10.敵は生徒だけじゃない
倒木を避けながら、必死に走った。
胸が焼けるように痛い。
腕を振り続けながら、後ろを振り返った。
低く唸っていた羽音がふっと消えた。
ハチがその巨体を僅かに反らせ、腹の針が持ち上がる。濁った紫の靄が滲んだ。
(攻撃される!)
ミオは防御魔法を繰り出そうと、体勢を変えたが、足が縺れ、尻もちをついてしまった。
濁った紫の靄が彼女を飲み込むように広がる。
だが、「バチン」と乾いた音が響き、彼女の目の前に透明な壁が張られた。
靄は壁を侵食することはなく、空気中に立ち消えた。
(結界…?)
透明な壁が消失すると、赤い札が真上からゆっくりと降下し、ミオの目の前を通り過ぎて、ハチの巨体に吸い込まれていった。ミオの頭上の札は青・黄の二色となった。
(…え、え!?魔物からの攻撃でも札消えるってこと!?)
ミオの困惑する間にも、ハチはまたその腹部を反らせる。
「――《エーテル・ショット》」
不慣れな体勢で、威力のある《エーテル・ショット》を繰り出すことができない。
だが、空気の弾丸はハチの体勢を崩した。混乱した様子で旋回しているその隙に、ミオは立ち上がった。
「――《リフト》」
脇に横たわっていた大きな倒木が軋みながら宙に浮いた。
「――《ドロップ》」
ハチの巨体へ叩き落す。
衝撃が腹に響き、地面を揺らす。不気味な巨体は完全に視界から消えた。
しかし、すぐに「カチカチ」とハチが顎を鳴らす音が、倒木から聞こえてくる。
(なんでこんな執拗に追いかけてくるの!?)
やや遅れて、空気を震わす羽音が始まった。
(このまま逃げてても、札全部とられるだけだ…!)
ミオは集中した。
三年生との闘いで、シールドが割られそうになった時。
魔力の流れに意識を沈めた。その時、あの白い光の糸が見えたのだ。
(思い出せ!あの感覚)
静かな水面にしずくが落ち、波紋が広がり光り輝く。あのイメージ。
(来た)
ミオの足元から、白い光が溢れた。
細い糸のような光は、無数に伸びている。
森の木々からも、薄い光が伸びている。
空気の流れさえ、細い糸が編み込まれている。
はっきりと感じる。
空も。
風も。
森も。
(あぁ、気持ちがいい)
まるで、世界と一体となったようだ。
足元から伸びる無数の糸の中の一本。
細く、濁った糸が、ハチへと繋がっている。
(これだ)
迷うことなく右手を伸ばす。
触れた瞬間。
指先が焼けるように熱くなった。
『切れ』
頭の奥で声がした。
無意識に指先を軽く持ち上げ、人差し指と中指を開く。
細い糸をその間に引き入れた。
誰にも教わっていない。
それでも、どうすればいいのか分かる。
あとは、指先を閉じるだけ。
「シュッ」
空気が裂ける音がした。
次の瞬間。
ハチの巨体は真っ二つに割れた。
だが、ミオはまだ指を動かしていなかった。
(誰が?)
剣を持った男子生徒が立っていた。
ハチの巨体は濁った紫の靄となり、その剣に吸い寄せられていく。
靄を完全に消し去った刃が、太陽の光を受け、鏡のように輝いた。
「魔物の動き、妙だったな…」
剣の持ち主は、そう呟きながら刃を収めた。
それから、柔らかな笑みを浮かべて、ミオと視線を合わす。
「大丈夫?ミオちゃん」
深い藍色がかった黒髪と、光をよく映す澄んだ瞳。
ミオを安心させる温度があった。
「…あ、ありがとうございます。助かりました」
「あー、俺の事分かってないみたいだね。俺はエリオ。同じクラスだよ」
「え!あ、その…ごめんなさい」
「いいよ、いいよ。こっちは、俺のペアのアンナ」
彼の後ろには、ふわりと金髪の縦ロールを揺らす女子生徒がいた。
(あ、この子!)
「エリオが助けなくても大丈夫だったと思うけど」
「いや、そんなことは…」
「フラスコの時と同じでしょ。あなた、何か見えてたわよね」
(糸のこと、なんかあんまり言わない方が良さそうだよね…)
話をした時のテセの反応を思い出し、ミオが困っていると、エリオが優しく問いかけてきた。
「ルイとはぐれちゃった?」
「あ、はい。三年生との勝負の途中で、あいつに追いかけられて。必死に逃げてたら…」
「アハハ、なるほどね。ルイは…近くにはいなそうだし、しばらく俺らと行動しよっか」
「いいんですか」
「アンナもいいだろ?」
アンナは、仕方ないわね、といった様子で頷いた。
同級生と肩を並べて歩く。
それだけのことなのに、胸の奥が、じんわり温かくなった。
(楽しいなぁ)
三人は歩きながら競技の話で盛り上がった。
「すげぇ。ルイが強いのはなんとなく分かるけど、そんなこと出来るんだ」
「見たことないんですか?」
「ええ。中等部くらいから彼だけ、上級生の授業に呼ばれたり、任務が多かったりで。ほとんど一緒に授業受けたことないから」
(やっぱり凄い人なんだ)
三人で歩いていると、進行方向に他ペアの魔力を感じた。
まだ距離はあるが、このまま進んでいくと顔を合わせることになりそうだ。
「前方に一組いますね」
「まじか。俺、まだ認識できていないけど」
エリオが足を止め、目を丸くした。アンナも分からないという様子で頷いている。
「百メートルくらい先ですかね。同じクラスのペアではないですね」
「百!?ミオちゃんって、そこまで認識できんのか」
エリオはまだ見えないペアを意識してか、声を抑えながらも随分と驚いた様子だ。
「あっちはまだ、気づいてない可能性が高いな。先手必勝、札を取りに行こうか」
エリオは彼らの姿が見える直前に、合図をするようにミオに頼んだ。この場に留まり、相手が三人を認識するよりも早く、攻撃を仕掛ける。エリオがまず彼らの隙を突き、後方からアンナとミオが応戦する作戦だ。
三人は息を潜めて、相手が近づいてくるのを待った。ミオは魔力の気配に意識を集中し、そして、小さく言った。
「今です」
ミオの隣にいたエリオの姿が消える。
低く、地を滑るような踏み込み。気づけば彼は、先方から歩いてきた男子生徒二人組の目の前にいた。
「札もらうよ!」
エリオによって、抜き放たれた剣が静かに光る。
空気を裂く音と共に、「バチン」と札が弾けた。
慌てて防御魔法を唱える彼らに、エリオがさらに、もう一度、剣を大きく振りかざす。彼らが繰り出した魔法は、紙のように断ち切られた。
すぐさま、アンナが右手を彼らの方向へかざし、詠唱する。
「――《エーテル・バースト》」
彼女から放たれた空気の弾丸は、一人の男子生徒の青い札にめり込むように命中した。
さらに、分裂した弾丸は四方へ弾け、もう一人の札を落とした。
彼らの頭上には一枚の札しかない。あと一枚で相手は失格だ。
ミオも《エーテル・ショット》を放ったが、弾かれてしまった。
エリオが腰を落とし、剣を低く構えた。
一人の男子生徒の頭上を目掛け、剣は一直線に伸びていく。
魔法を詠唱する時間も許さない。
「バチン」という音と共に、剣先は黄色の札を突き刺していた。
剣先の札は、宙を浮遊した後にエリオのポケットに滑り込んだ。
エリオが剣を収めながら、こちらに歩いてくる。
「ミオちゃんのおかげだな」
「え、私?何もしてないよ」
「なーに言ってんだ。ミオちゃんの魔力探知の精度がいいからこその、作戦勝ちだろ」
アンナも「それもそうね」と言って頷いている。
口角が勝手に上がってしまう。
「ありがとうございます」
「その敬語、友達なんだから、これからはなしな」
「分かりまし…分かった、エリオ君」
「エリオ!共に戦った仲間なのに距離を感じるなぁ」
「私も、アンナ様でいいわよ」
「…アンナちゃんで」
胸の奥が、くすぐったい。
(こんな風に笑ったのは、いつ以来だろう)
ミオは指に視線を落とす。
二本の糸が揺れた気がした。
それは――
エリオとアンナへと、細く伸びていた。
まだ、細い。
けれど、確かに糸は繋がっている。




