3.舞い踊る少女探偵
法月さんが扉を開けると、その「これまでの件の犯人」だという部長が話している最中だった。話している本人を含めみんなちらりとこちらを見たが、話を中断することはしなかった。
「だからね、私は腹いせだと思う。ここ数日、いやがらせされてた誰かさんがやったんじゃないかって。違う?」
部長と重音先輩、男子や一年生たちが、文木明日香に視線を向けた。私立のこんな学校に来るような子は大概がそれなりの家の子なのかもしれないけれど、そんな中でも文木明日香にはやけに上品な雰囲気がある。髪の一部を上の方でバレッタにまとめた髪型で、いかにも箱入りお嬢さんといった感じだ。彼女はさっき、僕たちが廊下に出る前、ずっとうつむいていた。みんなの視線を浴びて、それでも今も、ひたすらずっとうつむいている。
「なんとか言ったらどうなの?黙ってないでさ」
怒り顔の重音先輩が言った。
「二年生はまだ気楽かもしれないけど、三年生は活動実績を上げる最後のチャンスの大事な時期なの。一枚でも多く作品を仕上げたいのに、こんなことで妨害されたら困るのよ。さっさとこの場で白状して、二度とやらないって誓ってもらえないかな」
部長は文木明日香を射るように見据えながら言った。文木明日香はうつむき続けている。
……これっておかしくないか?
僕は法月さんの方を見た。法月さんは「これまでのいやがらせ」は文木明日香に対するもので、その犯人は部長だと断定していた。この状況からすると、たぶん部長がいやがらせの犯人だということは、部員たちはまだ知らないのだろう。ばれていないのをいいことに、自分のことを棚に上げて、部長は文木さんを悪者にしようとしている。もしも、たとえ今回の件が文木さんの仕業だったとしても……本当に悪いのは、そこまで彼女を追いこんだ部長の方ではないのだろうか。悪いのは部長なのに、こんな風に文木さんを糾弾しているのは、どう考えてもおかしい。
このおかしい状況を正せるのは、真実を知っている探偵、法月さんしかいないはずだ。
「文木さんはちがうよ」
僕の期待を感じ取ったのかどうなのか、法月紗羅は口を開いた。大声を張り上げたわけでもないのにその声はよく通る。全員、うつむいていた文木明日香を含めて、その場の視線が彼女に集まる。
彼女は部長を上目づかいでまっすぐ見上げると、
「まず、これまでの件の犯人だけど」そこで言葉を止めた。部長の表情に、覚悟のようなものが見えた気がした。法月紗羅はにっこりして、言った。
「犯人はわからない」
僕は耳を疑った。部長も怪訝な顔をする。
法月紗羅はそのまま続ける。
「そっちはわからない。でも、今回の事件はわかるよ」
部長から視線をはずすと、くるん、と身体の向きを変え、並んだ二人の二年生、文木明日香と山科悦子を正面にする。親指をぴんと張り、四本指をそろえた手を、ゆっくりとかざすように山科悦子に伸ばした。そしてその手を空気を撫でるように素早く動かすと、手の平をひらりと一回転させ、そのままの勢いで今度は並んだ全員の前の空間を手でさらっていくように、片手を伸ばしたまま、だだだだだ、と小さく円を描いて走った。全員が、あっけにとられて彼女を見ていた。髪を揺らして舞うように動く彼女から、目が離せない。
一周回って元の位置……山科悦子の正面に戻ってくると、彼女はぴたっと動きを止めた。
「ねえ山科さん、あのぼたっとついた朱色の絵の具、消せないの?」
山科さんに顔を近づけるようにして訊く。
「……消せる、と思う」
何が何だかわからないような顔をした山科さんは何とか答える。
「消せるならさ、消せばいいじゃない」
法月紗羅は山科さんの文木明日香とは反対の隣、少し離れて立っていた男子の方に今度は視線を移して言った。その子が何も反応できないでいるうちに、さらに隣に視線を移す。
「その方が建設的だよ。こんなの時間の無駄だ。そう思わない?」
「そりゃあ……」
「だよね。ね?」
さらにその隣、ずっとつまらなさそうな顔をしていた男子は、こくりと頷く。
「ねえ、安住さん。あんなの、水つけて布で叩いて、薄くなったら上から塗りたい色重ねたら済む話だと思わない?簡単だよ、杉浦さん。私なんて美術の時間、ぼうっとして全然関係ない色塗っちゃって、しょっちゅうそういうことしているよ。高良さんはしたことない?あるよね?ね?下手なやり方だと紙がごわごわになっちゃったりするけど、それは上手にやるコツとかあるんですよね、ね?重音先輩」
彼女は一人一人に視線を合わせながら話しかけていく。表情が、くるくる変わる。ひどく優しい笑みを浮かべたり、勇気づけるような顔をしたり、ちょっとおどけてみせたり、頼る顔になったり。
「そりゃあ」
「じゃあ決まりじゃないですか。三年生は特に忙しいんでしょう?ねえ、和泉部長。こんなことごちゃごちゃ言ってるより、さっさと活動しましょうよ。一枚でも多く描かないといけないんでしょう?」
大輪の花のような、そんな笑顔になって、両手を広げて法月紗羅が言った。そうだ、という空気がみんなの間に生まれている。けれどもその空気に、和泉部長は染まっていなかった。
「あなたは何を隠しているの?犯人、わかったんでしょう?今回はわかったって、あなたさっき言ったわよね。そんな人と一緒に活動するのは気分が悪いわ。何事もなかったように活動再開なんてできるわけない」
いかにも優等生らしい雰囲気の彼女の発言には、強さがあった。こんな風に堂々とした部長が、本当に、今回はちがうとはいえ犯人なんてことがあるのだろうか。僕は妙に不安な気持になりながら法月紗羅の方を見た。すると彼女はあろうことか……ひどく困ったような顔をして、頭を掻きながら言った。
「そっかあ。まいった」
まいった。その発言に、僕は目を剥いた。今の彼女には、しょっぱなの、探偵らしい堂々とした雰囲気は微塵もない。謎の動きをしていた時の優雅さもない。表情豊かな魅力あふれる美少女でもない。今そこにいるのは、ややがに股で照れ笑いをしている、ちょっと残念な感じの女の子だった。
「うん。実はね。わかったことはあるんだけど、犯人はわからない」
えへへ、と卑屈な笑みを浮かべながら彼女は言った。
「ただ、うん、これだけは断言できる」
とり繕うように姿勢を正すと、彼女は再び部長に向き直った。妙にきりっとした表情を作り、人差し指を立てる。
「犯人は、部外者だ。理由は簡単。だって、せっかく描いた自分の絵を汚す馬鹿はいないもの。部員全員被害者ってことは、犯人はこの部にはいないってこと」
そういうと、気まずさを隠すようにへらへら笑い、じゃあ、と言って教室を飛び出して行った。
美術室には、妙な空気が残った。
「くっだらない。そうよ、こんなの気にしてる場合じゃない。描こう描こう」
そう言いながら、赤ら顔の重音先輩――怒ってなくても顔色はやっぱり赤い――が机の方に向かった。それをきっかけに、他の子たちも動き出す。数人が、脇の流しで水入れに水を注ぐ。部長も、納得はしていない顔だったけど、黙って椅子を引いて席に着き、パレットを開いた。キツネ顔の風間先輩も、お嬢さん風の文木さんも絵の具の準備をし始める。
僕はもう一度、全員の絵を見た。
文木さんの左隣が山科さん。ただし山科さんの机は、文木さんより少し後ろで、モチーフから一人ちょっと離れている。山科さんの汚された絵は……もう、完成した後だったようだ。右下に、サインが書かれている。朱色のしるしは、彼女のが一番大きいように見える。彼女は不安そうに、隣の文木さんを見たり、他の人たちの様子をうかがったりしている。ずっと真っ青な顔をしていた彼女の手は、まだ震えている。
「絵の具消すとかめんどい。描き直す」
男子の先輩がそう言って、朱色をつけられた画用紙をぐしゃぐしゃにした。まだ下書きの段階で、そして正直、お世辞にも上手いとは言えないような絵だった。ぽいっと放り投げられて、画用紙はごみ箱の横に落ちた。
「ちょっと、拾いなよ」
部長が言った。
山科さんは、おびえたように振り向いて、転がった画用紙を見ていた。
キツネっぽい無表情の風間先輩がふいに立ち上がると、黙ってその画用紙を拾い、ごみ箱に入れた。戻りかけて、離れた場所に一人立っている僕に気がつく。
「あなた、なに?」
低音の、くぐもった声で風間先輩は訊ねた。
「あれ、まだいたの」
部長も言った。一年生の一人が振り向いた。
あとの人たちはこちらに視線を向けることもなく、淡々と作業を続けている。
「あ、僕は」
僕は探偵部ではなくて、さっきの子とは何の関係もなくて、この部活に入りたいから、今日は見学に来たんです。
僕はそう言うべきだと思った。そう言おうとした。
でも、僕の中の何かが止めた。ことばはどこかでせき止められて、声に乗ることはなかった。僕は口をぱくりと開けて、しばらく何も言えずにいた。
「……失礼します」
ようやく僕の口から出たことばは、それだけだった。僕は頭を下げ、そのまま逃げるように教室を出た。
「遅い」
廊下に出ると、法月紗羅はそこにいた。壁にもたれて腕を組み、やけにふてぶてしい表情をしている。でも、こちらを見あげている顔は、やっぱりすごく整っていて、どこからどう見ても、すごく綺麗な女の子だった。さっきの去り際の、あのみっともなさは一体なんだったのだろう。同じ顔のはずなのに、どうしてこうも、イメージがめまぐるしく変わるのか。
「遅いっていわれても、別に僕は待ってるなんて思わなかったし」
「助手くらい待つよ。そのくらいの優しさ、信じてよ」
「だから僕は助手じゃないって……」
その時、がらりと扉が開いた。山科悦子だった。手にハンドタオルを持っていて、たぶんトイレに行くのだろう。彼女は僕たちが廊下にいたことが予想外だったらしく、びくりと肩を震わせた。気まずそうな顔をして足早に脇をすり抜ける、と思いきや、すり抜けざま、彼女は法月紗羅をにらみつけ、言った。
「これまでの犯人は、見つけてくれなかったくせに」
唇がひんまがっていて、泣きそうなのだとわかった。
法月紗羅は、さみしげな顔をして笑ったが、何も言わなかった。去っていく山科さんの背中をしばらく見送っていた。それから僕に向き直ると、「さて、と」と笑みを浮かべ、
「ここじゃあなんだから、部室行こう」と言った。
「部室?」
「探偵部の部室に決まってる」
彼女はさっさと歩き出した。ウェーブのかかった長い髪が、柔らかく彼女の背中で揺れている。
……ここで、「いや僕は関係ないので」と立ち去る選択肢は、ないわけではない。
わかってる。
けれど、そんな選択肢を自分が選べるはずがないことも、わかってる。