第75話『三日間の焦燥と、最後の夜の誓い』
国立魔法大学の資料室へ潜入する新月までの三日間は、ミカガミ家にとって、表向きは平穏、内側は激しい焦燥に包まれた時間だった。
ジンは地下のラボに籠もりきりだった。彼は、ヴァイスが残した「根源の和音」のデータを徹底的に分析し、古代錬金術の論文と照らし合わせる作業を続けていた。彼の解析の目的は、単にヴァイスの目的を探ることではない。もしヴァイスがレンの才能を狙っているなら、妹の錬成総譜を「保護」するための対抗策を見つけ出すことだった。
(ヴァイスの総譜には、やはり「分離」の要素が組み込まれている。そして、レンの総譜が持つ「純粋な願い」の力は、この世界の法則の防御壁を、外部から一時的に解体してしまう…)
ジンは、レンがどれほど危険な才能を持っているかを理解するにつれ、第零資料室で最も重要な文献を隠蔽するという決意を固めていった。それは、科学者としての彼の倫理に反し、兄妹の信頼を裏切る行為だったが、妹の安全のためには必要な『悪』だと彼は言い聞かせた。
その間、アレクは「平和な街の英雄」としての顔を演じていた。広場での魔獣討伐の件で、市長や警察の代表から感謝状を渡されるなど、公的な行事が増えたのだ。彼はその全ての場で、いつもの生意気なホムンクルスの表情の下に、故郷の魔王に肉体を奪われた勇者としての、冷たい怒りを隠していた。
「魔王が俺の身体を…」
夜、自室で剣の手入れをするアレクの脳裏に、奪われた肉体で笑う魔王の姿が焼き付いていた。
「もし、魔王が故郷で俺の皮を被って仲間たちを欺いているなら、俺は**『偽物』の姿で戻り、『本物』の皮を被った偽物**と戦うことになる」
ホムンクルスとして生きるというレンがくれたこの命を、使命のために使う。その決意は揺るぎないものになっていた。
三日目の夜、新月の前夜。
レンは、兄のジンが最近、自分やアレクから目を逸らすようになったことに気づいていた。彼女が錬金術の質問をしても、ジンは「それは現代魔法の範疇を超える」と話を遮るようになった。
レンは、夕食後、地下のラボにいるジンを訪ねた。
「お兄ちゃん、入るよ」
ラボの空気は、いつも以上に張り詰めていた。ジンは目を真っ赤にして、古い文献のデータと格闘していた。
「レン、悪いが今は集中させてくれ。時間がないんだ」ジンは、レンが近くに来ないよう、手元のコンソールを隠すように体をずらした。
レンは、ジンの疲弊した顔を見て、そっとマグカップを差し出した。温かいミルクティーだった。
「わかってる。でも、少し休んで。お兄ちゃんが倒れたら、誰が私たちを守るの?」
ジンはマグカップを受け取ったが、その瞳は優しさと焦燥に揺れていた。
「レン……お前は、本当に何も分かってない」ジンは絞り出すように言った。「お前の持っている力は、俺が…いや、この世界のどんな理論をもってしても、制御できない代物なんだ」
レンは微笑んだ。
「そうかもね。でも、怖くないよ」
レンは、テーブルに置かれていた、卒業研究で使ったホムンクルス錬成の総譜用紙を指さした。
「だって、私はこの力で、アレク君を創り出したんだから。私にとって、この力は**『破壊』の根源じゃなくて、『創造』の奇跡**なんだよ」
その純粋な眼差しに、ジンは何も言い返すことができなかった。彼の目の前で、レンは、古代錬金術師の血統が持つ力を、科学や論理ではなく、ただの温かい愛情と願いで受け入れている。
(この子は…どこまで純粋なんだ。その純粋さが、奴に狙われる最大の理由なのに)
ジンは、レンの頭にそっと手を置いた。
「…そうか。ありがとう、レン」
「うん。お兄ちゃんも、無理しないでね。私たちを信じて」
レンがラボを出ていった後も、ジンはしばらく動けなかった。彼女の「信じて」という言葉が、彼の胸に重くのしかかった。彼は、兄としてレンを裏切り、秘密を隠蔽する罪悪感と、彼女を守りたいという強い愛の間で、深く葛藤していた。
レンが自室に戻ると、アレクがベランダで夜空を見上げていた。新月の夜は、星の光が異常なほど強く、地上を照らしていた。
「アレク君、どうしたの?夜風が冷たいよ」
アレクは振り返らずに言った。
「なあ、レン。俺の故郷の星空は、もっと暗くて、魔力が満ちていた」
彼は、持っていた模造刀を月に向け、ゆっくりと構えを取った。
「俺は、勇者アレックス・ホークだ。故郷の星空と、そこに生きる人たちを守る使命があった。だが、今、俺の身体は、俺の故郷を裏切っている」
アレクは刀を振り下ろし、レンの方を向いた。
「俺は、元の身体に戻るという執着を捨てきれずにいた。それが、勇者としての最後の未練だった。だが、文献を読んで分かった。俺の肉体は、ただの『魔王の皮』だ」
アレクはレンにゆっくりと近づき、その手を握りしめた。
「レン。俺は、お前がくれたこの身体で、故郷を救う。俺の魂が宿るこの姿こそが、真の勇者アレクだ。魔王が、俺の元の姿で現れても、俺はホムンクルスのこの姿で、そいつを討ち取る」
レンの目には涙が滲んでいた。それは、アレクの元の姿を奪った魔王への怒りと、ホムンクルスとして生きることを選んだアレクへの深い愛情からくるものだった。
「うん……わかった。私が、アレク君の『根源の和音』になる。錬金術師として、そして、アレク君を創り出した者として、ずっとそばで支えるから」
二人は、新月の光の下で、互いの手の温もりを感じ合った。
その時、アレクの体内の魔力回路が、一瞬だけ鋭く反応した。
「…何だ?」アレクが警戒する。
「今の、微かな総譜の波長…お兄ちゃんのラボから?」
レンも気づいた。
「まさか。ジンは対抗策を見つけたのか、それとも……」
アレクとレンは、顔を見合わせ、言葉を交わすことなく頷いた。




