第76話『第零資料室の真実』
新月の夜は、闇が濃い。街灯の光さえ届かない国立魔法大学の裏手にある錬金術棟は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。
アレク、レン、ジンは、人目に付かない敷地の隅に身を潜めていた。
「いいか、レン。アレク。この大学のセキュリティシステムは、兄貴が組み上げたものだ。普段は完璧だが、新月の夜は魔力の流れが不安定になる。そこを突く」
ジンはそう言いながら、眼鏡のフレームに組み込まれた超小型の演算機を操作した。彼の指先が、総譜を奏でるように虚空を動くと、錬金術棟の壁に埋め込まれた警備装置の魔力回路が一瞬だけ沈黙した。
「開いた。だが、持続は五分だ。それ以上はシステムに異常が検知される」
「五分で、この巨大な資料室の奥まで行くのか?」アレクが警戒して周囲を見回す。
「大丈夫だよ、アレク君」レンがアレクの袖を引いた。「第零資料室は、錬金術棟の地下、最も古い区画にあるはず。私もジン兄さんも、場所はだいたい把握しているから」
しかし、ジンは首を横に振った。
「いや、ここからは俺と分かれて行動してくれ」
レンとアレクは顔を見合わせた。
「どうして?」レンが尋ねた。
「俺は、資料室の最深部にある**『初期錬成記録』のエリアを先に確認する。古代錬金術の記録は、現在の総譜理論とは記述形式が大きく異なり、解析に時間がかかる。レンとアレクは、ヴァイスが示した座標にある『魂の総譜に関する文献』**を優先して探してくれ」
ジンはあくまで冷静に指示を出したが、アレクはジンの目に僅かな動揺を見逃さなかった。
「……何か隠してるだろ、ジン」アレクが鋭く尋ねた。「お前がそんなに焦って、単独行動を取る理由は何だ」
「余計な詮索をするな」ジンの声が低くなった。「これは、俺たちミカガミ家の、そしてこの世界の魔法の根幹に関わる問題だ。レン、アレク、お前たちは俺を信じて、指示に従え」
そう言って、ジンはレンに持たせていた懐中電灯を奪い取るように受け取ると、一人で暗闇の廊下へと足早に消えていった。
(くそっ、あいつ……)
アレクは舌打ちをしたが、レンがアレクの腕を掴んだ。
「大丈夫だよ、アレク君。お兄ちゃんは、多分、私たちを危険から遠ざけたいだけなんだ。行こう。時間は五分しかないんだから」
レンの目には、兄への絶対的な信頼が宿っていた。アレクはそれ以上ジンを追及できず、レンと共に、ジンの残した魔力痕を頼りに資料室の奥へと急いだ。
錬金術棟の地下にある第零資料室は、空気までが埃っぽく、古びた書物の匂いが充満していた。現代魔法の総譜が刻まれた最新の魔導書が並ぶ区画を抜け、二人がたどり着いたのは、背の高い木製の棚が迷路のように連なる、最も古い区画だった。
「すごい……これが古代の錬金術師たちが残した記録なんだ」レンが興奮を隠せない様子で棚を見上げる。
アレクは、そんなレンを守るように警戒しながら、周囲の棚を見回した。ヴァイスが残したメッセージには、文献の座標が古代の総譜文字で示されていたはずだ。
「これか」
アレクは、棚の最上段、埃に埋もれた一冊の分厚い文献を指さした。その表紙には、見慣れない文字でタイトルが書かれていたが、その下に描かれたシンボルマークは、アレクの故郷、異世界の紋章に酷似していた。
レンはすぐさま、懐から取り出した錬金術師用の照明弾を文献に向けた。
タイトルは**『勇者アレックス・ホークの魂の定着と、魂の転写に関する研究記録(ミカガミ・レンの母方先祖による記録)』**と、現代の総譜文字で副題が書き足されていた。
「これ……私の先祖が書いたもの?」レンが驚きに目を見開く。
アレクは、その文献を棚から引きずり下ろし、床に広げた。
文献は時系列順に記録されており、中にはアレクの故郷の地理や、魔王が持つ**『魂の入れ替え』**の禁忌術に関する詳細な解析が、古代の総譜文字と並行して記されていた。
そして、レンの目が、ある一文で釘付けになった。
*「――魔王は勇者の肉体を完全に複製し、その魂を異空間に隔離した後、自らの魂の一部を転写することで、**勇者自身を『生きたゲート』*として利用する計画を推し進めている。このままでは、世界が歪み、やがて勇者の魂は肉体に戻ることができず、異世界に永遠に隔離される」
「嘘……」レンが口元を押さえた。
「これが……真実か」アレクは文献の文字を睨みつけた。
衝撃は、元の肉体が魔王に奪われていたという事実よりも、故郷の仲間たちが、魔王が勇者の姿をしていることに気づいていないという絶望的な可能性だった。元の世界に戻る使命は、自分の肉体を取り戻すことではなく、魔王の欺瞞を暴くことだと、アレクは理解した。
だが、レンは別のページに目を奪われていた。そこには、レンの先祖による、ホムンクルス錬成の記録があった。
「魂の定着には、世界接続子を無視する*『純粋な願い』が必要である。我々古代錬金術師はその和音を『根源の和音』と呼び、研究を続けてきた。数代後、この和音を無意識に奏でる特異な才能**を持つ者が現れるだろう。その者こそが、勇者の魂を救う鍵となる」*
「根源の和音……私なの?」レンは震える声でつぶやいた。
彼女の卒業研究は、偶然などではなかった。それは、古代からミカガミ家に受け継がれてきた、勇者の魂を救うための予言と秘術だったのだ。そして、その「純粋な願い」という力が、ヴァイスに目をつけられた理由でもあった。
アレクは、そんなレンを静かに見つめた。彼は、レンのホムンクルスの手の甲をそっと握りしめた。
「レン。俺を錬成したのは、お前の研究じゃなくて、お前の『願い』だったんだな」
アレクの瞳には、勇者としての怒りとは別の、ホムンクルスとしての深い感情が宿っていた。
「俺の元の身体は、もう俺じゃない。魔王が、俺の皮を被っている。俺が元の世界に戻ったところで、誰も信じないだろう」
アレクは、強く決意した表情で続けた。
「俺の魂は、お前がくれたこの身体にある。俺は、ミカガミ・レンが作ったホムンクルスの姿で、故郷を救う」
レンは涙を拭い、強く頷いた。錬金術師として、そして妹として、アレクの決意を支える覚悟を決めた瞬間だった。
同時刻。
ジンは、第零資料室の最も古びた区画で、目的の文献を見つけていた。
『根源の和音:その制御不能性と世界の崩壊について』
ジンは、その文献を手に取ると、一瞥して中身を理解した。この文献には、レンが持つ「根源の和音」の力が、一度暴走すれば、この世界の総譜(法則)を破壊し、パラレルワールド間の障壁を崩壊させる可能性が記されていた。
「これだ……」
ジンは冷や汗を流した。
「ヴァイスが求めているのは、この『崩壊の力』。レンに触れさせてはならない」
ジンは急いで文献を自らのバッグに隠蔽しようとした。妹を守るためとはいえ、友であるアレク、そしてレンを欺く行為に、手が震える。
(すまない、レン、アレク。だが、この世界を、そしてお前を危険に晒すわけにはいかない)
その時だった。
ゴオオオオオオオオッ!!
資料室全体が、低く、重い総譜の残響と共に激しく震動した。
「な、なんだ!?」
ジンは隠蔽していた文献を抱え込み、周囲を見渡した。
次の瞬間、資料室の中央、棚の影から、空間の総譜が歪む音が響いた。
暗闇に、冷たい嘲笑のような声が響き渡った。
「見つけたぞ、ミカガミの末裔よ。そして、偽物の勇者」
空間の歪みから、ヴァイスが姿を現した。彼は、ジンとアレクたちがいる場所を、最初から正確に把握していたのだ。その手には、まるで楽器のように複雑な紋様が刻まれた、禍々しい黒い総譜演算杖が握られていた。
「やはり貴様か、ヴァイス!」
ジンが叫んだ。
ヴァイスは、ジンの手元を一瞥し、意地の悪い笑みを浮かべた。
「その文書を隠そうとする行為。見苦しいな、論理だけの凡才。君の妹の才能を、君が恐れている証拠だ」
ヴァイスは、総譜演算杖を掲げた。
「だが、遅い。私は既に、君の妹の総譜の波長を記憶した。そして、君たちが欲しがるだろう『アレクの肉体に関する情報』も、この杖に記録済みだ。全て、私が手に入れる」
ヴァイスの杖が、資料室の総譜を乱暴に掻き乱す。その魔力は、先日の魔獣戦で見せた力とは比べ物にならないほど強力だった。
ジンは、アレクとレンがまだ文献の場所から移動していないことを祈りながら、吼えた。
「レン!アレク!逃げろ!!」
そして、ジンはバッグから自らの総譜演算機を取り出し、ヴァイスの攻撃に備えて構えた。




