コーヒーは猫のたしなみ
春眠、暁を覚えずとはよく言ったものだ。春の陽気にあてられた心地のよい布団から這い出すのが毎朝億劫になる。今年で大学二年生の四月を迎える僕は、今日も一限の必修に出るべく、騒がしく鳴る目覚ましに起こされる。毎日寝る前に、自分自身の手でこの時間になったら大暴れしろと命令して起きながら、鬱陶しいと思ってしまうのはわがままだろうか。
起きてすぐ、朝食を済ませる。安いインスタントコーヒーと、賞味期限が迫り安売りをしていた食パンのトーストだ。何とも味気ない。ここにスクランブルエッグでもつけば変わるのだろうが、一人暮らしの大学生にそういった余裕があるはずもない。食パンの賞味期限を二日過ぎていることも気にしない。節約できる場所は節約する、それが一人暮らしのコツであると僕は勝手に思っているからだ。
テレビをつけると、天気予報が流れていた。
「全国的な晴れ、過ごしやすい一日となるでしょう。」
テレビに映ったアナウンサーが生真面目に告げる。鬱陶しいくらいの晴れ、いや仮に雨だったとしたら、それはそれで嫌ではあるが。気持ちのよい、過ごしやすい気候である。
そう、それが問題なのだ。
顔を洗って歯を磨き、寝巻きをその場に脱ぎ捨てて、服に着替える、玄関を出る。アパートの駐輪場にある、使い始めてから今年二年目のママチャリにまたがった。
快晴――今日の天気予報に間違いは無いだろう。予報の癖に。ニュースではこの地域一帯で桜が満開だとか言っていた気がする。最後のほうは急いでいて聞こえなかったが。
その桜の咲く河川敷を自転車で疾走する。散歩日和及び行楽日和――暖かい春の陽気に当てられたのか猫がゴロンと転がっているのが見えた。せわしなく動く人間様より、ああいった猫のほうが幸せなのではないだろうか?
そんなこと考えながら、だらだらと自転車を漕いで十五分弱、大学の駐輪場に到着。自転車に鍵をかけて門まで早歩きで進む。
門まで到着。後はこの長く急な坂を上って、九号館の七階に行く。きっとエレベーターは朝の混雑により乗ることは出来ないだろうから、また長い階段を登る羽目になるだろう。
時計を目にやる、時刻は午前八時五十五分、一限は九時からだ。走れば多分間に合うだろう。
「……はぁ」とため息をつくと僕は
――僕はそっと門に背を向けて歩き出した。高校の頃はまじめな生徒、と先生の間で称された僕がである。
時刻は午前九時。
空は澄み渡っていてどこまでも青く遠い。四月の暖かい陽気に誘われた僕は、大学をサボることにした。
*
大学に背を向けた僕は、どこへ行くあても無く、何をするでも無くふらふらと歩く。別に目的があって休んだわけではないし、また病気をこじらせたわけでもない。
ただこのままでいいのかと、ほんの少しの焦燥感に駆られたからに過ぎない。
確かに僕は焦っていた。何に焦っている? と自問自答すると、これといってサークルや何かしらの団体に所属していない大学生活ソロプレイを送っているこの日々に、である。
考えてみれば、高校生、中学生時分の僕は勉強しかしてこなかった。言われるがまま勉強して、大学に入る。親や教師は全員が全員、大学に入ることが人生の目標みたいな事を言ってくる。
その時々の同級生との思い出作りを犠牲にして、歯を食いしばり勉学に勤しんだ。しかし結局入ったのは親の要望の二段階くらい低い大学だった。「高い金かけてやったのに」と叱責の声と「優秀な兄と違って、所詮次男はこんなもの」という諦観に満ちた声。出来る長男を持つ弟としては兄との比較は避けられないものか。
しかしこの叱責タイムを乗り越えれば人生における最大の目的にして最高の生活、大学生活が僕を待っている。実家から遠い離れた地でアパートでの一人暮らし(恐らくこのせいで叱責タイムが二倍増しになったのだろう)自由で気ままな輝かしい新生活が僕を待っている!
思い返してみればそんなことを入学当初思っていた気がする。
さてその大学生活だ。大学生といえば楽しいことだらけ、そんなことをほざいた連中の左の頬を思いっきりぶん殴りたい。ついでに右の頬も差し出してもらおう。
サークル、バイト、飲み会。楽しいことだらけ大学生活。そんなものは幻想だって高校三年の三月の僕に言ってやりたい。
まあその原因の一端は僕にある。青春を犠牲にした中高生生活により、「趣味は勉強です」を地で行くガリベンボーイだった。趣味と呼べる必要なスキルはどこにも存在しておらず、およそ恋愛とか友情などと呼べるものは、二度と入ることの出来ないダンジョン内の宝箱に、置き去りしてきてしまった。
そんな重要アイテムを置き忘れた人間が、いきなり対人レベルの高い人間と喋られる道理などあるだろうか?
ここは地道に手短なモンスターでレベルを上げるべく、近所のコンビニの店員さんでレベル上げを敢行するべきだ。まったくコンビニのお兄さんもいい迷惑である、しかしこちらは客である。堂々とすればいいのだ。
少なくとも話しかけられても慌てない心の余裕を作らないことには始まらない。そうすればあの時サークルの一つや二つは入れたであろう。
一年次を思い出す。
学内のラウンジでのサークル紹介行ったときのことだ。
「自転車サークルの者ですがー」
「楽器に興味ない? 楽器やればもてるぜ?」
「アメフトをやって体鍛えようぜ! 俺たちは強い!」
「スノボーサークルです! 興味があったら新歓きてね!」
「ねぇスラムダンクって知ってる?」
「アニ研でござるドゥフフフ、そこの君……最近の深夜アニメ何か見てる?」
「小パンチ見てからの昇竜余裕でした、アケードゲーム部デース」
「世界をおおいに盛り上げる黒の騎士団! 略してSOK団!」
「スイミーってあるじゃん? じゃあ僕らは?」「スイマー」「エグザクトリィ(その通りでございます)」
「春浅き 隣は何を する団体? 俳句サークルだ、興味がある者の入部を希望する」
「キレイなオレンジ色してるだろ……これ昔の中央線なんだぜ?」
情報の集中豪雨であった。脳が処理できる容量をとうに超えた量であった。そして持たされたチラシの量はジャンプ並あった。一体全体このチラシの量で一体何をしろというのか、すべて紙飛行機にして一個大隊でも作れというのか? 焚き火の火種にして使うには量が多すぎるなーとか思って、結局どのチラシも読まずに捨ててしまった。後に後悔するとも知らず
*
自由ってなんだろう。唐突であるが、ふと疑問に思った。
勉強漬けの日々。友達と遊ぶより学校、塾、習い事、およそ自由とは言いがたい少年時代だった。しのびがたきをしのび、耐えがたきを耐え、学業に勤しんだ大学生活を僕は正直持て余していた。大学の勉強もたいした事は無い。そりゃあ目的のランクを大きく下回る学校だからかもしれないが、それ以上に今まで身につけた学業スキルでだいたい乗り越えられるからだ。
学業上の心配は無い。このまま行けば四年次はほぼ大学に行かなくてもいいだろう。問題はこの有り余った時間の活用の仕方だ。
それまでの勉強のし過ぎか、何もしないをしたい、というチャーリーブラウンの白い犬のようなことを言っていたが、実はそれがかなりの苦痛であることを入学当初の四月の頃に知った。
退屈が辛い、勉強も十分辛かったが何もしないのもこれまた辛い。時間が潰せないのはこうも苦しい物とは思いもしなかった。ぽっかりと空いた時間、あれほど熱望していた自由っていう宝箱は、ただの空箱だったことをこのとき僕は始めて知った。
*
今日の予定……どうやって一日を終えるかを考えた。時間はまだ午前太陽もまだまだ昇り途中、こんな日はどこか散歩にでも行くかと、思い立つ。
さてどこへ行こうか、と町を彷徨い歩く。目的地もなくただふらふらと。自転車は置いていった、なんだか歩きたい気分だ。ぼうっとした足どりで歩く。
とりあえずニュースでやっていた桜を見よう、
自転車で来た道を歩いて戻る、中々新鮮だ。河川敷に着くと平日だというのに結構人がいた。周りを見渡すとブルーシートの上にビールを並べた若い大学生風の姿がちらほらいる。恐らくサークルの花見、そんなところだろう。
どこもかしくも一気飲みを煽る声と笑い声で溢れていた。どいつもこいつも桜にかこつけて酒飲みたいだけだろう、飲み屋でやれ。
うるさい、鬱陶しい、こっちを見るな。働く気のない頭も、人を批判する時だけは、フル回転してくれるらしかった。だが、彼らが今、自分が持て余すことしかできない自由を有効活用しているのだと思い至ると、急に悔しくなり、羨ましくなる。
僕は自動販売機で缶コーヒーを買って、適当なベンチに座り込み桜を眺めた。キレイだなと思った、それだけだった。
我ながら感性の乏しい奴だなぁ……特に感慨に耽ることなどなくただ眺めるだけだった。僕もここにいる人間たちと変わらない、桜にかこつけてコーヒー飲んでるだけだ。……全然楽しくないけど。
缶コーヒーの最後の一滴を飲み干し、さてこれからどうしようかと思案していると、向こうから猫がやってきた。
そいつは僕の隣に座り、じっとこちらを見てくる。茶色のトラ猫で、金色の瞳を持った猫だ。
僕はこいつに話しかけた。
「いい天気だね」
「にゃーん」
「君も暇なのかい?」
「なぁーご」
「そっかー、暇なのかー」
猫が喉をゴロゴロ鳴らす。ゆったりとした時間が流れる。触ろうと手を出すと、警戒しているのか、俊敏な動きで、僕から距離をとる。
あっさり近付いてきた割に、警戒はしているらしい。何だお前は?
そろそろ帰ろう、そう思って立ち上がる。
「じゃあな、猫君」
そういった途端、僕とは一定の距離しかとらないその猫が近づいてきた
おおなんだ、やっぱり遊んで欲しいのか、どれ相手してやろう、としゃがみこみ猫を待つ。
猫はじっと僕を見つめて――僕の脇をさっさと通っていった。
「うぉい!」
完全に無視されてしまった、なんだか自分が恥ずかしい。
心からのため息をつき立ち上がると。甲高い声で「ニャーン」と猫が鳴いた。猫の長い尻尾が左右にフリフリと揺れている。再び猫に触れようと近づくが、すぐ遠ざかってしまう。
猫は歩いては止まり、止まったら尻尾を立てて左右に振る。まるで自分について来いと言っているような、そんな感じの振る舞いだった。一度じっと猫と視線を交わせた、猫の目は「どうせ暇なんだろう?」と語りかけてくるようで、猫に見透かされる自分がなんだか恥ずかしかった。
人であれば傲岸不遜と後ろ指を差されるぞ、と思いながらも僕は知らず知らずのうちに猫のあとを追っていた。
大通りを抜けて、長い坂道を登り、狭い路地裏をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりで、もと来た道を完全に見失ってしまった。猫は時折こちらを振り向き、「ちゃんと着いてきてるか?」と確認するように振り返る。
やがて長い階段を登ると、丘の上に立ち並ぶ住宅街に出た。こんなところは始めて来た。見晴らしのよい丘の上からは僕の住んでいるアパートが見えた。
遠くで電車が走っている、あの電車に乗っている人はどこに行くんだろう?
行き先があるって事が今はとても羨ましい。
「にゃあ」
あの猫が鳴く。猫は再びそそくさと歩いていく。
猫の行く方向に『猫の気まぐれ』と書かれた看板が立っていた。コーヒーショップと英語で書かれている――恐らく喫茶店だろうか?
しかし不思議なことにそれらしき店を見当たらない……目の前には地下へ続く階段のみだった。この下が喫茶店なのか?
猫は階段をくだりの扉の前に止まり再び「にゃあ」といって中に入っていった。
入れって事なのだろうか? それにしても猫用の扉があるなんて珍しい、ただそんなことを思って僕は後を追った。
店内に入って初めに目にしたのは大きな古時計だった。童謡にある大きなノッポの古時計とは、きっとこういったものを指すのだろう。
店を見渡すと、古ぼけたテーブルと椅子に、オレンジ色の照明に照らされた店内は高級骨董品店の様な趣を持っていた。
家具が、照明が、雰囲気が。高い、というイメージを僕に与える。やっぱり帰ろうとドアに手をかけるが――
「いらっしゃいませ」と女性の店員に見つかってしまった。そして何故か手を掴まれた。
Tシャツとジーンズに黒いエプロンをかけただけの姿だった。顔は美人なのだが氷のような無表情、目つきは鋭く背も女性にしては高く、圧迫感を受ける。
「お客様は何名さまですか? お一人ですか?」
「え、いや、あの」
「はぁ? なんだよ冷やかしかよ。冷やかしなら帰れ」
「い、一名です」
「はい、では席にご案内します」
カウンターの席に案内され強制的に座らせられる。店員さんの有無を言わさないプレッシャーが怖い、接客業としてどうなんだろうこれ。カウンターの奥にはニコニコした英国紳士を連想させる初老の男性が立っていて、僕を連れてきた猫は赤ちゃん用の揺りかごの中に入っている。水が置かれる、水の中の氷がカランと音が鳴った。店内にいる客は僕だけのようだった。
「こちらメニューになります、お決まりになりましたらお呼びください」
といって僕の前に立つ。
手渡されたメニューをみるコーヒーの銘柄がずらっと並んでいる。値段を見ると一杯二千円のものもあった。やっぱり高いな、ここ。しかしその中でブレンドコーヒー四百円という文字をみて少し安心した。これなら出せる。日々の節約の効果だな。
……いや……その前に一つ気になることがある。
「あのぅ……いつまで隣にいるんですか?」
先ほどの店員がずっと目の前で仁王立ちしているのだ。
「あ?」
店員は(何言ってんだコイツ?)とでも言うかのようにクビをかしげる。
「ああ、ご注文はお決まりですか?」
と僕の質問を無視するように抑揚の無い声で話す。
「いや質問を質問で返すなよ!」
「ブレンドコーヒーですかー? セットにすると安いですよ?」
「まだ僕なんも言ってないからね!」
「ハァ? ……じゃあ、分かりましたコピ・ルアクですね」
「一番高い奴じゃねーか! ふざけんな!」
「じゃあ何を頼むんですか?」
「今決めてるところだよ!!」
「……チッ……早く決めろよ、カス……」
あんまりな暴言を吐きつくした後、店員にハァとため息をつかれる。くそ、こいつ本当に店員か? 頭に血が上りグラスを持つ手に力が入る。
「どうしたんだね?」と店の奥から店長らしき人物が顔を出した。
ああ、やっと話せる人物がきたようだ。
「あぁ、店長、コピ・ルアク一つだそうです。」
「おいいいい! 一言も言ってないからね!? まだ何も頼んでも無いからね!?」
「チッ……文句の多い客だな……そうですかーではお決まりになりましたらお呼びくださいー」
そう言って、僕の前に立ち続ける。なんだか頭痛がしてきた。店長は噴出すのを堪えながら、
「すみません、お客様この子はまだ入ったばかりで慣れていないものでして……どうか大目に見てやって下さい」と言った。
「はあ……」
まあ確かにそんな気はしたけど。
「それでご注文はお決まりですか?」
店長は優しく問いただす。
「えっと、じゃあブレンドコーヒーで」
「かしこまりました」
店長は恭しく頭を下げて奥へ戻っていく。
「桜葉さん、それでは店内の清掃をお願いします」
「はい、マスター」
相変わらず微笑みを浮かべる店長に仏頂面で受け答える店員。よくクビにならないなと思ってしまう。飲食店では働いたことが無いが、あの店員の百倍マシな接客をする自信がある。
それはさておき、本当にいい雰囲気の店だ。店内に流れるジャズの音が僕を落ち着かせる。カウンターの向こうにいる猫は大きなあくびをした。
桜葉と呼ばれた店員が掃除を終えたらしく再び僕の前に立つ。どうやら清掃を終えたようだ。狭い店内だからすぐ終わるのだろう、しかしだからといって僕の前に立つ理由は無いのでは?
そう思わないでもないが、まあ気にしないでおこう。しかし、さっき叫んだのとここまで来るのに随分と喉が渇いた、目の前に置かれた水を飲み干す。
「お水のお代わりはよろしいでしょうか?」
そういって桜葉はコップに水を注ぎだした。答える前に注ぐなよ、と言いかける。だが、何も言うまい、と心に誓う。きっと一生懸命なのだ。彼女の接客態度はめちゃくちゃだけど、多分……真剣なんだろう。それだけは伝わってきた。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーです。」店長がコーヒーとサンドイッチを持ってきた。
「えっ、あの……サンドイッチは頼んでませんよ」
「いえ、こちらはサービスです。先ほどの無礼、お詫びいたします。」
再び頭を下げる店長、ネームプレートには真坂と書かれていた。
「いや……でも……」
「気にしないで下さい、悪いのはこちらの方ですから」
仏のような笑顔を浮かべる真坂さん。むしろこの笑顔だけですべてを許せるような気がした。空腹もあいまってか王道のベーコンレタスサンドイッチは本当においしかった。
「それでは桜庭さん? キングにおやつをあげて下さい。」
「了解です」
キングというのは、僕を連れてきた猫の名前だろう。桜庭はまるで重大な使命を帯びた騎士のように受け答えする。やっぱり面白い人だなぁと思う。
「面白い子でしょう?」
「えっ……ああはい、とっても」
急に話しかけられてびっくりした。そういえば、ここ最近喋ってないな。
「いやぁ、彼女の始めてのお客さんですからね。扉が開いた時はびっくりして、机の下にもぐってしまいましてね」
地震か何かか、僕は……
「それから、彼女、すごく張り切って接客をしたのでね、あまりに面白かったのでしばらく見させてもらいましたよ。」
「はは……」乾いた笑いが漏れる。空回り、という言葉がぴったりだった。見てないで助けろよ、と突っ込みたくなる。
「まったくその通りですね。失礼致しました。」
「まあいいんですよ。面白かったですし。」
といって僕も真坂さんに釣られて笑う。
「そうですか、それはよかった。あ、申し遅れました真坂と申します。お気軽に真坂とお呼びください。差し支えないようであればお名前を聞いてもよろしいですか?」
「あ、えっと僕は千葉です」
「千葉様ですね。お客様どうしてここへ? 見たところ学生さんでしょうか?」
「はい近くの大学に通ってます、今日はサボりです」
「フフフ、おやおや、それはいけませんね」
「まあそうなんですよね。」
僕と真坂さんは笑い合う。人と笑い合うってこんなに楽しいことだったのかと、こんな風に笑うのは久しぶりだ。
「でもサボらなきゃ、こんなステキなお店にこれなかったので、サボってよかったです。」
「そうですか。それは嬉しい限りです……千葉様はキングに案内されて?」
「ああ、やっぱり着いて来いって言ってたんですね。ええ、あの子の後を追っていたらここへ」
「そうですか。ここに来るお客様はほとんどキング――あの猫に連れて来られている方ばかりでして。」
「そうなんですか?」
「ええ、桜庭さんもそうです。キングが走って戻ってきたと思ったら、勢いよくドアが開きましてね。彼女が飛び込んできたのですよ。彼女ここが喫茶店とは知らないみたいで入ってきたんですよ。私がいらっしゃいませといったときの反応もまた面白くてですね。それでコーヒーを頼んだら、今度はお財布を持ってき来るのを忘れていたようで「働いて返します!」なんて言って……それ以来、ここの従業員として雇っているんですよ。」
ああ、すごく想像できる。もしかしたら、きっとそのときも机の下に隠れたんだろうな。
それにしても不思議な猫だ。
「この店の招き猫なのですよ、彼は。こんな辺鄙な場所にあるでしょう? 兎にも角にも、人目につかないんですよ、ここは」
「そうなんですか。まあ確かに僕も分からなかったですし、他の人もそうなのですかね。」
「まあある意味、彼に気にいられた方しか来られないのですよ、ここには」
「ハハハ、でもそれはなんか嬉しいですね」
「ほう、なぜですか?」
「いえ、こんなステキな場所に連れてきてもらって、こういった場所には始めてきたものですから。」
「そうですか。それはあの子に感謝しないといけませんね」
チラッとキングに目をやる。キングは桜庭と猫じゃらしで遊んでいる。おい、仕事中だろお前。まあいいけど……。
「こんなおいしいコーヒーを飲んだのは初めてです。」
「ええ、そのコーヒーには秘訣がありましてね……」
それから何杯かコーヒーをお代わりして(これでしばらくはモヤシ生活だ)三杯目のコーヒーも猫の飲み頃になるまで真坂さんと話しこんだ。最後のコーヒーを飲み干してお会計を済ませるため出入り口のレジまで向かう。
「ではお会計をお願いしますね、桜庭さん」
「はい」
彼女は表情にこそ出ないが雰囲気でなんとなく考えが分かった。仕事らしい仕事ができるのが嬉しいのだろう。そもそも猫と遊ぶってだけで自給が出てることが驚きだ。
「ではお会計千五百円になります。」
財布から千五百円を取り出す。ギリギリだった。帰りにスーパーでモヤシを買い込もうと思う。
ちらっとキングに目をやると「うにゃあ」と鳴いた。また来い、三度言葉が変換される。終始命令口調だ。
「あのさ……」
「うん?」
「いや……あの……また……よ」
桜庭の言葉はぼそぼそとつぶやくようでよく聞き取れなかったなので僕は思わず「え?」っと聞き返した。
「また来いってつってんだよ!!」
突然張り上げる声に驚きながらも、僕はその声色に怒声は混じっておらず、ただの照れ隠しなのは容易に想像できた。
口調がうわずっている。店内は薄暗くて顔はよく見えないけど、想像は出来る、きっと桜庭の顔は真っ赤なのだろう。
「……うん、また来るよ。お仕事がんばってね」
「おう……」桜庭は伏目がちに言った。
店から出ると太陽は大分傾いていた。あの子の笑顔を見れるのはいつになるのだろうか? 気持ちのいい風が吹く。僕はたった一つの自由を見つけた。またこの店に来る自由を。