第71話『俺たちの総譜』
鏡池の面に、夜が二重に張り付いていた。
上の夜は星を抱え、下の夜は札の赤黒い紋を孕む。風が神社の森を渡るたび、木々の葉脈が擦れ、ざわり、と微かな子守歌めいた音列を作った。けれど、それさえもいまは主祭の拍へと絡め取られ、同じ数を数えさせられている。音は均され、祈りは揃えられ、世界の揺らぎが一個の“無音”の中心へ吸い寄せられていく。
「始めようか」
呪具商人が掌を返した。白い指先が夜気を梳く。炉にくべられた薪の爆ぜる音さえ、合図のように同時化される。
アレクは一歩前へ出る。杖を肩で回し、手の内を作り、足の指で石の凹みに“自分の拍”を置いた。
「こっちの合図はもう鳴ってる。――遅刻すんなよ」
呼び子が微笑む。幼い顔に、幾つもの感情が同時に灯る。その後ろで、黒刃ヴァイスが剣を水平に構えた。鎧の呪紋は先ほどよりさらに濃く、呼吸は最短距離を選ぶ刃物のそれだ。ジンがすっと刀を引き抜いた。火を映すでもない、静かな鋼の色。レンは鈴を胸で抱き、ミユはタグ束を扇のように広げ、ユウタは結界器を低く構え、カズマは木刀を肩に担いだ。
拮抗のまま、最初の一打が落ちた。
ジンの足が石畳を撫でる。ほとんど音ではない、気配の底に流れる“通奏低音”。それにレンの鈴が乗り、ミユの〈見取り〉が譜面の枠線を引き、ユウタの結界が縦横の梁を建て、カズマの木刀が笑えるほど素朴な拍を刻み、アレクの杖が芯を打つ。
対して――呪具商人は指を鳴らすだけで、鏡池の面に“無音の波”を落とした。
静寂が広がる。音を圧で囲い込む沈黙。呼吸すらも等間隔に揃える黒い覇気。呼び子が両掌で空気を包み、ヴァイスが剣の切っ先で見えない糸を弾く。その糸は札の柱へつながり、本殿の梁から下がる逆さ鈴へつながり、狛犬の口から垂れる霧の帯へつながって――神域そのものを“譜面台”へ変えていく。
ぶつかる。
レンの鈴が“鳴らさずに鳴る”と、無音の波が凹み、そこに薄青の縞が生まれる。呼び子の無音灯がそれを押し返し、ユウタの結界が横へ逃がし、ミユのタグが“押しやすい場所”を明滅で指示し、カズマの木刀が打点を励まし、アレクの杖が薄青帯の中心に芯を落とす。ジンの低音が全体を束ね、逸れそうになる拍を沈める。
「……悪くない」
商人が目を細めた。
「だが、主祭は“増やす”ことでもある」
札が一斉にめくれ上がった。鏡池の縁、石灯籠の内側、鳥居の梁、賽銭箱の底、本殿の板壁――無数の札が裏返り、裏面の紋が新しい無音を吐く。拍の層が二重、三重に重なり、こちらの音は薄膜の部屋に閉じ込められる。
「層位干渉……!」
ユウタが歯噛みした。
「音を吸う空間を階段状に配置している。押しても抜けない」
「なら、ひっぺがすだけだ!」
カズマが駆け出す。
「待て、単独は――」
ユウタの制止より早く、木刀が札の柱を打った。札は破れる。だが、破れた“口”から逆相の風が吹き出し、カズマの腕ごと木刀を持っていく。
「お、おわぁッ!?」
アレクが飛んだ。杖の石突きで風の口を横に撫でる。風は“口笛”に変わり、方向を変え、その隙にユウタが楔を投げ込んで口を塞いだ。ミユのタグがその楔を〈封〉で包み、レンの鈴が上から“蓋”を置く。
「ひとつずつにしていたら、数で負ける」
ジンが低く言った。
「兄さん、まとめて行く方法は」
「ある。街ごとやる時の手だ。――負担は、私が持つ」
ジンが一歩進み、刀を水平に置いた。鏡池がそれに合わせて“自分の面”を作る。ジンは刀の背で池を押し、低く、長い一音を落とす。地を這うような声。森の根が太古から歌い続けていた、と言われても信じそうな低音。
「通奏低音。鈴を、その上に置け」
レンがうなずき、鈴を抱え込むようにして鳴らした。金の光は低音の上で安定し、薄青帯がぶれない床になる。ミユのタグが〈梁〉を増設し、ユウタの結界が梁と梁を縫い、カズマの拍が梁を“使える橋”へ変える。
ヴァイスが踏み込んだ。ジンの前へ。
刃と刃が、最小限で掠れ合う。音はない。ただ、空気が切り替わる。ジンは振らない。受けない。押しも引きもしない。“在る”。ヴァイスの剣は“在る”を切り崩そうと、角度を変え、呼吸を変え、拍を変える。そのたびにジンの刀はそこに居合わせ、何も起きないままに“結果だけ”を変える。
「……強い」
ミユが息を呑む。
「ジンさん、強い」
「当たり前だろ」
カズマが笑った。
「オレの師匠――つっても、勝手に弟子面してるだけだけどな!」
アレクはヴァイスの隙を見極め、横から入った。杖の先端で鎧の脇、喉、額、と先ほどの連打を繰り返す。ヴァイスの呪紋の呼吸が二拍遅延する。そこへジンの刀が“何もせずに”差し込まれ、ヴァイスの刃筋がわずかに逸れた。
「なぁ、黒刃」
アレクが笑う。
「ここで倒れるなら、任務の名前のままで倒れるのか?」
「任務は、名ではない」
ヴァイスの瞳がわずかに揺れた。
「……しかし、任務は、私だ」
「だったら――任務の外も選べ」
呼び子が、こちらを見ていた。鈴と無音灯の押し合いの中で、彼の視線だけが震えている。
〈ぼくは、鳴らしたい〉
〈でも、鳴らしたら、奪わなくちゃいけない〉
〈たぶん、最初から決められていた。ぼくは、奪うための“合図”〉
「違うぞ」
アレクは言った。
「合図は“集める”ためにある。俺たちを、いま、こうして集めているのは、お前の合図だ」
〈……そう、なのかな〉
呼び子の無音が一瞬だけ柔らかくなった。鈴の光と重なり、薄青帯が広がる。札の層が剝がれ、本殿の梁に貼られていた“柱札”が一斉にベリ、と音を立てて外れた。ミユがすかさず回収袋で封じ、ユウタが袋の外に結界を二重に掛ける。
呪具商人は笑っていた。
「いいね。とても、いい。――だから、増やそうか」
鏡池の中央が裂けた。暗渠の穴のように、黒い孔が開く。そこから出てきたのは、仮面を貼り合わせた“宮司”。紙でできた人形に、千の面を重ねたような異形。口が千あり、声も千ある。祈りの言葉と呪いの言葉が同じ音階で混ざる。
「き、千人形……!」
ミユが顔を青くした。
「この地方の古い祭祀にしか出てこないはず――」
「本を閉じろ、ミユ」
ジンが短く言う。
「本にある形は、形だ。中身は、今ここにあるものだ」
千の声が、同時に“いただきます”を唱えた。
鏡池の水面が、下から吸い上げられる。祭壇の拍が飢える。奪う。奪い尽くすために口を開ける。
レンの足がすくみそうになる。指が震える。その震えごと、鈴を抱きしめる。
「……奪わせない」
胸の奥の弱い声を、彼女自身が聞いた。すぐ傍で、アレクの呼吸が聞こえる。カズマが笑っている。ユウタが淡々と数字を読み上げている。ミユがタグをめくる音がする。ジンの低音が、揺らぎを撫でてくる。
「奪わせない」
レンはもう一度言った。強い声で。
鈴の腹が、低音の上で深く鳴る。今度は“鳴らずに鳴る”でも、“鳴らして鳴る”でもない。――“鳴っている”。自分が鳴っている。彼女が鳴っている。
薄青帯が神域いっぱいに広がり、千人形の口の多くが閉じられた。残る口が無音を吐くたび、ユウタが楔を打ち、ミユが〈封〉を投げ、カズマが木刀で“恥ずかしい拍”を叩き込み、ジンが通奏を上げ、アレクが芯を落とす。
押し返す。押し返す。重い。だが、もう底は抜けない。薄青帯が底まで降りている。支えがある。
呪具商人の笑みが、ほんのわずかに薄れた。
「――変わったね、呼び子」
〈うん〉
呼び子がうなずいた。
〈合図は、奪い合いじゃない〉
〈“次”の人に渡すために、鳴らす〉
アレクは息を大きく吸った。
「そうだ。――渡せ」
呼び子が両の手をひらき、無音灯を“渡す”形に変えた。鈴の光と重なり、薄青がさらに明るい色になる。千人形の肩が一斉に落ち、呪紋が一重ずつ剥がれ、仮面がぱらぱらと剝ぎ取られていく。
「ここで終わらせる!」
カズマが吠え、木刀を肩から振り下ろす。叩くのは空だ。だが、叩いた拍は梁を伝い、仮面たちの“恥ずかしい”を掘り起こす。千の面が、千のズレを抱え、合奏が崩れる。「ヨイ、の次」を間違えるみたいに、バラバラになっていく。
ユウタが最後の解析結果を吐き出した。
「弱点、中心――鏡池の“裏面”。本殿下に“裏鏡”がある。そこから主祭の拍が供給されている。切断すれば、商人の無音は街を満たせない」
「行けるか?」
アレクが問う。
「行ける」
ユウタは即答した。
「ただし近い者ほど反動が大きい。……僕がやる」
「だったら二人でやる」
ミユが隣へ並んだ。
「いや、君は――」
「私たちは二人で一枚の譜面だよ、ユウタ君」
ミユが笑った。震えは、もうない。
「タグの角度、絶対に間違えないから」
ジンが刀を斜めに構えた。
「お前たちが潜る間、ここは持つ」
レンが頷く。
「大丈夫。私、鳴らし続ける」
カズマが木刀で肩を叩く。
「行ってこい、相棒!」
アレクは二人の肩に、それぞれ一度だけ手を置いた。
「頼んだ」
二人は鏡池の縁へ走り、薄青帯のいちばん濃いところへ同時に跳んだ。水は割れ、音の井戸が現れ、二人の影が吸い込まれる。神域の拍が一瞬だけ揺れたが、レンの鈴が即座に補正し、ジンの低音が沈める。カズマの拍が笑い、アレクの杖が芯で支える。
ヴァイスが動いた。
呼び子が、その袖を掴んだ。
〈待って〉
「任務」
〈違う。――見て〉
ヴァイスの赤い瞳が、鏡池から立ち上る薄青の柱に映った。そこには、街の灯りが重なっていた。屋台の白いランプ、家々の窓の黄色、交差点の信号の赤、港の灯台の淡い光、駅のホームの蛍光灯――すべてが薄青の中に“暮らしの拍”として点在している。
「……」
ヴァイスは剣を下げなかった。だが、上げもしなかった。
呪具商人が指を鳴らした。
「情緒は、美しい。――だが、不要だ」
本殿の屋根が鳴り、逆さ鈴が爆ぜ、狛犬の口が大量の無音を吐いた。押し寄せる暗い波。ジンが前へ出て、刀の背で“何もしないまま”波を割った。割るのではない、在る。ただそこに在ることで、波の“結果”だけが別の方向へ逃げる。
「アレク!」
ジンが低く叫ぶ。
「押せ!」
「了解!」
アレクは杖を握り直し、港で拾った古い歌の拍を刻んだ。レンの鈴が重ね、カズマが励まし、ヴァイスの剣が――一瞬だけ、同じ拍に寄り添った。ほんの一瞬。任務の外の、半拍。相容れぬはずの刃と杖が、音だけを共有する。
鏡池の底で、ユウタとミユが“裏鏡”を見つけた。
大きな、静かな面。そこに街の影が逆さに貼られ、無音の糸で縫い付けられている。ユウタは結界器を逆回転させ、糸の“結び方”を読み、ミユはタグで〈解〉と〈結〉を入れ替える。ひとつずつ、ゆっくり、急がずに外す。外すたびに、地上の拍が揺れ、レンが補正し、ジンが沈め、アレクが芯で支える。
最後の一本に手が掛かった。
ユウタが息を整え、ミユが頷く。
「三、二、一――」
上で、呪具商人が笑っていた。
「きみたちは、優しい」
指が動く。
鏡池の面に“罠の札”が一斉に開く。裏鏡と結んでいた最後の糸を、こちら側から“増殖”させる札だ。切れば切るほど、結び目が増える。
「増殖トポロジ……!」
ユウタの頬が引きつる。
「悪趣味だ」
「なら、こっちも悪趣味で行く!」
ミユがタグ束を投げ上げた。〈薄青帯〉〈梁〉〈橋〉〈封〉――同時に四枚。タグ同士が“重なり”、ついさっき覚えたばかりの薄青の第三の道を自ら増やす。増殖に増殖をぶつける。結ぶための“余白”を自分たちの側で増やし、糸の結び目に“居場所”をなくす。
「いける!」
ユウタが叫ぶ。
「今だ!」
最後の一本が、ほどけた。
頂の神社全体が、一瞬“無音”になった。
次に――街の音が、戻ってきた。
遠くから上がる祭囃子の名残。屋台を片づける金属音。誰かの笑い声。泣き声。犬の鳴き声。自転車のブレーキの擦れる音。信号機がカチ、と切り替わる小さな音。夜が、夜のままに息をする音。
薄青帯が、満ちた。
レンの鈴が、ジンの低音の上で、安らかに鳴った。
アレクはその音の芯を、杖の先でそっと触れた。
呼び子が、微笑んだ。
〈渡せた〉
ヴァイスの剣が、完全に下りた。
呪具商人は、拍手をした。
皮肉ではない。純粋な拍手。
「素晴らしい。――だからこそ、惜しい。きみたちの歌は街を満たすに足る。だが、それでも私は、主祭を終わらせるわけにはいかない」
「終わったんだよ」
アレクが言った。
「終わらせたんだ、俺たちで」
「いいや。主祭は“最後の奪い合い”で締める。――魂だ」
夜気が急に冷えた。
商人の背後で、仮面の千人形が一斉にこちらを向く。鏡池の底で何かが裏返る。呼び子の足元の板が開く。
〈……!〉
呼び子が短く息を呑んだ。足首に黒い糸が絡みつく。引きずり込もうという力。
アレクは考えるより先に動いた。薄青帯の上を跳び、呼び子の手を掴み、引く。軽い。軽すぎる。手のひらの向こうで、子どもの骨が、ちゃんと“ここ”にある実感がする。それでも、糸の力は強烈だ。引けば引くほど、足元の板が開く。
「ジン!」
「見えている」
ジンの刀が“何もせずに”糸を切る。空間の結果だけが入れ替わり、糸は自らの結び目へ滑り込んで自滅する。ミユが〈封〉を投げ、ユウタが楔で板を縫う。レンの鈴が“人の手を離れた子”の拍をそっと包む。
呪具商人は微笑み続けた。
「呼び子。帰ろう」
〈帰る場所なんて〉
呼び子が首を横に振る。
〈ぼくには、ない〉
「あるよ。――わたしの中に」
アレクはゆっくりと顔を上げた。
レンの指が、彼の肩に触れた。
ジンが一度だけ目を伏せ、頷いた。
ミユがタグを閉じ、ユウタが結界器を下ろし、カズマが木刀の柄をこつこつ叩いた。
「お前の拍、知ってる」
アレクは呼び子に言った。
「俺の中にもある。お前が鳴らしたかった歌、俺の中にも残ってる。――一緒に鳴らせ」
〈できるの〉
「できる」
〈奪わないで〉
「奪わない。渡しっこしよう」
呼び子は、泣き笑いの顔のまま、小さく頷いた。
薄青帯が、いちどだけ眩しく脈打つ。
アレクの胸の奥で、何かが“位置”を見つける。自分の肩幅、自分の歩幅、自分の笑い方、自分の沈黙――失っていたはずの“元の体”に刻まれていた拍が、今の小さな体の中で、奇妙にぴたりと噛み合う。
呪具商人の微笑みが、わずかに強張った。
「……やめておきなさい。きみは二度と“元へは戻れない”。それでも、なお、抱えるというのか」
アレクは笑った。
「戻らないさ。――進むんだ」
その瞬間、神社全体が、ほんの少しだけ“軽く”なった。
札が、風でめくれた。
逆さ鈴が、正しい向きに戻った。
狛犬の口が閉じた。
鏡池の面に、星が映った。
総譜――まだ、完成ではない。
けれど、確かに“街の譜面”は、こちら側に傾いた。
呪具商人は一度だけ肩を竦め、掌を上げた。
「結構。ならば、最後の一拍だ」
本殿の扉が、内側から開いた。
そこに在ったのは、鏡――ではない。“目”だった。巨大な、古い、街そのものの“目”。祀られていた何かが、祭りの名のもとに引きずり出され、名を失い、ただ“視る者”になっていた。
風が凪ぐ。
鳴っていた音が、全部、一瞬だけ止まる。
目が、こちらを見た。
アレクは、杖を構え直した。
レンが鈴を握り直し、ジンが刀を下段に置き、ミユがタグを扇にし、ユウタが結界器を立て、カズマが木刀で自分の胸をドン、と叩く。
呼び子が、アレクの隣に立った。
〈いっしょに〉
「ああ」
夜の頂で、“最後の奪い合い”が始まった。
アレクは笑った。
――ここからが、俺たちの“総譜完成”だ。




