第74話『一拍の総譜と、根源の和音』
翌朝、ミカガミ家は妙な静寂に包まれていた。
昨夜の熱狂的な歓声、街全体を震わせた魔獣の咆哮、そして空を切り裂いた総譜の残響は、まるで幻だったかのように消え去っていた。
レンは昨日の疲れからか、食卓で目を擦りながら、湯気の立つマグカップを両手で包んでいた。その手には、まだ土と埃の匂いが微かに残っている気がした。
「お兄ちゃん、アレク君。……本当に、お疲れ様」
レンがそう言うと、アレクは照れ臭そうに鼻を鳴らした。
「へっ、俺は別に疲れてねーよ。ホムンクルスだからな、体力だけは有り余ってるっての」
そう言いながらも、アレクがレンに淹れた熱いコーヒーに口をつけ、静かに息を吐いた姿は、どこか昨日の戦いの緊張を解きほぐしているようだった。
昨日の夜、広場での出来事を思い出す。人々がアレクを取り囲み、「英雄!」「救世主!」と叫んだ瞬間。その時、アレクはいつもの生意気な表情ではなく、純粋な戸惑いを浮かべていた。彼は誰かのために戦うのは慣れているが、自分がその世界の人間として感謝されることには、まだ慣れていないのだろう。
(アレク君は、ホムンクルスとして生まれたけれど……その魂は、誰よりも深く、この街と繋がっている)
レンはそう確信していた。彼女が卒業研究の一環で創り出した存在が、今や世界を救う英雄となっている。その事実は、彼女にとって何よりも誇らしかった。
ただ、レンの心に小さな棘のように引っかかっているものがあった。
「ねえ、お兄ちゃん」
レンは兄に視線を向けた。
「結局、あのヴァイスっていう人は……何だったの?最後に、アレク君たちの勝利に協力したみたいだったけど」
ジンはトーストを噛むのを止め、少しだけ沈黙した。眼鏡の奥の瞳は、まるで遠い過去の記録を読み込んでいるかのように冷たい光を放っていた。
「……敵だ。間違いない」
ジンは断言した。
「だが、ただの破壊者ではない。昨夜の一拍は、奴が何か別の目的を持っていることを示唆している」
「別の目的?」
「ああ」
ジンは立ち上がり、コーヒーカップをシンクに置いた。
「レン、アレク。今日は二人とも学校は休んでくれ。これから俺は、昨夜のヴァイスの総譜の残滓を徹底的に解析する。そこから、奴の意図を読み取る必要がある」
ジンの声には、いつもの冷静さを超えた、焦燥のようなものが含まれていた。彼がこれほどまでに神経を尖らせるのは、尋常ではない。アレクとレンは、顔を見合わせ、静かに頷いた。
地下に設けられたジンの研究ラボには、現代魔法学と最先端の工学が融合した機器が所狭しと並んでいた。中央には高性能の魔導演算コンピューター”パンドラ”が青い光を放ち、そのコンソールには無数の総譜のパターンが流れ続けている。
ジンは、戦いの痕跡から採取したヴァイスの「一拍の総譜の残滓」を、特殊な顕微鏡と総譜解析装置にかけていた。
この残滓は、ヴァイスが仕掛けた魔獣の『目』を破壊するために、アレクとジンが奏でた「断罪の和音」に、一瞬だけ重なった、第三者の総譜だった。
「解析レベル、ベータ9に移行。総譜の最小単位『素子』まで分解」
ジンは冷徹な声で指示を出す。パンドラが唸りを上げ、残滓が持つ膨大な情報量を処理していく。
通常、現代魔法の総譜は、発動者の思考と意図に基づき、特定の「和音」を形成する。それは、この世界の法則と深く結びついた普遍的なルールに則っている。しかし、ヴァイスの「一拍」は異質だった。
「……検出。和音に、『欠損』が存在する」
パンドラが警告を出す。
「欠損だと? いや、これは欠損ではない……」
ジンはモニターに顔を近づけた。ヴァイスが刻んだ総譜の極微細な部分には、確かに現代魔法で必須とされる「世界接続子」の素子がごっそりと抜け落ちていた。
「まさか……これは、この世界の法則と同期していない」
世界接続子がない総譜は、通常、世界から『拒絶』され、即座に崩壊する。にもかかわらず、ヴァイスの総譜は一瞬だけ、アレクたちの総譜と完全に同調し、しかも魔獣の『目』という非常に複雑な構造に作用して破壊を成功させた。
ジンは急いで、現代魔法の主流から外れた、古代錬金術のデータベースを検索させた。
古代、魔法が科学ではなく信仰に近かった時代。現代の総譜理論が確立される以前に、いくつかの『禁忌の技術』が存在した。その一つが、「分離の錬金術」だ。
それは、物質や生命を構成する総譜を、『世界』から一度切り離し、任意の形で再構築するという、神をも恐れぬ技術だった。
パンドラが古い論文を読み上げる。
「錬金術師・アリス・マクスウェルによる論考:魂の定着について。生命の総譜を分離する際、世界接続子の代わりに『根源の和音』を代用することで、崩壊を回避し、新たな総譜体系に定着させる……」
「これだ……!」
ジンは思わず、椅子から立ち上がった。ヴァイスの総譜は、世界接続子を意図的に抜き去り、その代わりに「根源の和音」、すなわち『魂の最も純粋な願い』に近い、古代の総譜技術の基本要素を組み込んでいたのだ。
そして、その「根源の和音」は、現代魔法の理論では存在すら否定されているものだった。
「ヴァイス……貴様、本当に古代の錬金術を再現したのか……?」
ジンは疲労も忘れ、さらに解析を続けた。古代の技術を現代の総譜と融合させるなど、狂気の沙汰だ。しかし、ヴァイスはそれをやってのけた。
やがて、ジンは決定的な証拠を見つけ出す。
ヴァイスが組み込んだ「根源の和音」は、ただの技術的な要素ではなかった。それは、極めて微細に暗号化された『データ』を含んでいた。
「総譜のレイヤーをさらに剥離。暗号化された『ノイズ』を抽出……データ形式:古代総譜文字……翻訳」
パンドラが無機質な音声で、抽出された情報を読み上げる。
「場所:国立魔法大学、錬金術棟、第零資料室。時間:次の新月。鍵:ホムンクルスを望む、純粋なる術者の心」
そして、最後に一行、警告とも誘いとも取れるメッセージが付加されていた。
『根源を知れ。彼女の、そして彼の「和音」の始まりを』
ジンは眼鏡を外し、深い溜息をついた。
「やはり、奴の狙いはホムンクルスの身体そのものではなかった……」
ジンは、全てのピースが嵌る音を聞いた気がした。
ヴァイスは最初から、魔獣を囮に使っていたのだ。彼の目的は、アレクやジンと戦うことではない。アレクの魂を引き入れたレンの錬成能力、すなわち『ホムンクルスを生み出す無意識の総譜』に触れることだった。
ヴァイスは、レンが創り出したホムンクルス――異世界の勇者の魂を定着させたという『特異点』に、彼の追い求める「魂を分離・再構築する古代錬金術」のヒントを見出したのだ。
あの一拍は、アレクたちを助けるための共闘ではなく、レンの錬成総譜に一瞬だけ触れるための「サンプリング」行為だったのではないか。
ジンは、アレクの誕生にまつわる、ある仮説を思い出した。
「レンは、あの時、卒業研究で『最高のホムンクルス』を無意識のうちに『純粋に強く、強く願った』。そのあまりにも純粋な、無意識の総譜こそが、『世界接続子』の代わりに、異世界の勇者という『最も純粋な魂の願いの具現化』を引き寄せたのではないか……」
もしそうなら、レンの錬成能力は、ヴァイスが探し求めている「世界を再構築する力」の根源、すなわち『根源の和音』を、無自覚に奏でることができる特異な才能ということになる。
「ヴァイスは、レンの才能を欲している……あるいは、レンが古代の錬金術師の末裔である証拠を探している」
ジンは再び眼鏡をかけ、モニターに表示された第零資料室の座標を見た。
「次の新月か。時間は少ない。だが、奴の誘いに乗るしかない」
この情報は、アレクの元の身体、元の世界に戻るための、唯一の手がかりかもしれないのだから。
リビングに戻ると、アレクがローテーブルの上で、剣のメンテナンスをしていた。彼は、この世界に来てから手に入れた魔力繊維製の模造刀を、真剣そのものの表情で磨いている。レンは、その隣で錬金術の参考書を開き、難しい顔でメモを取っていた。
静かだが、平和な日常の光景だ。
ジンは、その平和を壊す爆弾を抱え込んでいることを自覚しつつ、静かに口を開いた。
「アレク。解析が終わった。ヴァイスからのメッセージが見つかった」
アレクは手を止め、真っ直ぐにジンを見返した。レンも参考書を閉じた。
ジンは、ヴァイスの残した総譜、古代錬金術、そして第零資料室の情報を、二人になるべく分かりやすく伝えた。ただし、「ヴァイスがレンの才能を欲している」という部分は伏せ、「ヴァイスがアレクの転生の秘密を知っている」という点に焦点を絞った。
「つまり、ヴァイスは俺の故郷の『魂の定着技術』を知っているってことか?」
アレクが尋ねた。
「その可能性が高い」
ジンは頷いた。
「古代の錬金術は、君たちの世界の魔法と、ある時点で交流があったのかもしれない。第零資料室には、その真実、そして君がどうやってこの世界に来たのかが記されているはずだ」
アレクの表情が、一瞬、過去の勇者アレックス・ホークのそれに変わった。
「……行く。どこでも行く。元の世界に戻るための手がかりなら、ヴァイスの罠だろうが何だろうが構わねえ」
彼の目は、もはや英雄のそれではなく、使命に生きる一人の戦士の目だった。
「レン、君はどうする」
ジンは妹に目を向けた。
レンは静かに立ち上がった。
「私も行くよ。ホムンクルスの錬成は、私の卒業研究だからね。でも、私はまだ、アレク君の『始まり』を本当に理解できていないから」
レンはアレクのホムンクルスの手の甲にそっと触れた。
「それに、お兄ちゃんが言う古代の錬金術……それが本当に存在するなら、私も錬金術師として、その歴史を知りたい。それに、ヴァイスという人が何を企んでいるのか、自分の目で確かめたい」
レンの瞳には、いつもの柔らかな優しさに加え、錬金術師としての知的好奇心と、兄とアレクを守ろうとする強い意志が宿っていた。
ジンは満足そうに頷いた。
「承知した。次の新月は三日後の夜だ。それまでに準備を整える。場所は国立魔法大学、錬金術棟。ここは、レンが今通っている高校の母体となった、由緒ある場所だ」
その日の夜。
ジンはラボで最終的な準備を進め、アレクは街の自警団に協力を依頼するため、レンは第零資料室へ向かうための参考書を漁っていた。
レンが、自分の部屋で古い錬金術の教科書を捲っていると、扉をノックする音がした。
「レン、入るぞ」アレクだった。
「アレク君」
アレクはベッドの端に腰掛け、レンが広げていた教科書を覗き込んだ。
「難しい本読んでるな。頭が溶けそうだ」
「ふふ、難しいよ。でも、アレク君を錬成した者として、自分の技術の根源を知りたいの」
レンはそう言って、改めてアレクの顔を見上げた。彼の端正な顔立ち、少し野性的な瞳、そして何よりも、その内に宿る強靭な魂。
「ねえ、アレク君」
「なんだ?」
「……もし、元の世界に戻る方法が見つかったら、どうする?」
レンの質問は、いつも彼女自身が避けてきたものだった。アレクがこの世界に来てからずっと、二人の間には、いつか訪れる「別れ」の可能性が横たわっていた。
アレクは、その質問に即座に答えた。迷いは一切なかった。
「戻る。俺は勇者だ。魔王を倒すという使命は、まだ果たしちゃいねえ」
その言葉に、レンの胸がチクリと痛む。だが、それは予想していた答えだ。
「……そっか。そうだよね」レンは無理に笑みを作った。
アレクはそんなレンの様子を見て、頭を掻き、ホムンクルスの肉体では理解しきれない「人間的な気遣い」を見せた。
「ただし、だ」アレクは続けた。「戻るにしても、何もかもを捨てるわけじゃねえ」
「え?」
「俺はこの世界で、レンとジン、そして街の奴らに散々世話になった。特にレン、お前がいなきゃ俺はこの身体で、もう一度戦うことすらできなかった。ホムンクルスだから何だ?俺の魂は、お前がくれた身体で、もう一度生きている」
アレクは、レンの手元にあった錬金術の教科書の上に、自分のホムンクルスの手を重ねた。
「だから、元の世界に戻って使命を果たしたとしても、俺は『ミカガミ・レンが作ったアレク』として、必ずまたお前に会いに来る」
その言葉は、勇者アレックス・ホークの約束ではなく、ホムンクルスとして生きるアレクの純粋な誓いだった。
レンの目から、涙が溢れた。
「っ……うん、分かった。絶対だよ」
「たりめーだ」アレクは不器用に笑った。
その様子を、扉の外、廊下の暗闇から、ジンは静かに見つめていた。
(アレク、君の魂は、本当にレンの『根源の和音』に呼応している……)
ジンは、ヴァイスの残したメッセージの後半を思い返した。
『根源を知れ。彼女の、そして彼の「和音」の始まりを』
「ホムンクルスを望む、純粋なる術者の心」がレン。そして「使命に燃える、最強の勇者の魂」がアレク。
二人の純粋な総譜が響き合って生まれた特異な存在。それがアレクというホムンクルスだ。
ジンは、二人の絆の強さを確認するとともに、不安を強めた。ヴァイスの狙いがレンの才能であるならば、その純粋な総譜は、世界を変える力を持つと同時に、世界を崩壊させる引き金にもなり得る。
「俺は、レンの才能を悪用させるわけにはいかない」
ジンは、無言で踵を返し、ラボに戻った。
三日後の新月。国立魔法大学の第零資料室で、彼らは世界の起源と、自分たちの運命を知ることになる。
その旅は、レンの卒業研究ではなく、世界と魂の真実を探る、過酷な冒険の始まりだった。
第零資料室って、普通の資料室とはどう違うのでしょうね?
ちなみに、「何で大学?」と思った人もいるでしょうから、補足。
国立魔法大学
現在の教育・研究機関の名称として使用。レンが通う高校の母体。




