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escape  作者: 紗凪 ケイ
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 ズリッ、ズリッ、と布を引き摺る音が聞こえる。

 私は荒い息を抑える事も出来ず、ただ、見つからないように、『あいつ』が私を見つけないように、祈った。

 心臓の鼓動が大きく聞こえる。さっきから震えが止まらない。

 布を引き摺る音は段々と近くなり、私の息遣いは更に荒くなる。

 鼓動がうるさい、息する音もうるさい。この音を聞きつけて、『あいつ』は簡単に私を見つけてしまうのではないか。半分以上パニックになっている頭で、それだけ考える事ができた。

 

 私が隠れているクローゼットは狭すぎる。異臭が酷く、屈む事も出来ない。

 もっとも、冷静な時にこのクローゼットに入る勇気は絶対無いだろう。

 でも、私は冷静じゃない。少なくとも、今この状況では。

 叫びたい。声を張り上げて助けを呼びたい。うるさい。苦しい。


 死にたくない。


 もう逃げ始めてからずっと涙は止まっていない。けど、その所為で視界が悪いという事は無い。

 『見る必要のあるもの』はきちんと見えているはずだ。

 それで『見る必要の無いもの』は絶対に見えない。それで充分。

 例えば今、それを見てしまえば……。認識してしまえば。私はもう動く事すら出来なくなるだろう。

 私はクローゼットの扉を凝視しつつ壁に張り付いて、布を引き摺る音が遠ざかってくれる事だけを、ずっと祈った。


 ――『あいつ』の布を引き摺る音は未だに聞こえている。

 近い。もしかして、さっきからずっとそうだっただろうか。私がここに隠れている事はもう判っているのではないだろうか。

 そう思うと、私はその場にへたり込みそうになり、ずっと背中を預けていたガビガビの壁に手をついた。

 屈んでしまっては『未来の私』ときっと目が合う。そうなれば、後は。


 私は震えすぎて上手く動かない手で、辛うじてハンカチをポケットから取り出して口を塞いだ。

 ずっとクローゼットに隠れていた所為で、頭がまともになり始めている。それはいけない事だとパニックになっている頭の片隅で思うが、そればかりはどうしても抑えることは出来ない。

 異臭に耐えられなくなってきている。

 恐らく、これ以上クローゼットの中にいれば、次はこのガビガビの壁が何だか認識してしまうだろう。

 早く。早く『あいつ』が私を探して別の場所へ行ってくれないと。 


 そう願っていると、布を引き摺る音が別の方向へ向かっている気がした。

 私は今すぐにでもこのクローゼットを出たい。が、体に力が入りすぎているようで、相変わらず体は震えているものの、壁に手をついたまま動くことが出来なかった。

 突如、バンッ! と何かを叩き壊すような音がして、私は恐怖と異臭で吐きそうになった。

 ギリギリ吐かずに、声を上げずに済んだのは、さっきから口を押さえているハンカチのおかげだろう。

 『あいつ』が何を壊したのか判らない。音の近さ的には、このクローゼットのあった隣のドアだろうか。

 そう思うと、また何も考えられないほどの恐怖が私を襲う。再び息は荒くなり、他の音が何も聞こえなくなるのではないかと思うほど心臓の鼓動が大きく聞こえた。

 涙が溢れる。ハンカチを押さえる手が強くなる。

 次の瞬間にも、先ほどと同じようにこのクローゼットを叩き壊して私を見つけるのではないだろうか。



 もしかすると、少しの間気を失っていたのかもしれない。

 そう思えるほど、辺りが急に静かになっていた。なんとなくだが、『あいつ』の気配も無いような気がする。

 いつの間にか手を離して、再び背中を預けていたガビガビの壁から身を離して、クローゼットの近くへ耳を(そばだ)てる。


 布を引き摺る音はしない。

 それだけで、私はすぐにでもこの場を抜け出したかった。

 でも、手を動かしてクローゼットを開ける事ができない。

 もしかすると。

 もしかするとだが。

 このクローゼットの目の前に『あいつ』が立っていれば。

 そう考えてしまうのだ。


 『あいつ』は何だか判らない。獣のようにニオイや気配から人を見つけることは恐らく無いし、人間のように片っ端から死角を潰して人を探すような事もしない。

 だが、必要とあらば何時間でも同じ場所に立ち続けていられる程度には賢い事を私は知っている。

 ……その現場を、何度か見たからだ。


 怖い、が、このままここに居続ける事は出来ない。

 再び私の頭は冷静さを取り戻し始めている。また異臭と、クローゼットの上から挿す光で、壁が血塗れである事が確認できた。

 入る時はそれどころでは無く、見る必要の無いものと認識していたものだ。

 声を上げそうになるが堪え、短く息を呑み壁から離れた。下は見れないし、見たくない。

 

 私は覚悟を決めて、少しの音も鳴らないように、ゆっくりとクローゼットを開けた。



 そこには、誰も居なかった。

 どうやら壊されたのは、やはりバリケードを張ってあった隣の部屋へのドアらしい。

 私はバリケードの所為で入る事が出来ず、どうにか隠れる所は無いかとこっちのクローゼットへ逃げ込んだのだ。


 この館は不思議な造りをしている。

 まるで『あいつ』から逃げるために造られた様で、大きく一周できる通路や、どの部屋も部屋から部屋へと繋がっていたりして、行き止まりというものが殆ど存在しない。

 

 しかし、『あいつ』は足を引き摺っているのに速い。私が全速力で走っても、ある程度時間を稼げるだけで結局は追いつかれてしまうだろう。

 だからそういった通路は意味が無く、上手く部屋から部屋へ逃げて撒くしかないのだ。

 まだ『あいつ』が近くに居るかもしれない。自分の体を抱くような格好で大きく深呼吸して震えを抑える。

 ――私は再び出口を探す事にした。

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