第77話『凡才の防壁と、崩壊の総譜』
「見つけたぞ、ミカガミの末裔よ。そして、偽物の勇者」
ヴァイスの冷たい声が、資料室の静寂を切り裂いた。彼が掲げる黒い総譜演算杖からは、まるで闇そのものが流れ出すかのように、異質な魔力の波動が放たれていた。
ジンは反射的に、隠蔽した文献をバッグに押し込み、自らの演算機を取り出した。
「ヴァイス! ここは国立魔法大学の施設だ! これ以上の無差別な破壊行為は、世界の法則への反逆と見なすぞ!」
「世界の法則だと? 笑わせてくれる」
ヴァイスは杖を一振りした。その動作は最小限であったが、放たれた総譜は音もなくジンの周囲の棚を粉砕した。古い文献が散乱する中、ヴァイスは一歩、また一歩とジンに近づく。
「君の法則は、所詮、2001年以降に作られた薄っぺらな理論に過ぎない。君の妹が持つ『根源の和音』こそが、この世界と、君たちが呼ぶ『異世界』の法則を繋ぐ真の総譜だ。君はその真実を恐れ、妹の才能を論理という檻に閉じ込めようとしている」
ヴァイスは、ジンの抱える内的な葛藤を正確に見抜いていた。
「黙れ!」
ジンは声を荒げた。それは、自分自身の弱点を指摘されたことへの怒りだった。彼は、自分の演算機と、資料室全体の老朽化した魔導装置を無理やり同期させた。
「俺は、論理で妹を守る! 起動! 総譜トラップ『静寂の防壁』!」
ジンが奏でた総譜は、攻撃のための和音ではない。それは、ヴァイスの魔力回路を囲むように展開し、外部との魔力伝達を一時的に遮断する、複雑な演算総譜の防壁だった。
ヴァイスは足を止め、興味深そうにその防壁を見つめた。
「ほう。攻撃ではなく防御と封印か。さすがは、現代魔法学の俊英だ。だが、その程度の『凡才の防壁』で、私を止められると思うか?」
ヴァイスの杖の先端が淡く輝いた。彼は、ジンの構築した複雑な演算総譜を一瞥しただけで、その『構造的な弱点』を見抜いた。
「分離」
ヴァイスが静かに呟くと、彼の周囲の総譜が「世界接続子」を無視して膨張した。それは、ジンが解析で見つけた古代の「分離の錬金術」そのものだった。
ドゴォン!!
静寂の防壁は、音を立てることもなく、内部から激しく崩壊した。ジンの演算機から火花が散り、彼の眼鏡のレンズにヒビが入った。
ジンは、その圧倒的な力の差に戦慄した。ヴァイスは、現代魔法の法則を土台から無視している。
「無駄な足掻きだ」ヴァイスは冷笑した。「君が築いた理論は、妹の無意識の才能の『器』にはなれても、彼女を守る『盾』にはなり得ない」
その激しい総譜の残響は、文献が散乱した区画にいたアレクとレンにも届いていた。
「お兄ちゃんの総譜が……破壊された!」
レンの顔が蒼白になる。
「くそっ、やっぱり一人じゃ無理だったんだ!」アレクは拳を握りしめた。
「行こう、アレク君! お兄ちゃんが危ない!」レンが叫ぶ。
「待て、レン。ジンは『逃げろ』と言った。奴の狙いがお前なら、俺たちが向かえば、奴の思う壺だ!」アレクは冷静さを保とうとした。
しかし、レンは目に涙を溜めながら、アレクの服を強く引っ張った。
「でも! お兄ちゃんは、私たちを逃がすために、一人で戦ってるんだよ! 私、怖くない。だって、私のアレク君がそばにいるんだから。アレク君は、仲間を見捨てない勇者でしょう!?」
レンの悲痛な叫びと、彼女の瞳に宿る絶対的な信頼の光が、アレクの「勇者アレックス・ホーク」としての本能を呼び覚ました。
「…たりめーだ!」
アレクは、ホムンクルスの肉体に宿る勇者の魔力を一気に解放した。彼の全身が黄金の魔力に包まれ、その力は肉体の限界を超えて溢れ出した。
「レン、お前は俺の背中から離れるな。もし俺が倒れても、絶対にジンから目を離すな!」
「うん!」
二人は瓦礫と化した通路を飛び出し、総譜の残響が最も激しい資料室の中央区画へと向かった。
ジンは、ヴァイスの次の攻撃から身を守るために、最後の防御総譜を構築していた。しかし、彼の体は既に魔力消耗と演算の過負荷で限界に達していた。
ヴァイスは杖を構え、黒い総譜の奔流をジンの心臓目掛けて放った。
「終わりにしよう、凡才よ。その場を譲るなら、痛みはない」
その瞬間、
キンッ!!
黒い総譜の奔流が、黄金の閃光と衝突し、資料室全体に激しい火花を散らした。
「遅えぞ、ジン!」
ホムンクルスの力を解放したアレクが、模造刀を盾にしてヴァイスの攻撃を受け止めていた。その背後には、レンが息を切らしながらも仁王立ちで立っている。
「アレク! レン! なぜ…!」
ジンが呻いた。
「うるせえ! 仲間を見捨てて逃げる勇者は、俺の故郷にはいねえんだよ!」
アレクは咆哮し、ヴァイスの攻撃を押し返す。
ヴァイスは、不機嫌そうな顔で、アレクを品定めするように見つめた。
「偽物の肉体のくせに、本物の勇者の魂が宿っているとは。面白い。だが、その力も所詮、借り物だ」
ヴァイスは、アレクの剣を受け止めながら、空いた手で、「分離の錬金術」を込めた一筋の黒い光を放った。
それは、アレクの攻撃を躱し、ジンの胸元へと一直線に向かった。
「しまっ……た!」
ジンは防御する間もなく、その光を胸に受けた。致命傷ではなかったが、彼の体内の魔力回路と総譜の演算装置が、根源から「分離」され、一時的に機能停止した。
ジンは血を吐き、意識が遠のく中、倒れ込んだ。
「お兄ちゃん!」レンが絶叫する。
アレクは、ヴァイスの卑劣な戦術に激昂し、さらなる魔力を開放したが、ヴァイスは既に杖を下げていた。
「もういい。私の目的は、貴様の魂でも、この凡才の命でもない」
ヴァイスは、黒い総譜演算杖を、アレクの足元に投げつけた。
「私が求めているのは、君の妹の『根源の和音』、そしてアレク、君の『元の肉体のデータ』だ」
ヴァイスは、その杖に残された最後の魔力で、アレクにデータを送り込んだ。
「勇者アレックス・ホークの肉体は、魔王によって既に『融合』され、ただの器ではない。君が元の肉体に戻る唯一の方法は、『魂を二つに分け、肉体に共有させる』こと。そして、それには君の妹の『根源の和音』の力が必要だ」
ヴァイスは、二人がその情報を処理する間も与えず、空間の総譜を歪ませて、姿を消した。
資料室に残されたのは、荒廃した瓦礫、倒れ伏したジン、そして、ヴァイスの残した衝撃的な情報に打ちひしがれたアレクとレンだった。




