第1章 3節 形骸
呆然と、わたしには存在しない街を眺めていた。いつの間にか、肌に感じた雨粒は無くなっていた。心音を三つ数える度に、一歩進む。ゆっくりと、帰りたくはない奴隷の家に、わたしは義務……いや、麻薬。恐怖と義務、麻薬を欲する欲、それらが混濁した魔物に背中を押され、わたしを奴隷として買った奴の家に引き寄せられていた。
やみかける雨と、帰りたくない家。欲、その狭間をわたしは歩いている。近くの通りと思われし場所では、わたしと同年代ほどの子供達が騒いでいる声が聞こえる。彼らは、多分、このわたしが立っている"メシトリ"を北上したところにある地域、"スシャー"に住んでいた資本家の息子や、娘たちだろう。
入植により最近はメシトリにもスシャー人がかなり増えているが、フウイヌム語やメシトリ語ではない外国語を話しているので、目の見えないわたしでも、すぐにスシャーからの移民だとわかる。千日前、スシャーの偽旗作戦により引き起こされた戦争の結果、メシトリに核が撃ちこまれた。以前から、メシトリはスシャーに核を撃たれる度に絶対的追従を行っていた。その上での、幾度となる核投下。虐待のようなもの。
彼らスシャーは民主主義を謳い、自分達の考えに合意する者を、スシャー連邦の国民と認めた。しかし、メシトリ語やフウイヌム語を話したり、社会主義者だったり、世界共通言語という言語を学ばないと、"自由思想違反容疑"にかけられ、莫大な罰金を支払わせられる。
その、天文学的な金額は、容疑者が三代かけないと払えないほどのものだった。わたしは、わたしの親がその容疑にかけられたので、奴隷として売りに出されたと聞いた。もう昔の記憶も曖昧で、その話を信じるしかなかった。
自由の為の罰。平和の為の核投下。ウォー・イズ・ピース。きっと、スシャー連邦の大統領は1984を統治のマニュアルにでもしているんだろう。でも、実際の国民はそんなに馬鹿じゃないし、普遍化できない程の混沌だ。
こういう本の知識も、全部立ち聞きや、対話、読み聞かせで手に入れた知識だが……そうだ、目の見えない人間は、本など読めない、知性などない、だから"こういう仕事"をするべきだという偏見に蝕まれた人々により決められている。
人間が最も生を実感する行為を行う、人々が信じる幻想の神への、冒涜に等しき仕事。ああ、もう限界だ。
この、常に呼吸をするように湧き上がる憎悪は、どうしようもない。雨があがっているのだ。わたしは雨の気色悪さがなければ、空気に、思い出の気色悪さに溺れてしまう。わたしは、家に急いだ。先程の出来事もあり、だいぶ位置の感覚はズレたが、なんとか、いつも聞こえる馬車の通る音が聞こえる場所にでた。
このまま、まっすぐ進めば、わたしを買ったやつの家につくはずだ。
な、なんだ?急に、鈍い音がわたしの中に響いた。そして、少し遅れてわたしの脇腹に激痛が走った。
激痛の根源は、誰かの靴だ。うぅ、蹴られたのか……。痛みに気づいた時にはもう、その、蹴った足に押し倒され、わたしはアスファルトに伏さぎこんでいた。
「テシー、こんなところで何をやっているんだ?おれに許可もなく外出とは、貴様も大した身分になったじゃないか」
わたしを買ったやつの声だ……痛みからか、くやしさからかわからないが、わたしの目からは水滴が零れ落ちていた。遠くに聞こえる先程の子供たちの楽しそうな声。羨ましかった。くやしかった。涙が出た瞬間、わたしの強がりが全部こわれた。やはり、わたしはくやしいのだ。本当はこの世界をこの目で見て、闇から抜け出したい。怖い、怖いんだ。強がれない。
「グ……っ!」
質問に答えないわたしに、もう一発の蹴りが入った。
「口まで壊れたか、この能無しの約立たずめ。ヤクはお預けか……?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「くすりだけは、ください」
わたしは、雀の鳴き声みたいな言い方で、ものすごく震えた声で、そういった。