第1章 1節 モルフォのほたる
反吐がでる。土煙の匂いとノスタルジア。空気にさえ溺れそうな、とある雨の日。吐息さえも震えてきた。わたしは重苦しい足を上げ、道を探りながら歩いていた。骨が痒い。爪の中が痒い。この痒みと同じ嫌な思い出は、あえて思い出さないこととする。その、思い出したくなる猫のような好奇心は、どうしようもなく心を愛で、そしていたぶるが。
わたしの一秒と誰かの一秒。わたしの一秒のほうがなにか途方もなく長く感じる。実際はそんなもの見たこともきいたこともないのに、確信できるほど長い一秒一秒の心音。こんなにも今、持続する苦痛の鼓舞に泣いているわたしでも、一秒経つごとに別人になっていく。挙句の果て、数千日後の明日には、もう知らない人の体験のようになっている。わたしの短い、そして白と呼ばれる色で構成されるらしき毛髪が水滴と混じり合い、わたしの代わりに泣いている。こころが泣いている。そうして、毛髪はわたしの顔の肌によりそう。雨粒と、風が肌を撫でる。でも、わたしは身体とは別。わたしはわたしに同情しない。この感触が遠くの記憶となって消え去るまで傍観している悪人がわたし。わたしは泣き叫ぶ身体を無視して、仰向けに転んだ。地面は舗装されていて、アスファルトと言われる素材が背中を撫でる。転んでも雨天と呼ばれるものは、目には見えない。
わたしの見開いた目と、肌と、鼻、口。あらゆる穴や窪みに雨水が流れ込む。細長い大量の虫みたいな、真っ暗で、ただ気色の悪い雨が流れる感触。わたしの四官で感じるこの自然の摂理。目が見えなくても壮大さが伝わる。だがこの気持ち悪さは、罪悪感にかられながらも、家族から奪った金で酩酊に悦を覚えたマルメラードフの心情とよく似ている。わたしは、この気色が悪いが体中を舐め回し、汚れを自然の純粋な汚れに更新する雨が大好きだった。
「お嬢さん?大丈夫?」
冷たい雨に、温かい男の声が聞こえた。温かいといっても甲高くてさっぱりした声だ。
「お嬢さん、この、私の手を掴みなさい。その綺麗な肌も、そんなに地面と仲良くしていると、アスファルトの埃共と同化してしまう」
わたしの、受け身をとっていた手のもう片方の手に、その絹のような手袋につつまれた男の手が触れる。予告もされずに、勝手に手に触れられると少し恥ずかしい。
ああ、でも読めた。こいつ、この男は、手袋を付ける程に裕福そうだから、汚れたわたしに新しい服を買ってくれるのだろう。形而下に溺れた人間なんて、単一的だ。男も女も性欲か自己顕示か命乞い、この三つのどれかだ。みんなそうだ。必要のない装飾品で着飾るのも、人を出し抜いてでも何に使うかも決めていない金を手にしたいのも、みんなそうだ。みんな、この三つの中のどれかだ。