為の核投下だ。わたしはどうすればいい……。
混乱が頭を襲い、思考を鈍らせた。わたしは、死にたくない。死にたくない。呼吸がはやくなる。
その瞬間、ある記憶が心に浮かんだ。いつも馬車をひいている馬、あの馬は十日に一回、メシトリの郊外に向かっていたはず……。もし馬の記憶を走り、上手く誘導できたとしたら?わたしは、深く考えずに走った。一か八かで走った。マクレーンさんの家に走った。
喉に濡れ雑巾を押しこまれたような、肺が水浸しで、氷を入れられたような寒さの息切れがわたしを襲った。苦しい。なぜだろう。氷上で釣りをする老人が頭に浮かぶ。青と黒の眼で魚を掌握しているんだ。動物と人を繰り返して、進化と退化を繰り返す人類のように四つん這いと二足歩行を繰り返して走った。
マクレーンさんの家の番犬の鳴き声だ。ここだ、ついた。わたしは馬の匂いのする場所に向かった。
馬を撫でる。少し毛が生え始めた坊主小僧みたいな毛並みだ。馬に乗る。わたしを連れてってと、そう馬の耳元で囁いた。馬はわたしの暗闇の中で走る。見えない景色を吹き飛ばして。夜明けの暖かな太陽に身をうずめ、風に身体を舐めさせる。さようなら、思い出。