或る時計塔
私はかの有名な時計塔である。私は人間たちの知恵により生まれ、それから150年もの間時を刻み続けた。
私は多くの人間を見てきた。人間は食うものを食わねばならず、眠るときにはぐっすりと眠らなければならないのだが、時計塔であるこの私も親に似てしまったのだろうか、動くにはネジを巻かねばならず、立ち続けるには人間の手が必ず必要なのであった。 しかしどうしたものか昨日から人間の形が見えなければ、いつものがやがやとした音も聞こえてこない。はて今日は人間の休息日なのだろうかとも思ったがどうやらそのようでもないらしい、二日が過ぎれども前を通り約束時間を確認する若者も、今日をどう過ごすかと思案する老人も、さらには私が動く為に必要な手入れをする人間、それすらも形を現さなかった。このまま見知らぬ場所で取り残された猫のように放っておかれてしまえば、私はじき止まってしまう事だろう。これは大変な辱しめだと思ったものの、しかし待てよ、必要とされぬ時計塔が働きをやめたとしていったいどれ程の悲しみがあろうか。それならば必要にされるまで、生まれて初めての、それも一切の視線を浴びることのない暇を楽しむとしよう。
………さてどうやら人間たちは形をこつぜんと消してしまったようだ。あれから一切の人間を見ていない。もしや人間たちは揃いも揃ってどこかへ大移動をしてしまったのかもしれない。もしくはある怪人が人類を一人残らず消し去り自分も消えたのやも知れぬ。
ともかく時計が必要とされなくなって数十年、私が動かなくなってから随分と長い月日が流れた。時々やってくるのは主を失いながら強かにいきる猫と隠れすむネズミと、あとは私の胴にまとわりつく忌々しい葛のツルであった。猫やネズミ等はわざわざ気に掛ける必要も無いが、この葛、こいつばかりはどうにも厄介だ。ある日突然と、足元に芽吹いたかと思えば人間が多くの時をかけて作り上げたこの体を造作もないといったぐあいにするりするりと上ってくる。人間が自分のテリトリーに入り込まれることを極端に嫌がるように、私も自分の胴をあっという間に侵食する植物はとても嫌いだ。しかし私は人間と違い自分のテリトリーを守る力などは持ち合わせておらず、ただただこの葛共に見えない悪態をつく他なかった。大変口惜しかったが、その他に為すべきことも為せることもありはしなかったからだ。生意気な葛め、いつの日かぎゃふんと言わせてくれよう。どうせ私には聴こえはしないが……。
…………。
あれからさらに長い月日が流れた。どうやら人間がいなくなり、いつとも知れぬが、いや戻ってこないのかもしれない、兎も角再びネジが巻かれることはないようだ。というのも、人間が消え幾星霜、建築物の定めか、形あるものはいづれ壊れるとはよくいったものだ。私の根元、地盤の擦れがもうどうにもこうにもならないところまでやって来たのである。こうなってしまえば逃げることも助けを乞うことも叶わず、残り僅かである形ある今を楽しむことしかできない。人間がバラバラになれば二度と言葉を発せぬように、やはり私もバラバラに崩れた暁には死を迎えるのだろうか。等と考えつつ……。
いつとも知れぬ終わりに後悔もなく、ただ待つのみというのも少しばかり寂しいものである。少しずつではあるが、しかし着実に地盤がずれていく。気付けばこの体も随分と傾いたようだ。猫が私を憐れむような目で見る。そんな具合で、私はどうにも諦めのような、喪失感のような、自虐的な感情でいた。
そしてまもなく時がやって来た。ぐぉぉーーーんと久方ぶりの大きな音が全身から響き、倒れ始めた。
私はかの有名だった時計塔である。私は人間の手により生まれ、人間の手により生かされてきた。必要とされなくなった時計塔はいつの日からか、親に似てしまったのだろう、随分とヒト的な感情を宿した。時計塔は数日の間に猫たちへ聞こえもしない最期の挨拶をした。数十年間、ただの一度も気にかけたことのない猫たちはそれを気にも留めず、悠々と歩き去った。
おぉー、倒れるぅ。と思ったとき自分の頭がいかに重かったかを初めて知った。からだが倒れるよりも先に頭が下へ下へ向かおうとし、からだが取り残されまいとするが、しかしそれでも取り残されたからだがのびきりちょうど胸の辺りから斜線を引くように裂け始めた。裂け目は私の胸回りを一瞬で駆け抜け、妙な解放感とともに真っ二つの私は崩れ落ちていく…………。
…………、地面に叩きつけられ瓦礫となった私は時計塔という身分ではなくなったものの、"生きて"いた。そして以前よりもずっと気楽な身なりになり、しかし戻らぬ人間たちに何を言うでもなく、今日も強かな猫が生き、ネズミが幾分隠れやすくなった私に身を潜める。
“私は或る大きな時計塔だった”
あ、そも言えば、あの忌々しい葛共は私が崩れるとともに千切れ散ったようだ。良い気味である。
習作です。至らない点ばかりです。少しでも楽しんでいただけましたでしょうか。