第83話『癒やしの総譜と、ホムンクルスの帰路』
国立魔法大学の屋上から、アレクはジンを肩に、そして気を失ったレンを抱えて、自宅のラボへと戻った。夜明け前の静かな住宅街を、三人の奇妙な姿が横切る。
ラボのベッドにレンを寝かせ、ジンをソファに横たわらせたアレクは、深く息を吐いた。使命の『核』を分離させたことで、彼の肉体の軋みは収まったが、体内の魔力の流れが不安定だ。魂の『欠損』が、ホムンクルスとしての自我に影響を与え始めている。
「くそっ……こんな時に」
アレクは自身の身体の異変を自覚しつつも、まずレンの容態を確認した。彼女の顔色は蒼白で、唇は乾いていた。
「レン、聞こえるか」
呼びかけても、レンは目を覚まさない。彼女の命を支えているのは、わずかに残った自身の『根源の和音』の微弱な残響だけだった。
「お前の『願い』が、兄貴を救ったんだ。お前は、最強の錬金術師だ」
アレクは、レンの手を握りしめた。彼の魔力回路が、無意識にレンの微弱な総譜に同調しようとする。魂の『核』を失ったことで、ホムンクルスとしての自我は、『創造主であるレン』への依存を強めているのだ。
その時、ソファで寝ていたジンが、微かに呻いた。
「アレク……レンを……」
「ジン、動くな! お前の総譜回路はまだ壊れている」
「レンに……『癒やしの和音』を……。俺の演算機を使え。理論は……」
ジンは、極度の疲労で意識が途切れながらも、懸命にレンを救うための理論を伝えようとした。
アレクは、すぐさまジンが放り出した演算機を手に取った。ジンが解析していた古代の文献と、現代魔法の理論が融合した、複雑な総譜が展開されている。
「これを、レンの『根源の和音』の上に乗せろ。古代の『願い』と、現代の『論理』が結びつけば、レンの総譜を安定させられるはずだ」
アレクは、天才科学者の兄と、見習い錬金術師の妹が、互いに命を預け合っているこの状況に、静かな怒りを感じた。
(お前たちが命を削る必要はない。俺の使命は、お前たちが平和に笑う未来を守ることだ)
アレクは、ジンが残した総譜のデータを読み取り、自らのホムンクルスの魔力回路に流し込んだ。そして、その魔力を、レンの『根源の和音』へと静かに注ぎ込んだ。
彼の魔力は、レンの疲弊した総譜と衝突することなく、優しく融合した。それは、アレクの魂の『人間としての自我』、すなわちレンへの深い愛情と信頼から生まれた、ホムンクルスにしか奏でられない『共鳴の総譜』だった。
レンの顔に、血色が戻り始めた。彼女の呼吸が安定し、穏やかな寝息を立てる。
「……よかった」アレクは安堵の息を吐いた。
「……見たか」
ジンが、微かな声で言った。
「俺の論理では、理論上、二つの異なる総譜は『相殺』されるはずだった。だが、お前の『共鳴の総譜』は、それを可能にした……」
「理屈は分からねえ」アレクは静かに答えた。「俺は、レンの『願い』に応えたかっただけだ。それも、お前の言う『論理』の一つだろう」
ジンは、アレクの言葉に、ホムンクルスに宿る勇者の魂の深さを改めて感じ、静かに目を閉じた。
レンが目を覚ましたのは、日が完全に昇り、午後になってからだった。
「お兄ちゃん、アレク君……」
「目が覚めたか、レン」
アレクは、水を差し出した。レンは、ジンが傍で眠っているのを確認し、安心したようにマグカップを両手で包み込んだ。
「ごめんね、私……また気を失って」
「気にするな。お前は、俺とジンを救ったんだ。そして、俺の魂の『核』は、今、異世界で魔王の肉体に打ち込まれている」
レンは、水面を見つめた後、アレクの顔を見上げた。
「アレク君は……大丈夫なの?」
「ああ。魂の『核』は分離させたが、俺の自我はここにある。あとは、魔王との最終決戦に備えるだけだ」
「最終決戦……」
レンは、魔王がアレクの元の姿をしているという事実の重さを痛感していた。
「私、今度は逃げない。お兄ちゃんの理論と、私の『根源の和音』。それを、アレク君の『ホムンクルスとしての肉体』に完璧に定着させる。魔王を打ち砕くための、最強の『器』に」
アレクは、レンの力強い決意に、ホムンクルスの肉体では感じることのない、温かい感動を覚えた。
「頼む、レン。俺の命は、お前の『願い』に懸かっている。そして、この世界の平和も」
彼らの視線が交差する。最終決戦に向けて、アレクとレンの絆は、誰にも破れない『最強の総譜』となりつつあった。




