第80話『旅立ちの夜と、三つの総譜』
国立魔法大学の屋上。そこは、夜空の下、街の明かりが一望できる場所だった。
ジン、レン、アレクの三人は、ここに『禁忌の総譜』を奏でるための、魔導装置を設置していた。ジンが設計したこの装置は、古代の錬金術の術式と現代の超高精度演算機を組み合わせたもので、魂を分割し、異世界へのゲートを開くという、前例のない作業を可能にするためのものだった。
「装置の設置は完了した」
ジンは冷徹な表情で、最終チェックを終えた。演算機の光が、三人の顔を青白く照らしている。
「アレク。お前の魂の波長データと、俺の演算総譜を同期させた。俺が異世界へ渡った瞬間、ゲートが不安定になる。その時、お前の魂の『核』を元の肉体へ誘導する。ここから先は、完全に俺の**『論理』**の領域だ。一秒の誤差も許されない」
「分かってる」
アレクは、ホムンクルスの肉体で、異世界へ渡るジンを守り、自らの魂の『核』を打ち込むという、二重の使命を背負うことになる。
レンは、装置の脇にある、古代の文献に目を落としていた。
「お兄ちゃん、本当に大丈夫なの?異世界への渡航は、現代魔法の術者にとって『世界接続子』の強制切断に等しい。もし向こうで総譜が乱れたら……」
「そのために、お前がいるんだ、レン」ジンは静かに妹を見つめた。
「お前の『根源の和音』は、この世界の法則の庇護の外にある。俺が向こうで危機に陥った時、お前の**『願い』の力が、このゲートを安定化させ、俺を元の世界へ引き戻す『アンカー』になる。俺の命は、お前の『創造主としての願い』**に懸かっているんだ」
それは、兄から妹への、絶対的な信頼の表明だった。レンは、その重さを理解し、静かに頷いた。
設置作業を終えた三人は、リビングに戻り、最後の夜を過ごすための静かな夕食をとった。
ジンは、普段は絶対に口にしないレンの失敗作の料理である焦げたオムライスを、黙って平らげた。
「お兄ちゃん、それ……」
「美味いよ」
ジンは微笑んだ。
「お前の総譜は、料理には反映されないらしい。それはそれで、安心する」
レンは涙ぐみながら、ジンに抱きついた。
「必ず帰ってきてね、お兄ちゃん」
「ああ。俺は天才だ。失敗する総譜は組まない」
その夜、アレクは、リビングのソファで一人静かに瞑想していた。魂の『核』を分離させるという行為は、ホムンクルスとしての自我の『欠損』に繋がりかねない。だが、彼の心は澄んでいた。
(使命を終えれば、この肉体は、レンが愛した**『アレク』**として残る。それで十分だ)
深夜、レンがアレクの隣に座った。
「アレク君」
「レン」
レンは、アレクの模造刀に刻まれた、異世界の紋章をそっと撫でた。
「この紋章は、アレク君の勇者としての誇りだよね。でも、私にとっては、アレク君の『魂の総譜』。絶対に壊れない、最強の総譜」
「その通りだ」アレクは微笑んだ。「お前が作ったこの身体は、元の肉体よりも強え。ホムンクルスだからこそ、魔王が融合した**『偽りの勇者の姿』**を打ち砕くことができるんだ」
レンは、目を閉じ、アレクの手を両手で包み込んだ。
「今から、最後の調整をするね。私の『根源の和音』で、アレク君の魂が、最も綺麗な二つの波長に分離できるように……」
レンは静かに、古代錬金術の秘術を施した。それは、彼女の体力を目に見えて消耗させたが、彼女の顔には慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
「これで大丈夫。アレク君の『使命の核』は、もう揺るがないよ」
夜が明け、太陽が昇る直前。決行の時が来た。
三人は再び屋上へ向かった。装置は青い光を放ち、屋上の空間の総譜を少しずつ歪ませていた。
「レン、最終チェックだ。俺の演算機は、お前の『根源の和音』を**『アンカー』**として設定した。俺が異世界でゲートを維持する。何かあれば、すぐに総譜を放って、俺を引き戻せ」
「任せて、お兄ちゃん」レンは、両手を装置に備えられた錬成台に置いた。
ジンは、アレクと固い握手を交わした。
「最高のホムンクルス。俺の妹を頼む」
「ああ。最高の凡才。必ず帰ってこい」
ジンは、最後に眼鏡を深く押し込むと、装置の転送区画に立ち入った。
「起動!」
ジンが発動させたのは、彼が**『凡才の防壁』**と自嘲した、複雑な演算総譜だった。その総譜が装置の起動回路と連動し、屋上の空間が激しく歪み始めた。
ゴオオオオオオオオッ!!
空間に裂け目が入り、その向こうに、魔力が満ちた異世界の風景が一瞬だけ垣間見えた。
「行くぞ!」
ジンは異世界へ向かって、一歩踏み出した。
その瞬間、アレクは体内に激しい衝撃を感じた。まるで自分の魂が、無理やり縦に引き裂かれるような痛み。
『魂の分割』が始まったのだ。
レンは、痛みに耐えるアレクを見つめながら、両手から力強い**『根源の和音』**を解き放った。その純粋な総譜は、分離されつつあるアレクの魂と、不安定なゲート全体を、優しく包み込んだ。
しかし、ジンが完全に異世界へ渡った瞬間、総譜の調和が崩れた。
異世界のゲートの向こうから、極めて邪悪で強力な、アレクと酷似した魔力の波動が、総譜に逆流してきた。
「我が肉体を奪いし者よ、逃がすものか!」
その声は、かつてアレク自身が発していた、勇者としての声と瓜二つだった。
「しまった!魔王が、ゲートの開通に気づいた!」アレクが叫んだ。
ゲートは激しく乱れ、ジンが放った**『論理の盾』**が魔王の魔力の奔流に飲み込まれていくのが見えた。
「お兄ちゃん!」
レンが絶叫する。
アレクは、魂の分離の激痛に耐えながら、模造刀を手に、ゲートの裂け目へと身構えた。
魔王――アレクの元の姿との、最初の対峙の時が迫っていた。




