1.這いつくばる少女
変な女の子がいる、と、その時思った。
放課後。中庭に面した廊下を歩いている時に、僕は彼女を見つけたのだ。ベンチに腰かけた数人の女子たちが楽しそうにおしゃべりしている脇で、彼女は四つん這いになっていた。中庭はレンガ敷きだけど彼女は植えこみの土の上にいて、繁みの中を覗きこんでいた。ブレザーのわりに華奢な肩や背中に、ゆるく波打つ黒い髪が流れていた。制服のスカートは、ついた膝の下敷きにされている。ベンチの女の子たちが地面に這いつくばる彼女に気がついたようで、おしゃべりをやめけげんな顔を彼女に向けた。でも、それに気がついたらしい彼女が顔を上げて何か言い、何度か会話を交わすと、女の子たちは納得したようにおしゃべりを再開した。しばらくすると、彼女たちはベンチから立ち去った。
授業が終わってだいぶ時間が経っていた。部に所属している生徒は部活動中で、それ以外の生徒はほぼ帰宅しているのだろう。そういうわけで、彼女たちが去ると、辺りは急に静かになった。
その女の子は、なおも地面を這いつくばっていた。僕はもっと近くで彼女の様子を見てみたくなり、頭の中で理由をこしらえた。彼女がいる植えこみの横には花壇がある。僕は美術部で、絵にするモチーフを探している、ということにしよう。ちょっと変な人みたいかな。でも彼女の方が明らかに変だし。それに、他に見ている人なんて、いなさそうだし。
僕は絵に描きやすそうなポイントを探すようにきょろきょろしながら、中庭に踏み出した。彼女との間には、まだ相当の距離があった。それなのに、赤レンガ敷きの中庭に一歩踏み出したとたん、彼女はぱっと顔を上げてこちらを見た。
乱れた長い髪に葉っぱがついている。頬は土がこすれて汚れている。けれどおそろしくきれいな顔立ちだ。その視線が妙に力強いので、僕はたじろいだ。色白で、妖精みたいな澄んだ空気をまとっているのに、どこか動物めいたその目はやけにびかびかしている。
僕は彼女に注意を向けているのを悟られないように、ふいっと反対側の花壇に目を向けた。彼女はすぐに繁みの中に目を戻した。僕は彼女に背を向けるように、しゃがんで花を覗きこむ。それからすぐに立ち上がって、彼女の様子をうかがう。そうこうしながらちょっとずつ近づいた。
「コンタクトを落としたんだ」
彼女との距離は、三メートルと離れていなかった。ふいに彼女が言った。大きくはないけれど、凛として、明瞭に響く声だった。まわりに人はいない。ということは、僕に言っているにちがいない。
「そ、そうなんですか」
僕は知らない子から突然話しかけられて驚いている風をよそおって答えた。いや、実際に驚いていた。たしかに僕は彼女の行動が気になって近づいたわけだけど。でも、実際に質問したわけじゃなかったのに。
「その答えで君は納得する?」
彼女は這いつくばったまま、その赤ん坊のようにまっさらな印象のある顔を突き出すように僕に向けて言った。近くで見ると、長いまつ毛にふちどられたその大きな目は、ますます迫力だった。僕は目をそらし、少し離れた地面を見ながら訊ね返した。
「……片目を落としたんですか?」
「片目を落として片目にコンタクトが入った状態で、物を探すのは至難のわざだよ」
「じゃあ、残った方もはずしたら」
「コンタクトをしているってことは目が悪いのに。その目で探し物をするのは、やっぱり大変だと思わない?」
「眼鏡は持っていないんですか?」
「うん、眼鏡をかけていたら説得力があるかな」
彼女は言いながらふるふると頭を振った。ついていた葉っぱがぱらっと落ちる。
「そもそも、使い捨てでないコンタクトを落としたとしたら、もうちょっと悲愴な顔をしているんじゃないかな。どう思う?」
僕を見上げて、彼女は訊ねた。
「それは人によると思うけど。あんまり顔に出ない人もいるかも」
「それは一理ある」
「あ、コンタクトを落としたのはあなたじゃなくて、あなたの友達とかですか?」
「お、それはいいね」
彼女は四つん這いで顔だけ僕に向けたまま、妙に嬉しそうに笑った。
「でも君はわかっている。私が本当はコンタクトを探しているのではないことを」
挑戦的に彼女は言った。
「さっきの子たちは、私が『コンタクトを探してる』と言ったら納得した。一緒に探してあげようか、と親切にも申し出てくれたから、いい子たちだとは思う。でもどうして不自然だと思わなかったんだろう。彼女たちは私が来るより先にここにいた。私はやって来て、探し始めた。変じゃないか?私がここで落として、残った片目のコンタクトをはずして戻ったのだとしたら、眼鏡をかけているのが自然じゃないか?眼鏡は携帯していなかったから仕方なく?それにしたって、コンタクトを落とした時の私は何をしていたんだ?そこを歩いている時にたとえば急に目が痛くなって、こっちを向いている時に落としたとする。ならこの繁みを探すことは不自然じゃない。でもそうだとしたら、立っていて落としたなら、葉にひっかかる可能性の方が高い。普通は上から探す。こんな風に下から先に探したりしない。なのにどうしてあの子たちのうち誰も、そこをつっこんでくれなかったんだ?」
彼女の目に、吸い込まれそうになる。僕は少し考えて、ちょっと目をそらすようにして答える。
「別に、どうでもよかったからなのでは」
すると彼女は、世にもかなしそうな顔をした。お尻をぺたんとつくと、スカートの上に手を置いて、力なく座りこみ視線を落とす。
「そうか。そうだよね。誰もそんな、真剣に考えたりしないよね」
僕は、急に彼女がしょんぼりしたことにうろたえた。
「その、なんで僕はわかってる、と思うんですか。あなたがコンタクトを探しているのではないとわかってるって」
僕が言うと、彼女はちろりと顔を上げた。すっかり生気を失った目が、それでも潤んだように澄んでいる。
「だって、そうだろう?」
「いえ、その、なんとなくそう思った、ですけど」
「『なんとなく』。ふふん、『なんとなく』。それもいいけど、せっかくだから何か理由を見つけてくれないとつまらないな」
彼女はなぜか急に元気になると、小馬鹿にしたように言った。僕はむっとしながら、なにかがそもそもおかしい気がして、状況を、頭の中で整理し直した。
「つ、つまらなくて結構ですよ。僕は、絵に描くのによさそうな花を探しているだけだし」
自分の決めた設定に立ち返って、僕は言った。
「君は美術部?」彼女は訊ねた。
「そうですよ」僕は答えた。
「君は嘘つきだな」彼女は言った。僕のうろたえを冷めた目で見ながら、
「美術部が活動中に写生場所を探すのなら、スケッチブックを持っているはずだ。手に何も持たずに下見に出たりなんて普通しない。それでも敢えてそうしている理由をいくつか想定することは不可能ではないけれど、大変くだらないことに、私は美術部員の顔と名前を全員把握している。それに加えて君のことも知っている。二年三組に編入してきた渡瀬敦くん。君はまだどこの部にも入っていない。前の学校で、君は美術コンクールで何度か入賞した。君は絵を描くことに強い関心を抱いている人間だ。だから自分にとってなるべく無理の少ない嘘をつこうとした。その点は、そう悪くないと言えるけどね」
それだけ言うと、すっと立ち上がり、彼女は歩き去った。
彼女に言われたことについて、何か言い返したいような気持になってきたのは、次の日になってからだった。嘘と決めつけられたけど、完全な嘘というわけではない。確かに僕は今美術部員ではないけれど、前の学校でそうだったし、これから美術部員になるつもりなのだから。そして描くものを探していたのだって、単なるでっちあげではない。確かに花壇の花を描く気はなかった。でも僕は、たいていいつも、「描きたいもの」を探している。というか、何か心にぴんと来るものがあると、「描きたい」と強く思う。僕があの時描きたいと思ったのは、這いつくばっていた彼女だ。もちろん本人に、そんなこと言えないけれど。
それにしても、どうして彼女は僕のことを知っていたのだろう。五月という中途半端な時期に編入して来る者は珍しいと言われた。だから名前を知っているぐらいならおかしくはないかもしれない。でも、美術コンクールで入賞したことなんて、僕はクラスメイトにだって宣伝した覚えはない。僕の知らないところで、実は僕の情報は出まわっていたりするのだろうか。