02.隠されていた魔法の世界
昨夜は眠れなかった。
自分の足元から伸びる無数の光の線を、何度も思い返した。
あれは、まるで世界に縫い留められているような奇妙な感覚だった。
午前中、ピンク髪の男は自宅を訪ねてきた。
祖父母と三人で暮らす、どこにでもある家。年季の入った木のテーブルを四人で囲む。平凡な家の中で、男の存在だけが浮いていた。
男は、国立魔法学園の教員だと名乗った。
「昨日の件で、説明に参りました」
祖父が静かに頷いた。
「まず、前提となる歴史の話をしましょう」
男はそう切り出した。
百年ほど前、世界各国を巻き込んだ大戦があり、
いくつもの国が消滅した。
それ以降、人類は武力ではなく、対話を選んだ。
「その大戦をきっかけに、世界は平和になったんですよね」
それが常識だった。
だが、男は首を横に振った。
「百年前の大戦は、人間同士の争いではありません」
あまりにも現実味がない言葉だった。
「裏で糸を引いていた存在がいた。魔物です」
「魔物?」
「はい。昨日君を襲ったあれが、その一種ですよ」
ミオは思わず自分の腕を抱いた。
昨夜の冷たい恐怖が、皮膚の奥に残っている気がした。
「大戦を止めたのが、アルケア王国です。聞いたことは?」
大戦で滅亡したとされる国の一つだ。授業で習った。
「彼らは、魔法を使えた。そう記録されています」
「記録…」
「魔物に抵抗できたのは、彼らだけでした」
にわかには信じがたい話だ。だが、男は冗談を言っている様子はなく、真剣な表情をしている。
「終戦後、世界は信じられないほど平和になった」
(でも、こんな話、現実なわけがない)
「現在の平和は、完璧に”保たれている”均衡の上にあるということです」
「でも、そんな話――」
「公には出ません。魔物や魔法の存在が広まれば、利用しようとする人間が現れる」
男は一拍置き、指先でテーブルを軽く叩いた。
「だから、隠した」
「隠すって…世界規模ですよね。どうやって」
男は唇の端を持ち上げ美しい弧を描いた。
「魔法はね、記憶にも触れられる」
「…じゃあ。私の記憶も消せるんですか?」
男が初めて言葉を失う。
「…理論上は」
男は指先を僅かに震わせた。
目の前にいる少女の記憶を消す。それがどれほどの代償を払うか、彼には妙な予感があった。だが、何事もなかったかのように微笑み、続ける。
「ですが、必要ありません。ミオさんには国立魔法学園に入学していただくのですから」
終戦後、世界中に散ったアルケアの民と、その子孫。
彼らは魔力を持つ者、いわゆる魔法使いだ。
彼らは今も影の存在として、魔物と戦っている。
その魔法使いを育てる唯一の教育機関。
それが、国立魔法学園だそうだ。
「君には魔力がある。極めて微弱だが。そして異能も」
「いのう?」
「魔法とは別の、魔法使い個人固有の力です」
「私には、どんな力が?」
そこで初めて、男は困った顔をして、言葉を濁した。
「分かりません…存在しているはずなのに、まるで何かに覆われているように視えない。これは、異常です」
部屋が静寂に包まれる。
ミオが俯くと、右手から伸びる無数の白い光の線が見えた。
辿っていくと、それはどこまでも伸びている。
(えっ!)
思わず声をあげそうになるのを押さえた。
祖父と祖母に繋がっている糸があった。
(なに、これ…)
糸が、今まさに、ゆっくりと細くなっていく。
まるで――
二人との繋がりが、変わってしまうように。
「ミオさん」
男の声に、ハッとして顔をあげる。
彼は真剣な表情をしていた。
「だからこそ、学園に来てほしい。魔法を学ぶことは、誰かを守るためと言うより、君自身を守るためです」
昨日言われた言葉が蘇る。
――君だけじゃない。周りの人も危険だ
男が宙で軽く指を振った。すると、どこからともなく冊子と数枚の紙が現れる。
「これが入学書類です。署名をいただきたい」
学費は国が全額負担し、全寮制で自宅に帰れるのは夏と冬の長期休みのみとのこと。
サインをすれば、確実に今日までとは違う生活が始まる。
小さな期待と不安から、書類に手を伸ばせずにいる。
「ミオはどうしたい?」
祖父の落ち着いた声が、静かな部屋に響いた。
「嫌なら断っていいんだ」
横を見れば、祖母も大きくうなずいている。
男の話しぶりでは、ミオが入学することは確定しており、選択肢がないようだった。しかし、二人はミオの気持ちを優先しようと、本気で思っている顔だ。
(私、どうしたいんだろう)
友達を上手くつくれない日常。
伝えたいことも言えずに終わる毎日。
(変わりたい)
昨日、男に「魔法使いだ」と言われた時は、意味が分からず、彼らのいる学校になんて行きたくないと思った。しかし、今日の話を聞いて、まだ知らない自分の力を知りたいと思った。自分と祖父母を繋いでいる白い光の糸。
(操り人形の糸みたい…)
ふと、昨日のモモコの言葉が蘇った。
――気づいたら、あんたの方を選んでるの
自分に恐怖の眼差しを向けてきたモモコ。
もし、この糸が関係していたのなら。
私の力は誰かを脅かすものかもしれない。
(おじいちゃん、おばあちゃんを危険に晒したくない…)
「…私、入学します」
喉が震える。
ミオは服の裾を握りしめた。
「国立魔法学園に、行きたいです」
言葉にした瞬間、頭の中にイメージが湧いた。
見えない糸が、ひとつ強く張り直される感覚。
男の瞳の奥の色が、一瞬だけ変わった。
しかし、無意識に詰めていた息を、ようやく吐きだすことができた彼女が、それに気づくことはなかった。
「歓迎するよ。僕のことはテセ先生って、呼んでね」
ピンク髪の男、改めテセは柔らかい笑顔で言った。国立魔法学園高等部一年の担任だそうだ。
ミオが入学書類に目を通し、サインするまでの間、テセと祖父母は世間話をしていた。
「ところで、お二人とも魔法使いではないですが、随分と落ち着いていらっしゃる。僕が魔法を使った時すら全く動じなかった」
(そうなの?)
思わず視線を向ける。祖父は少し目を細めただけで、何も言わない。
「もしかして、どこかで魔法を見たことがあるのでは?」
「いやあ、この歳になると、驚くことも減りましてな」
祖父はテセから視線を逸らすことなく、笑って返した。
しかし、テーブルの下で、指先は赤くなるほど拳を強く握っていた。
そのことに気づいたのは、その手にそっと片手を添えた祖母のみだった。
◇
家を出た後。テセは立ち止まり、空を見上げた。
彼女の祖父母には、なにか秘密がありそうだ。
それに、あの瞬間を思い返す。
ミオが「入学する」と決めた、その刹那。
明らかに揺らいだ。彼の視界にだけ映る、時空の流れ。
まるで無数に存在していた未来への分岐が、一本に収束された。
「あれは、ただの選択じゃないな」
大人しく、どこか自信のなさ気で、魔力も乏しい少女。
しかし、テセは知っている。
先ほどまで無数に分かれていた可能性は、もう二度と枝分かれしない。
「これは、思っていたより厄介かもしれないなぁ」
彼女の存在は学園、いや魔法界そのものに波紋を広げるだろう。
これは、均衡を覆す選択だ。そして、世界はもう巻き戻らない。




