01.世界の糸に触れた日
この日、私は初めて“世界の糸”に触れた。
だが、その時はまだ知らなかった。
私に視えている“糸”が、世界の縫い目であること。
自分には指先で、世界を書き換えていく力があることを。
(いつもより遅くなっちゃった…怖いな)
ミオは人気のない帰り道を一人で歩いていた。
空は既に群青色に沈み、制服の隙間から秋の冷たい風が入り込む。
前方に人影が見えた。
他に人がいることが分かり、張り詰めていた身体からふっと力が抜けた。
その直後のことだった。
街灯の下、その人影が照らされた瞬間、ミオの心臓が大きく跳ねた。
人じゃない。
黒い塊が、街灯の下で揺れていた。
人の形をしているのに、顔だけがなかった。
それなのに、
確かにこちらを見ていると、分かった。
(逃げなきゃ)
だが、足が動かない。
影がゆらりと動き、そして、走り出した。
一瞬で距離が縮まる。
頭の奥が熱くなる。
(来ないで)
(来ないで)
(消えて…!)
黒い影の輪郭が、ぶれた。
その瞬間。
足元のアスファルトに、白い線が走った。
糸。
細い、光の糸が、影から伸びていた。
いや、違う。
それはミオの足元から、無数に広がっていた。
そして、その中の一本が黒い影へと繋がっているだけだ。
ミオは無意識に、その一本に指先を近づけた。
(痛っ!)
触れた瞬間、焼けるような刺激が指を貫いた。
反射的に指を離す。
その瞬間。
黒い影が内側から引き裂かれたように歪んだ。
ギャアアアアツ
耳をつんざくような悲鳴。
恐怖で目を閉じたその時。
「――《インフェルノ・ボルテ》」
爆発音。
轟きとともに空気が爆ぜた。
暖かい空気がミオを包む。
恐る恐る目を開くと、
黒い塊は跡形もなく消えていた。
まるで、最初から存在していなかったかのように。
ただ、目の前に灰が舞っているだけ。
「君さ、こんな雑魚くらい…」
声の方を見ると、二人の男が立っていた。
見慣れない制服にローブ姿。
一人は長髪の軟派な雰囲気の男。もう一人は、白銀の髪にハニーブラウンの瞳が印象的な、随分と容姿端麗な男だ。
「あれ、君、魔力なし?」
長髪の男が首を傾げる。
「え、俺、魔法見せちゃった感じ?」
「いや、魔力はあるようですよ」
白銀の髪の彼は少し目を細め、ミオを見つめる。
まるで、何かを確かめるように。
数秒後、彼が眉間にしわを寄せたように見え、ミオは頬が熱くなるのを感じた。
「魔力は低級魔物程度。ただ、異能もあるようです」
(まりょく? いのう?)
理解ができない。
まともな人たちではなさそうだ。
(なんで今日は、こんなに厄日なの?)
不運の始まりは、数時間前の出来事だった。
放課後の教室でのやり取りを思い出す。
――「こんな時でも、黙っているんだね」
胸の奥を、素手で握り潰されたみたいだった。
中間試験の追試を終えて帰宅しようとしていた。
だが、教室にお気に入りのハンカチを忘れたことに気づき、取りに戻った。
そこで、見てしまった。
今まさに、自分のハンカチがゴミ箱に捨てられようとしているところを。
それを手にしているのは、ミオの唯一の友人、モモコだった。
彼女からお揃いと、もらったはずのハンカチ。
――「気づいてたんでしょ?嫌がらせしてたの、私だって」
数週間前から、持ち物が消えることが増えた。
犯人は分かっていた。でも、気づかないふりをした。
高校入学から十か月。
生まれて初めてできた友人を、失うのが怖かった。
――「あんたといるとさ」
モモコの唇は震えていた。
――「気づいたら、あんたの方を選んでるの」
――「…どういう意味」
――「好きな色も、食べ物も、友達も。
なんとなくあんたが選んだ方が正しい気がして」
意味が分からなかった。
ただ、彼女は怒っているというより、何かに追い詰められているように見えた。
彼女の、怯えたような目が忘れられなかった。
(何がいけなかったんだろう…)
涙で視界が歪む。
幼い頃から友人を作ることが苦手だった。
みんなと同じように笑って、ちゃんと合わせているのに。
(きっと私の人生って、ずっとこんな感じなんだろうな)
そう思った瞬間だった。
突然、背後で風が巻き起こる。
振り返ると、風は一か所で、人の背丈ほどの渦を巻いていた。
(今度は、なに!?)
風が徐々に勢いを弱めると、渦の中心から人影が見え始めた。
やがて現れたのは、淡いピンク色の髪の男。
「へぇ」
ミオを見て、口の端を持ちあげた。
「任務でトラブルかと思えば。魔力持ちを見つけたのかな」
男三人に囲まれ、居心地が悪い。
さっきから、意味の分からない出来事の連続だ。
だが、彼らは何事もなかったかのように会話を始めた。
「魔力量があまりに少ないから、今日まで誰も気づくことがなかったんだねぇ。ルイの眼で見た感じは?」
「…おっしゃる通りかと。ただ、異能もあるようですが…分かりませんね」
「分からない?」
「視えないんですよ、靄に隠されているように。こんなことは初めてです」
その言葉に、ピンク髪の男と長髪の男子生徒は驚いた顔をする。
「それは…まずいなぁ」
自分の話をされているのだろうが全く内容を理解できない。
しかも、どうやらいい話ではなさそうだ。
「君、名前は?」
相手は素性の知れない人たちだが、正直に名前を告げた。
ピンク髪の男はにこりと笑った。
「ミオちゃん。君は魔法使いだ」
(はい?)
「いや違―」
「違わないよ」
違うから帰ります、と続けるつもりだった。
しかし、ミオの声に被せるように、男は否定した。
人の良さそうな笑みを浮かべているが、有無を言わせない圧力がある。
「君は特殊だ」
男はゆっくりと、聞かせるように言った。
「放っておけば、君だけじゃない。周りの人も危険に晒される。
君には、ウチの学園に入学してもらうよ」
「嫌です」
即答だった。こんな訳の分からない人たちのいる場所に行きたくない。
しかし、白銀の髪の男が言う。
「今夜もあれは現れます」
静かな声。
「君を餌として認識しましたから」
心臓がひゅっと縮んだ。
(餌…?)
「選択肢はないよ」
ピンク髪の男は、そう言って、指先でミオの肩に触れた。
淡い白い光が身体を包み込む。
「今日は僕が家まで送るよ」
光が身体に溶け込むと同時に、全身に暖かい空気を纏ったような感覚になる。
混乱していたが、他に選択肢はない。ピンク髪の男の言葉に従い、歩き出した。
そんな彼女の背中に、白銀の髪の男子生徒は鋭い視線を向けた。
「…無意識で、干渉していたな。あの女」
ふと、彼は左手の小指を見つめた。
残っているのは、細い引っかき傷のような赤い線。
先ほど、何かに引っ張られたような感覚がした。
そして、その感覚は、遠ざかっていく少女と繋がっていた。




