エピソード10 陰陽 <NaoKo Part>
夜のベランダから 崖下の児童公園を見下ろす。
生暖かい春の風が 無人のブランコを揺らしている。
私は ガラスにおでこを押し付けた格好で、
キイ、キイと鳴るブランコの音に耳を澄ませながら じっとお兄ちゃんの帰りを待っていた。
きっと 今 到着した電車に乗っていた筈、
きっと 今 駅前の踏切を渡った筈、
きっと 今 坂道に続くスーパーの前の曲がり角を曲がった筈、
きっと 今 このアパートへと続く坂道を上り始めた筈、
私はそんな空想を もう1時間近く 何度も何度も繰り返している。
礼子:「お茶、飲む?」
直子:「はい、戴きます。」
私は多少フラフラしながらテーブルの前にアヒル座りする。
此処は201号室、管理人さんの部屋。
…25インチの液晶テレビがバラエティ番組を流していた。
実は、私は 昨日から一睡もしていない。
眠ってしまうと、また黒蝗に身体を乗っ取られてしまいそうな気がして、怖くて眠れなかった。
お兄ちゃんは、加茂の先生の所に 私の症状の事を相談しに行ってくれている。 私はお兄ちゃんが帰ってくる迄の間、眠ってしまわない様に 礼子さんに付き合ってもらう事にした。
礼子:「ちょっと、お話しようっか、
…眠気が覚めるのって 何といっても ガールズトークだよね。」
礼子:「直子ちゃんの初恋の人ってどんな人?」
いきなりな様な気もするけれど、…実はそうではない。
先ほどから同じ様な手順を 何度も何度も繰り返して来ているので、そろそろ話のネタが尽き始めた…と言うのが正しい理解。
直子:「お兄ちゃんです。
…これまで、恋愛なんてした事 無かったから、」
直子:「礼子さんは、彼氏とか居るんですか?」
濃いめの緑茶が湯気を立てている。
…私は まず一口、それを啜る、
礼子:「残念ながら居ないわね、
…20代で会社勤めしてた時は、それでも男友達は居たかな。」
直子:「どんな人がタイプなんですか?」
礼子:「そうねぇ、野性味 溢れる人かな、ちょっとマッチョとか、」
直子:「あの、…初めてって、何時頃だったんですか?」
私は 半分働いてない頭で、何だかとても失礼な事を質問する。
礼子:「それを聞く? そう、聞いちゃうの?」
自分で聞いておいて何だけど、ちょっと変な空気に緊張する。
礼子:「私 こう見えても身持ちが硬かったのよね、それがいけなかったのかな〜、28歳位だったかな。」
何だか、遅い様な気もする、
いや、率直に こんなに綺麗な女性なのに、それまで経験が無かったと言う事が 少し不思議な感じ。
直子:「相手は、どんな人だったんですか?」
礼子;「行き摺りの人よ、海外旅行してた時に たまたま知り合って、…なんか雰囲気でね。」
礼子さん、ちょっと照れてる…可愛いかも、
直子:「へぇ、そうなんだ。
…やっぱり、マッチョだったんですか?」
礼子:「うーん、それが、ごく普通のサラリーマンだったな。」
礼子:「直子ちゃんは、当然 未だだよね。」
私は黙って頷く、
直子:「その、…初めてって、やっぱり痛いんですか?」
礼子:「恥ずかしい事 聞くわね、」
礼子:「まあ、もう四十路間近のおばさんが恥ずかしがっても仕方無いか。 私の場合、自分でやっちゃってたから、初めての時は 皆が言う程でもなかったかな。」
ちょっと! 意味不明??
直子:「自分でって?」
礼子:「その、ほら、良くある玩具よ。
…やあね、もう御仕舞い ! 違う話にしましょう。」
直子:「礼子さんは、一度も 誰とも付き合わなかったんですか?」
礼子:「うーん、そうだな、付き合ってるとか付き合ってないとか 微妙な関係だったかな。」
直子:「結婚とか考えなかったんですか?」
礼子:「ナイナイ! 私の場合、結婚願望無かったのよね、今もだけど。」
礼子:「直子ちゃんは? 結婚に憧れたりするの?」
私はこっそり頷く、
直子:「でも、実の兄と結婚したいなんて思うの、変ですよね。」
自分で言って、自分で溜息…
礼子:「良いんじゃないの、
…襲っちゃえば? 直人君きっと晩熟だから、直子ちゃんが迫らないと 絶対彼の方からは言い寄ってこないと思うわよ。」
直子:「でも、本当の兄妹なんですよ、苗字は違うけど…」
礼子:「やるだけやって、それから考えればいいじゃない、」
直子:「いいのかなぁ…、」
礼子:「あのさ、直子ちゃん、…幽霊が見えるって本当なの?」
直子:「えっ、」
突然、礼子さんが話題を変える、
礼子:「この前 直人君が言ってたんだけど、うちのアパートって 幽霊居たりするの?」
直子:「そうですね、…全部見た訳じゃないですけど、202号室と、管理人室では見ました。」
礼子:「居るんだぁ…、そんな曰く付きの土地じゃないんだけどなあ〜、」
礼子さん、テーブルの上に項垂れる…
礼子:「因に この部屋は?」
うっすらと、歩き回る陰が見えている
直子:「居ますね。
…でも、多分 このアパートがどうとかより、幽霊って何処にでも居るんですよ。 道を歩けば幽霊に当たる…って位、」
私は敢えて、割と何でも無いよ! って雰囲気で答える。
礼子:「直子ちゃんって霊媒体質なの?」
直子:「そうみたいですね、」
礼子さん、がぶりよる…
礼子:「幽霊って、どんな感じなの?」
直子:「大抵は、普通の生きている人と同じですね。 たまに、死んだ時の傷とか治療跡とかがそのままだったりするヒトも見かけますけど。」
礼子:「何か、祟りとか、呪いみたいな事ってあるの?」
直子:「こっちが見えてる事を気付かれると、憑いて来たりしますね。」
礼子:「怖くないの?」
直子:「やっぱり怖いです、でも 普通に そこら中に居るから イチイチ怖がって居られないと言うか…、」
礼子:「うう、寒気してきた。…ちょっとトイレ、」
礼子:「直子ちゃんが帰ったら、一人で行けなくなるから 今の内に行く。」
礼子さんはゴソゴソ立ち上がって風呂場兼トイレの個室に立て篭る。
今日のデニムには、なんだか お尻のキワドい所に穴が開けてある、多分 ワザとだよね…?
私は お饅頭の包装紙で 手持ち無沙汰に鶴を折る。
直子:「お兄ちゃん、遅いよぉ…」
時計は9時を指していた。 幾らなんでもそろそろ帰って来ても良い頃。
ふと、TVのバラエティ番組を見ると、
…画面に映ったスタジオの中にも、何人かの影のヒトが彷徨いている。 出演者の間を行ったり来たりして、時々身体に障ったりしている。
直子:「あっ、」
一人のアイドルが、一瞬 影のヒトに目を配った。
直子:「あの人、見えてるんだ…」
トークの合間に、ちらりちらりと影のヒトを気にしている。
「希咲結衣」、清純清楚なお嬢様系アイドル? 余りよく知らないけど、何だか少し親近感が湧いてしまう。
トイレを流す音がして、礼子さんが戻ってきた。
礼子:「まさか、トイレに居たりしないよね?」
直子:「……、」
まさか、礼子さんの背中に乗っかってるなんて…言えない、
それにしても だんだん 影のヒトがくっきり見えてきた、
…そろそろ お兄ちゃんの唾液を飲まなきゃ駄目かも、
礼子:「涎、」
直子:「えっ?」
礼子:「垂れてるわよ。 …そろそろ限界なんじゃない? 幾らなんでも 少し位は 眠った方が良いんじゃない? 私、傍に付いててあげるよ、」
直子:「駄目なんです。 …眠ったら、大変な事になっちゃう。」
礼子:「よく分かんないけど、何だか冬山遭難みたいね、…それなら 頭洗ってきたら、すっきりするかもよ。」
私は、蹌踉めきながら立ち上がる。
直子:「ちょっと シャワー浴びてきます。 …それから また来ても良いですか?」
礼子:「いいけど、大丈夫? ふらふらしてるわよ。」
直子:「大丈夫です。」
隣の202号室に戻る。
静かで、暗い、誰も居ない部屋。
…子供達が、部屋の中を走り回っている。
…部屋の隅に男のヒトが腰掛けて、何かを呟いている。
…女のヒトが忙しそうに、シンク周りの戸棚を開け閉めする。
…ただ意味も無く、意志もなく、生きている人間の真似をしているだけ。
私は、影のヒト達に 気付かないフリをしてやり過ごす。
ちゃぶ台の上に、透明な液体が 小さなグラスに入れて置いてあった。
中身はお兄ちゃんの唾液。 不思議な事に、お兄ちゃんの匂いを感じさせるものだけが、影のヒトを退ける力を持っている。
私は、ゆっくりとグラスを傾けて お兄ちゃんの唾液を口に溜める。
…ぬるっとした 濃い感触が、口腔に広がる。 そして少しずつ、勿体ぶる様に少しずつ 喉の奥へと流し込んで行く。
普通なら、兄妹の唾液を口に含む等 気持ち悪くて とても出来ないだろう。 そう思える事が 余計に唾液を神妙なものに感じさせ、私の喉を熱く焼いて、身体を火照らせる。 胃の腑に染み渡って行く自分以外の体液が 強張った私の身体と精神を蝕み、全身の血行を促す。
じわじわと私は温もりに護られて、やがて影のヒト達は大気の隙間に沁み込んで姿を消して行った。
私にとって、それは 一種のクスリの様な物なのだ。
直子:「お風呂、入ろう。」
着ている物を脱ぎ散らかして、バスタブに入る。
シャワーを捻って、暖まる前の冷水を旋毛にかける、
水流の束が 頭皮とツボを刺激する。
…やがて、身体の芯が疼き始める、
…唾液を飲むと 何時もこうなってしまう、
唾液には副作用が有った。
自分以外の体液を受け入れる事は、自分がその者に従属する事を連想させる。 その者によって生かされている事を連想させる。
この感覚が、私にお兄ちゃんを欲しがらせる。
…お兄ちゃんに優しくして貰いたい。
…お兄ちゃんに触ってもらいたい。
…お兄ちゃんに抱きしめてもらいたい。
…お兄ちゃんにキスしてもらいたい。
…お兄ちゃんと交わりたい。
…お兄ちゃんの血が欲しい。
こんな感情は 絶対に狂っているに決まってるのに、
どうしようもなく私は切望してしまう。
私は 日常的な狂気を納める為に、
ボディソープを掌に取って、自分が一番良く知っている 一番敏感な部分を そっと撫でてやる…
じっくりと、ゆっくりと…
浅く、時折深く…
次第に腰を浮かせながら…
硬く膨らんで来た部分を執拗に…
そうしてもはや自分の意思では止められない程 自動的に…
無理矢理に 昂められて行く…
だらしなく開いた口から、甘い息づかいが漏れ…
何処も見ていない虚ろな目は 頭から流れ落ちて来る電流を探る…
直子:「うっ…」
目を閉じて、爪先をギュッと握り締める…
バスタブの底に横たわりながら、波が曳いて行くのをじっと待つ…
少し 眠気が治まった、
私は 身体に付いた泡を洗い流して、立ち上がる。
バスタブの外に、私が立っていた。
目を見開き、にやけた顔で 私を凝視している。
私は、驚きの余り足を滑らせて 再びバスタブの中に転ぶ
…落ち着け、
自分の手は、人間の手だ、バスタブに触れてみる。
…大丈夫、触れる。 私は肉体から抜け出したりしていない。
もう一度、そっとバスタブの外を覗く
確かに、そこには私が立っている。
過呼吸気味に腹部を上下に伸縮させながら、ぎょろぎょろと大きく見開いた目で、私の事を睨んでいる。
冷静に、自分の身に起こっている事を観察する。
直子:「…貴方は 誰なの?」
私:『覚えていないのか? 俺は お前の痛みを引き受けた者だ、』
私の記憶の中に、直接 声が響いて来る。
もう一人の私は、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら 私の事を見ている。
私:『俺は、穢れたモノ、壊れたモノ、全ての不幸の前兆、忌まわしき血を受け継ぐモノ。』
私:『俺の所為で母親は死んだ、俺の所為で父親は出て行った、俺の所為で誰も居なくなった。』
私:『俺は 朝比奈直子だ。』
…そうだ、私は思い出す。
…私は 穢れていなければならなかった筈
…私は 壊れていなければならなかった筈
…気味が悪い子、可哀想な子、狂っている子、
ひとつひとつの言葉が、刃の様に 深く 記憶に突き刺さって行く。
私:『そう言うお前は、一体誰なんだ?』
私:『どうしてお前は 忌まわしき朝比奈直子に成りすますのか。』
私:『どうしてお前は 汚らわしい朝比奈直子のフリをするのか。』
…私は、誰?
魅入られる様にもう一人の私から目が離せない。
私は、何時の間にか 身体も、意思も、その自由を奪われてしまった様だった。
登場人物のおさらい
朝比奈直子:主人公、…のはず
中川礼子:身持ちの硬い四十路前、でも 穴空きデニム




