第78話『兄の裏切りと、共有された魂のデータ』
資料室に残されたのは、静寂と、破壊された総譜の残響だけだった。
アレクは、呆然と倒れ伏したジンと、足元に投げ捨てられたヴァイスの総譜演算杖を交互に見た。杖からは微かに魔力が流れ出ており、そこにヴァイスが残した「データ」が込められていることを示唆していた。
「お、お兄ちゃん!」
先に我に返ったのはレンだった。彼女は悲鳴を上げ、血を吐いて倒れているジンの元へ駆け寄る。
「お兄ちゃん、しっかり!返事して!」
ジンの意識は深く沈んでいた。ヴァイスの「分離の錬金術」は、物理的な外傷を与えるものではない。彼の体内にある総譜回路、すなわち魔力回路そのものを、強制的に「世界から分離」させ、システムダウンを引き起こしたのだ。現代魔法の術者にとって、それは致命的な攻撃だった。
「レン、落ち着け! 俺がジンを運ぶ。お前は…」
アレクはそう言おうとしたが、レンはすでに錬金術師の顔になっていた。彼女は兄の胸元を優しく押さえ、自身の指先に魔力を集中させた。
「ダメ、動かせない。外傷じゃない。総譜の核が強制分離させられてる。迂闊に魔力を流し込んだら、回路が完全に壊れる!」
レンは震える手で、ポケットから緊急用の安定化薬を取り出し、ジンに投与した。その上で、彼女は自らの錬成総譜の中でも最も穏やかで、『調和』を司る和音を、そっと兄の胸元に重ねていった。
「どうか、お願い……お兄ちゃんの総譜が、崩れないで……!」
それは、複雑な演算を必要とするジンの現代魔法とは異なり、レンの「純粋な治癒と安寧を願う心」から生み出された総譜だった。その和音は、ヴァイスが分離させた回路を無理に再接続するのではなく、回路が崩壊しないよう「存在を保証する」ための、温かい防壁となった。
ホムンクルスの身体を持つアレクには、レンが今、どれほど高度で繊細な術を使っているかが理解できた。これは、ジンが持つ論理の魔法ではなく、古代から続く「命を救う錬金術」だった。
「……さすがはレンだ」
アレクは安堵の息をつくと、足元のヴァイスの杖を拾い上げた。杖の先端には、古代総譜文字で書かれたデータパケットが青く輝いていた。アレクはためらうことなく、自身のホムンクルスの演算機を杖に接続し、データを取り込み始めた。
夜明けが近づく頃、ジンは自宅のラボのベッドに寝かされていた。レンの懸命な処置のおかげで、彼の総譜回路の崩壊は免れ、意識もわずかに戻っていた。
レンが、ジンの額にタオルを当てていると、アレクが静かにラボに入ってきた。彼の瞳は、夜の闇よりも深く、重い情報を宿していた。
「データ解析が終わった」
レンはタオルを置き、アレクの隣に座った。
「ヴァイスは言った。『魔王は、俺の肉体を融合させた』と。その真実が、このデータに全て記されていた」
アレクは静かに話し始めた。
「魔王は、俺を倒した瞬間、古代錬金術の最も禁忌とされる『魂の連鎖融合』という術式を使った。俺の肉体は、単に魂を入れ替えられたのではない。勇者としての肉体の核と、魔王の魂の核が、不可逆的に融合している」
「融合……」
レンは息を飲んだ。
「どういうこと?」
「つまり、俺の元の身体は、今や『アレックス・ホーク』でも『魔王』でもない。両方の性質を併せ持った、全く新しい、最強の存在になっている」
アレクは、データが示す緻密な総譜図を指さした。
「この文献によれば、元の肉体を取り戻す唯一の方法は、ヴァイスが言った通り、『魂を二つに分ける』ことだ。俺の魂を、『勇者としての使命』と『人間としての自我』の二つに分離し、片方だけを元の肉体に送り返す。そして、その分離と再定着には、世界接続子を無視する強力なアンカーが必要になる」
レンは、自らの胸に手を当てた。
「それが……私の『根源の和音』」
「ああ」
アレクは頷いた。
「この術式は、『創造主の無意識の願い』をアンカーとして利用する。俺の肉体を創り出し、俺の魂を定着させたお前でなければ、不可能な術式だ」
レンは、自分がただの見習い錬金術師ではない、世界を左右する特異な才能を持っていたという重い真実を、改めて突きつけられた。
「……レン、アレク」
弱々しい声が、静寂を破った。ジンが意識を取り戻したのだ。
レンは慌ててジンに駆け寄った。
「お兄ちゃん!大丈夫?」
ジンは全身の痛みに耐えるように顔を歪めたが、その瞳には、かつての冷徹な光が戻っていた。
「光栄だよ。あのヴァイスの分離の錬金術を、妹の温かい総譜で凌げたのだから。さすがはミカガミの末裔だ」
ジンは、アレクの足元に投げ捨てられているバッグに目を向けた。
「アレク……そのバッグの中に、俺が隠したかった文献がある。それを読んでくれ。それが、兄として、科学者としての俺の最大の裏切りだ」
アレクはジンのバッグを開け、ジンが必死に隠そうとしていた文献を取り出した。
『根源の和音:その制御不能性と世界の崩壊について』。
アレクは、文献の内容を簡潔に読み上げ、レンに伝えた。レンの『根源の和音』は、一度暴走すれば、この世界の総譜(法則)を破壊し、パラレルワールド間の障壁を崩壊させるという、恐ろしい危険性を秘めていること。
「だから、お兄ちゃんは……私にバレないように、この文献を隠そうとしたの?」
レンの声が震えた。「私を、危険な場所から遠ざけるために?」
ジンは弱々しく息を吐いた。
「そうだ。俺は、レン。お前は俺にとって大事な妹だ。だからこそ、お前の才能を誰よりも恐れた。俺の理論では、お前の力は『制御不能の爆弾』だ。ヴァイスのような狂った錬金術師の手に渡れば、世界が終わる」
「すまない、アレク。お前の元の身体に戻る手がかりになるかもしれない文献を隠そうとした。だが、俺は、科学者としての論理よりも、兄としての情を選んだ」
ジンは、自らの裏切りを告白し、涙を流した。
レンは、兄の顔を見つめた。彼女は、裏切られた怒りよりも、兄の苦悩と愛を感じた。
「…お兄ちゃん。私を信じられなかったのは、私が怖かったからじゃない。お兄ちゃん自身が、自分の理論で私の才能を説明できないことが、怖かったんでしょう?」
レンの言葉は、ジンの核心を突いた。ジンは何も言い返せず、ただ目を閉じた。
「レンの言う通りだ、ジン」
アレクが、文献を閉じ、静かに言った。
「お前は、この世界で最も賢い科学者だ。だが、この世界にいない俺の魂を、お前は論理で説明できなかった。だが、レンは『願い』で創り出した」
アレクは、ジンとレンを真っ直ぐに見つめた。
「ヴァイスは言った。元の肉体に戻るには、魂を二つに分け、肉体を共有する必要があると。そして、そのアンカーはレンの『根源の和音』だ」
「俺は、勇者としての最後の使命を果たす。魔王が被った俺の肉体を打ち砕き、勇者の魂だけを、故郷の星空に還す」
アレクの瞳には、かつての使命感に加えて、レンが与えたホムンクルスとしての新しい人生への愛着が宿っていた。
「レン。お前は、世界を壊す力なんかじゃない。お前は、俺の魂を繋ぎ止め、故郷を救う力だ。俺を信じてくれるか?俺の魂を分ける、という危険な術に、お前の『根源の和音』を託してくれるか?」
レンは迷わず頷いた。
「もちろん、託すよ。私のアレク君は、『創造主の願い』の結晶なんだから。私たちが一緒なら、どんな理論も、どんな魔王も、乗り越えられる」
ジンは、二人の固い絆を見て、ゆっくりと安堵の息を吐いた。
「……分かった。俺の裏切りは、ここで終わらせる」
ジンは、科学者としての冷静な顔に戻った。
「お前たちが『創造と願い』で進むなら、俺は『論理と防衛』で支える。ヴァイスが残したデータと、俺が隠そうとした禁忌の文献。すべてを組み合わせ、『魂の分割と共有の総譜』を完成させる。それが、ミカガミ家、最後の錬金術師の使命だ」
三人は、それぞれの役割と決意を固め、静かに夜明けを迎えた。彼らの前には、魔王と、アレクの元の肉体という、あまりにも重い敵が立ちはだかっている。




