3
時間は最初、『音』が聞こえた頃にまで遡る。
--- ハルタ ---
ズリッ、ズリッ、と何かを引き摺りながら何かが近づいてくる。
「トモっ!」
アカネがトモの手を引いて、脱兎の如く走って行ってしまった。
おれはそれを他人事のように眺める事しかできず、隣に立っているコウとガンペイも呆気に取られているようだった。
音はどんどん近くなってくる。ずいぶん速い。
アカネとトモが走っていった通路は音が聞こえ始めた時は音と離れている場所だったが、今から追いかけるとなると音の正体とカチ合う可能性がある。
こうなれば、音の正体を見てから逃げよう、と他の二人に合図した。
頷き返すコウとガンペイ。この館の内部がどういう形をしているのか想像できないが、少なくとも出口があるなら一階だろう。
なので、逃げるのは音のする方とは反対側の通路に決めた。二階への階段は無視だ。
そうしている間にも、先ほどの死体からは血があふれ出てくる。部屋が段々と錆びた鉄と、今まで嗅いだ事もないようなすさまじい臭いで充満していく気がした。
ズリッ、ズリッと音を鳴らして来たヤツは、もの凄く着心地の悪そうな赤黒いフードを被っていて、顔を眺める事はできなかった。
隠れているのは頭から足のラインだけで、腕は見えたが……。身長や筋肉の付き方がおかしい。一般的な人間の二倍近くはあるのではなかろうか、とにかくデカイ。
そして、音の正体は片足を引き摺っているからだと判った。自重でカーペットの上でもあんな音を鳴らしてしまうのだろう。
さっき投げた死体の返り血を浴びていて、腕やローブは元々の色だっただろう赤黒いものの上から、更に真っ赤なペンキをぶちまけたようになっていたが全く気にする様子は無い。
丸太一本ぐらいあるんじゃないかと思われる腕には、本来ならそれなりに大きいはずなのにその巨体には似合わない、ごく普通の大きさの鉈を持っていた。
これも返り血が付いていたが、形が少しおかしい。普通の鉈というより……刃がかなり欠けているというか、鉄がへこんでいるというか。
おそらく、全く手入れせずに何度も使っているのだろう。人を、殺す為に。
「逃げるぞ!」
コウの合図でヤツから目を離せなかったおれの体が動いた。
全員で一斉に反対側の通路へ向かう。
後方からズリッ、ズリッと音が聞こえてくる。
先ほど音だけでも速いと思っていたが、これは予想以上に速い。
おれらも全力で走っている筈なのに、それにピッタリくっついてくるどころか、気を抜けば今すぐにでも追いつかれそうな速さだ。とても片足を引き摺っているとは思えない。
スピードを落とせないので振り向く事が出来ないが、段々近づいて来ているのだろう。音が、近い。
このまま走っていれば、撒くどころか確実に追いつかれて一人ずつ確実にあの鉈の餌食になるだろう。
「お前らは、先に走ってろ。後で合流する」
「え? でもお前!」
ガンペイはこの状況を詰みだと判断したようで、自分が囮になるつもりのようだった。
コウは引き止めようとするが、ガンペイは首を振る。
「この中で一番体力があるのは誰だ、俺だろ?」
なら俺が引き受けるしかないじゃないか、といった具合だ。
確かにガンペイはさっきから逃げながら周囲を見回す余裕があったように感じる。
ならば、あの背後のヤツのターゲットになっても逃げ通せる自信があるのだろう。
正直おれはもう限界に近かった。走り出してからまだ数分も経っていないと思うが、それを全力で嫌な威圧感に耐えながら走ったんだ。
息も絶え絶えで、コウやガンペイはよく言葉を出せるな、なんて考えてしまう。
コウが、後で探しに行く、とガンペイに告げて、またおれらは前に向かって走り続ける。
ガンペイは逆に一度立ち止まってからヤツの方へ向かって行った。
ガンペイが向かっていった直後から、もう足を引き摺る音は聞こえなくなっていた。
念のためまだ走り続け、途中丁字路があったので曲がり、そこから少し走った所で完璧におれのスタミナは尽きた。
大きく息を吸い込んでは、吐き出すのを繰り返した。
コウも同じようにしていたが、おれほどは疲れていなかったようで、すぐに直立した姿勢へと戻る。そして、辺りを見回した後、近くの部屋を指差して言う。
「一旦隠れて休憩しないか?」
「ち、ちょっと待ってくれ、まだ息が、整わない」
まだ苦しいし、全力で走ったせいか全身がめちゃめちゃ痛い。
その後、数十回大きく呼吸を繰り返して、やっと話せるような状況になった。全身が痛いのはある程度収まったが、多分これは今日ずっと痛いだろうし、明日には筋肉痛だろう。
おれが姿勢を正したのを確認した後、コウは再度部屋を指差してさっきと同じ事を言った。
「……通路よりは安全か」
そう言って頷く。
確かに、明かりが点いている為それなりに遠くからでも人が居るのが判る通路より、部屋に入ってしまった方が身を隠すのには丁度良いだろう。
おれはコウに頷いてドアの近くに寄る。耳を欹てると、コウが訝しげな視線を送ったが、人差し指を口に当ててジェスチャーをすると察してくれたようだ。
……音は聞こえない、おそらく安全だろう。
さっきみたいのがうろついている館だ、罠があってもおかしくない。
コウに一旦下がるように言い、ドアの前に決して体を出さず、腕だけでゆっくりドアを開ける。
幸い、ショットガンの音も手榴弾のピンを抜いたような音も聞こえない。どうやら一応は安全なようだ。
部屋に入りながら非常にゆっくり辺りを眺めて入っていった為、コウに慎重すぎないか? と尋ねられたが、全く知らない館に閉じ込められて、訳判らない内に追われて、それでもなお無神経に行動できるほどおれは勇敢じゃない。
部屋の中にまたドアがあった。こっちもさっきと同じ要領で開ける。当然と言っちゃなんだが、罠の様なものは何も無かった。
部屋は二つ繋がっているようで、もう片方の部屋からさっきの通路に出る事ができるようだ。
さっきのヤツに追われた時、こういった部屋を使えって事か? 確かに、時間稼ぎにはなりそうだが……。
とりあえず、両方の部屋に何も無い事を確認、多少汚かったが、他に座る場所がない。二人してカーペットの上に座る事にした。
休憩とは言ったものの、ガンペイの事が気になって仕方ない。コウもそう考えてキョロキョロ辺りを見回しているのかと思ったが、そうではなかった。
「なあ、ここって家具とか何一つ無いのな」
言われておれも辺りを見回す。本当に、ただの『空間』だった。家具が何一つ無く、あるのはドアが二つだけ。
その片方のドアの先も、やはり家具は一つも置いてない。
ガンペイの事を考えたり罠が無いか考えていた時は全く気にならなかったが、言われるとこの部屋は不気味過ぎる。
本当に、あのヤツから逃げるためだけに造られた部屋。そんな雰囲気を感じた。
暫くその後コウは黙っていたが、やがて口を開いた。
「なあ、ハル、一人で行動できるか?」
「何でそんな事を聞くんだ?」
「……二人以上居るのは危険だと思ったからだ。俺はガンペイを探しに行きたいし、大広間の死体が本物か確認しておきたい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんで二人以上が危険なんだよ」
おれが尋ねる。コウは、何を言うわけでもなく頷いた。
間違いなく、おれは今頭が回っていないだろう。さっき追われたばかりだというのに、一人で行動するなんて恐ろしすぎる。
もしかしておれが足手まといになるのか、と口を開こうとしたが、やめた。コウがちゃんと理由を言ったからだ。
「さっき追われて判ったんだが、一人なら隠れる場所はいくらかあった。ただ、二人同時にとなると多分厳しい」
コウも辺りをしっかり見ていたらしい。と、言う事はガンペイを探しに行くと言うのは、『生きていて欲しい』という希望的観測じゃなくて、きちんと逃げられている可能性が高いと踏んでいるからか。
それに、とコウは続ける。
「こういった部屋がまだいくつもあるなら、なおさら二人以上での行動は厳しいだろ。どうしてもドアに入る順番で遅れが出る。それで見つかったら元も子もない」
……確かにな。
とは言え、一人と言うのは心細すぎる。
「でも何とかならないか? どっちにしてもトモやアカネも探さないといけないし、結局団体行動になるんじゃないか?」
「まあ、そうなるな。だから、一時的なものだと思ってくれれば良い。俺はガンペイを探すついでに大広間に行きたいだけだから、その後に合流できればそれで良い」
戻り道になるから、ヤツと出会う可能性が高いって事か。
「でも、合流方法は?」
おれが聞くと、コウは唸った。
「そこなんだよなぁ。結局、それでアカネとトモも見つかってないわけだろ? だから、かなり危険かもしれないが、一階だけを行動範囲に絞れればと思ってる」
なるほど。それならある程度のすれ違いはあるかもしれないが、おれとコウは移動範囲が大体判る。
更に、ガンペイ、アカネ、トモを見つけたら一緒に行動すれば全員集まれるって事か。
館の大きさ自体は外から見る限りはここまで大きくなかったはずだが、走り回れるほど異様に広いこの内部を見てしまうと館の広さはもう判らない。
となると、一階を行動範囲に絞ればおそらくお互いに出会いやすいだろう。
「一応、理解はした」
できるなら一人になりたくないと言うニュアンスを含め言ってみるが、コウはやはり反応薄く軽く頷くだけだった。
「あと最悪の状況についてだが」
「お、おいおいいきなりそんな事言うなよ」
「いや大事な事だ。ちゃんと聞いてくれ」
コウはそう前置きをして、出口を見つけたら一人でも脱出しろ。と言った。
おそらくコウは全員見つけるまで脱出する気は無いだろうに。それですれ違ったらどうするつもりなんだ。
思わずため息が出た。しっかり色々と意見を言ってはいるが、意外とコウも周りが見えてない可能性がある。そう思うと、不思議と恐怖感は薄れていった。
「判ったよ、暫く一人で一階を周ってみる。メインはトモとアカネ探しだな。でも、先に一人じゃ脱出しないからな? もし脱出するなら、全員でだ」
二人して笑い、じゃ、気をつけろよと軽く拳を合わせた。
--- コウ ---
と、言ったものの、ぶっちゃけ戻りたくない。
追ってきたヤツの見た目や雰囲気は、冗談じゃ済まされない、こう、何というか……怖さを感じた。
一目見たときは『こんなデカい人間居るのかよ』とか思ったけど、人間じゃなくて、化け物や怪物って言われた方がしっくり来る。
ガンペイはあんなのに向かって行ったんだ。あいつの事だから、ある程度勝算はあったのかもしれないが、どっちにしろあいつが行ってくれなきゃ全員追いつかれていただろうし、今はガンペイが生きている事を祈るだけか。
ハルタは俺とは別の方向へ歩いていった。
俺もできるなら、館内をぐるっと大きく一周して合流する予定だ。
来る時は走っていたのである意味楽だったが、戻るとなると骨が折れる。
なにせ、常に音に注意しながら隠れられそうな部屋をピックアップしつつゆっくり戻るのだ。
あんな変な化け物が徘徊している館だから、それ以外にも何かあるかもしれないと考えたりしていると心臓はもうバクバクだし、物陰から何かが飛び出してくるんじゃないかと身構えたりもしてしまう。
見つかる危険性を考慮して単独行動の方が良いと提案はしたけど、ここまで神経がすり経るようなら、あのまま二人で行動していた方が良かったかもしれない。
とは言っても過ぎた事だ。今更来た道を戻っても、おそらくハルタとは会えない気がする。
しっかし、結構な距離を走ってきたんだなあ。ドアを空けて部屋の中を見る、なんて寄り道をしてはいるものの、ガンペイがあんまり離れないようにできるだけ急いで戻っているつもりだ。
それなのに、多分まだ半分も戻れていない。もちろん、行きと帰りは道が別に見えるからって言うのもあるのだろうが。
さっき休んだのに、もう疲れてきた。適当に柱の影に隠れて座り込む。
その後、今抱えている色々な疲れや不安を吹き飛ばすべく大きくため息をついた。
この長い道を通ってガンペイを捕まえて、大広間から反対の通路に行ってアカネとトモを捕まえる。
……できるだろうか。
アカネとトモの方は、アカネが先導してくれているならきっと安全だろう。アイツはそれなりに肝も据わっているからな。
まさかあっちもはぐれているなんて事は無いと思うが、少なくとも俺とハルタみたいにお互いの意思の元単独行動をしようとは思わないだろう。
できれば、あの二人はハルタと上手い事遭遇してくれれば楽なんだがなあ。
隠れながらそんな事を考えていると、何か布の擦れるような音と空気が振動する雰囲気を感じた。
体を強張らせてゆっくりと覗き込む。そこには、ガンペイが歩いていた。
しかしなんとなくおかしい。ふらふらした足取りで、焦点なんか合って無いようにも見える。
様子を見るべきか、出て行って俺らが無事だった事を伝えるか。
少し考えたが、結局後者にする事にした。
見えているのは間違いなくガンペイだし、ヤツから逃げるのに大変だったと考えると、体力が尽きてふらふら歩いているのは別になんらおかしくは無い。と、判断した。
「ガンペイ」
柱の影から出て、ガンペイを呼ぶ。
ガンペイはこっちに顔を向けた後ふらふらとこちらに近寄ろうとして、血飛沫を上げながらペシャン、と潰れた。
上から圧が掛かったように。
なに、どうなってる?
今までガンペイだったものは、今は服でしか判断できない。
違う、そうじゃなくて。
何が起こった?
少し離れた場所から、ズリッ、ズリッと足を引き摺る音が聞こえてくる。
何がどうなっているのか全く判断できないが、一つだけ考えられる事がある。
逃げないと。
俺は急いで、音とは反対の方に向き直り隠れられる部屋を探すために走り出した。