第69話『霧の中の本丸』
港の風が、勝手に拍を刻んでいるようだった。波、旗、ロープ、カモメ――すべてがどこかで同じ数を数え、同じ呼吸で揺れている。アレクはその整いすぎた“均し”が、むしろ厄介だと直感した。敵はこの拍を掴んでいる。なら、こっちは――壊すのではない。自分たちの拍で塗り替える。
「行くぞ、黒刃!」
叫ぶより早く、ヴァイスの剣が水平に走った。音が遅れてくるほどの速さ。アレクは杖を立てて受け、足裏で一度ブレーキを噛ませ、そのまま体ごと滑って衝撃を逃がす。火花は出ないのに、耳の奥で金属音が弾けたように痛む。呪具の刃は叩く音を吸う。代わりに鼓膜の内側へ“無音の鋭さ”を刺してくる。
「右、二拍後に縦!」
ユウタの声が飛ぶ。彼の結界器がヴァイスの鎧紋を解析し、赤く脈打つタイミングを短く光で知らせた。
「任せろ!」
アレクは一度わざと踏み外す。拍から忘却の半拍へ落ちるふりをして、体の張力を切る。ヴァイスの剣先がそこを断ちに来た瞬間、足指に力を掛け、踵を滑らせ、その縦の切り下ろしへ杖を斜めに差し入れる。弧。受け流し。反転。杖の石突きが鎧の脇へコン、と入った。呪紋の呼吸が一拍だけ乱れる。
「今!」
ミユがタグ束から二枚を抜き、空中で交差させる。〈灯標〉と〈波切〉。片方で床の見えない起伏を浮かび上がらせ、もう片方でその勾配に逆らって“音の刃”を立てる。ヴァイスの足首に縦の筋が走り、ほんのわずかに膝が折れた。
「鈴、当てる!」
レンが膝で堤防に沈み込み、鈴の腹を伏せたまま“鳴らさずに鳴らす”。金の色の光が、ヴァイスのこめかみに斜めの帯として落ちる。無音の圧。それは痛みではなく、“拍を奪う”。剣を振るうための筋肉配列から、半拍だけ“次”を抜き取る。
「――!」
ヴァイスの首の角度が僅かに狂った。そこへカズマの木刀が峰で叩き込まれる。真正面ではない。肩甲骨と肩甲骨の間――背中の“拍の結び目”を打つ。木は金属ではない。だが、打点次第では金属よりも深く打ち込む。
「おらぁっ!」
鈍い音。ヴァイスの身体が半歩だけ前によろめき、鎧の紋が一瞬消えかける。その隙にユウタが結界の“楔”を投げた。透明な楔が地面からヴァイスの踝に噛みつき、動きをほんの少しだけ制限する。
「効いてる! 連鎖させて!」
アレクは跳ぶ。前にではない。斜め後ろ、ヴァイスの視線が“次のアレク”を予測できない角度へ。杖の先を脇腹、喉、額、と三連で小さく触れる。大木を倒す一撃ではなく、拍をずらす連打――テンポを乱す突き。
「解析更新、いける!」ユウタが吐息混じりに叫ぶ。「その連打で、鎧の“呼吸”が二拍遅延した!」
「なら、上書きだ!」
カズマの木刀が鳴る。彼は自分自身の得意なリズム――遊具のポールで延々と叩いて先生に怒られた“謎の叩き歌”――を持ち出した。馬鹿みたいなあの拍。身体に染みついて、忘れようとしても忘れられないやつ。それをヴァイスの鎧に押し付ける。
「一、二、三、ヨイ!」
“馬鹿拍”が、鎧の呪紋にひっかかった。完全に無効化はできない。だが、ほんの少し“恥をかかせる”。呪紋はおそらく完璧を好む。歪みを嫌う。その一瞬の羞恥のような乱調。そこへレンの鈴が再び走る。ミユのタグが昇る。ユウタの楔が深く潜る。アレクの杖が芯を叩く。
――押し込める。行ける。
アレクの全身が、その“勝ちの手前”の軽さで満たされる。だが、同時に背筋を誰かが撫でた。
〈……にぎやかだね〉
スピーカーの声。呪具商人の、それでも少し幼い“彼”の声。楽しそうで、寂しそうだ。
〈でも、忘れないで。主祭は“奪い合い”だよ〉
港の反対側で、フォグホーンが突然低く鳴った。レンの鈴と逆の位相で。その音は鈴の鳴らざる光と干渉し、薄い膜を揺らすように“灯”を乱す。
「……っ!」
レンの肩に、見えない重さが掛かった。鈴の腹を押さえる手がわずかに震える。光が細くなる。
「レン!」
「大丈夫……でも、港全体で“偽の灯”が起動してる。どこかで――」
「灯台が奪われてる!」
ミユがタグを広げ、灯台のレンズへ向けて〈見取り〉の薄紙を投げた。紙が空気の層を拾い、レンズの奥を“図にする”。そこには、黒い影が三体、円形に並び、レンズに“影の刻印”を押し当てていた。フォグホーンの管には黒墨の札が絡み、低音を勝手に発している。
「あいつら、レンズを“祭壇”にしてる……!」
「止めに行く!」
アレクが横を向く。だが、ヴァイスの剣が行く手を塞いだ。その動きには迷いがない。任務――創造主の捕獲と灯の破壊。優先度は明確。その直線の意志が、最短距離で四人の喉元に向かってくる。
「行かせない!」
カズマが飛び出し、木刀で剣を“受けずに逸らす”。ユウタが楔を打ち込み、ミユが柱を増やし、レンが光を厚くする。アレクは前へ出て、ヴァイスの真正面で笑った。
「なぁ、黒刃」
「……」
「お前、昔なら俺の仲間になってたかもな」
「意味不明」
「だろうな。――でも、一回くらいは、こっちの歌で踊れ」
アレクは杖を立て、堤防を踏んだ。コン。
レンの鈴が応える。
カズマの木刀が、ユウタの結界器が、ミユのタグが――一瞬だけ、完璧に重なった。
“灯”が厚くなった。
港が、深く息を吸い、吐く。
灯台のレンズがわずかに震え、黒い刻印の縁が剥がれかける。
〈……がんばるね〉
スピーカーの声が少しだけ掠れた。
〈ぼくも、がんばるよ〉
海の下が――揺れた。
巨大な何かが、港の底を横切った。潮が逆巻くのではない。水が“あちら側へ寄せられる”。空洞が開く。堤防の杭が、ごく僅かに軋む。
「まずい、底抜け!」
ユウタが叫ぶ。
「灯で押さえている分、反動が下に逃げている! このままだと港底に“休符の穴”が――」
「止める!」
レンが立ち上がる。その顔には恐れがあった。けれど、それ以上に、決意があった。
「私の“灯”は、ここを鳴らすためにある。底も鳴らす。全部、鳴らす」
「レン!」
「アレク君、前! 時間稼いで!」
レンは鈴の腹を両手で抱き、目を閉じた。内側に描いた修復の金線が、熱を帯びる。
ミユがすぐ横でタグをめくる。
「補助する! 〈海図〉〈梁〉〈息継ぎ〉――三重重ね!」
ミユが投じたタグが水面の“見えない梁”を描き、その梁にレンの鈴の光が流れ込む。ユウタの結界が梁を地盤へ縫い付け、カズマの木刀が堤防を“叩いて励ます”。アレクはヴァイスの剣を受け、逸らし、わざとぶつかり、肩で押す。
刃と杖が噛み合う。
ヴァイスの目が、僅かに揺れた。
そこへアレクは囁くように言った。
「なぁ、お前。名前、あるのか」
「黒刃ヴァイス」
「それは“任務の名前”だろ。お前のだ」
「不要」
「いるだろ。お前の拍だ。任務の外でも、息してるだろ」
「……」
刃がためらったわけではない。だが、一撃だけ、遅れた。
アレクはそこへ、杖の柄尻を軽く触れる。柔らかい、友達の肩を叩くみたいな触れ方で。
鎧の紋が一瞬だけ“赤ん坊の息”みたいに浅くなった。
ユウタが見逃さない。
「今!」
カズマが木刀で背の“結び目”をもう一度打ち、ミユが〈波切〉で足元の“無音の水”を切り、レンの鈴が“灯”の厚みをもう一段上げる。
海底の穴が、埋まり始めた。
灯台の刻印が、はがれた。
「……っ!」
レンズの上の三体の影が、同時に身を引いた。札が風へと散り、フォグホーンの偽音が止む。港に流れるのは、鈴の光と、総譜の金の線だけ。
〈うん。うん〉
スピーカーの声は、息を整えるみたいに二回、短い声を落とした。
〈やっぱり、きみたちは、きれいだ〉
〈だから――ここからは、本当の“祭り”だよ〉
仮面の巨体が、ゆっくりと割れた。
中から出てきたのは、祭壇――いや、舞台と呼ぶべき円形の足場。黒い板でできているのに、足を乗せると“音がする”。無音のはずなのに、音がする。そこに、影がひとつ、立った。
子どもだった。
十歳か、もう少し幼いか。
白い髪、赤い瞳。
アレクに似ているのに、似ていなかった。笑っていた。嬉しそうに。
そして、悲しそうに。
〈やっと、会えた〉
「……お前が、声の主か」
〈うん〉
〈ぼくは――“呼び子”〉
「呼び子」
レンが息を呑む。
「合図を鳴らすための――」
〈そう。ぼくは、本当は“鳴らすだけ”で、よかった〉
〈でも、鳴らすためには、“奪う音”も必要だった〉
〈だから、ぼくは、ぼくをわけた〉
子どもの足元で、黒い板が鳴った。
アレクは喉の奥が熱くなるのを感じた。似ているのは外見だけではない。呼吸、目の揺れ、笑うときにほんの少しだけ顎が上がる癖。自分だ。自分の“拍”が、霧の向こうで子どもの姿になって立っている。
「……戻れよ」
〈どこに〉
「俺の中に」
〈それは、できない〉
〈ぼくは、ぼくで、ここにいる〉
〈でも――いっしょには、鳴らせる〉
「いっしょに?」
〈“灯”を〉
呼び子が手を上げた。ヴァイスが一歩、横へ退く。“任務”ではない位置。護衛の位置。
呼び子は、両の手のひらで空気を包んだ。つまむのではない。抱くのでもない。寄せて、離す。寄せて、離す。
レンの鈴と同じ動き。だが、音は逆。
無音の光が、灯台から降りた。
“奪う灯”。
「来る!」
ユウタが叫ぶ。
「反相! レンの光と正面衝突する!」
「避けられない」
レンは一歩も引かなかった。
「ぶつける。押し返す」
ミユが頷き、タグ束を握り締める。
「補助する。私、絶対、外さない」
アレクは杖を地に突き、呼び子を見た。
「なぁ」
〈なぁ〉
呼び子も言う。
〈ぼく、ずっと――鳴らしたかった〉
〈誰かが応えるの、聞きたかった〉
〈だから、嬉しい〉
〈だから……ごめん〉
「謝るな」
アレクは、笑った。
「鳴らせ。全力で。――俺たちも全力で応える」
呼び子が、目を細めた。
無音の灯が、落ちた。
衝突。
レンの鈴の光と、呼び子の無音の光が、港の真ん中で重なった。光は光と混ざらないはずだ。だが、混ざった。重なった部分は白でも黒でもない、淡い薄青の縞になって、波のように揺れた。
「――っ、重っ……!」
レンの膝が折れそうになる。アレクが背から抱き留め、肩で重さを受ける。カズマが堤防を叩いて励まし、ユウタが結界で両者の“干渉”だけを外へ逃がす道を作る。ミユがタグで揺れの節を可視化し、レンに“押しやすい場所”を示す。
少しずつ、押し返す。
呼び子も、押す。
無音の光の向こうで、子どもは泣いていた。
笑いながら、泣いていた。
(わかる)
アレクは胸が裂けそうになる。
(わかる。鳴らしたかったんだろ。応えてほしかったんだろ。……なら、応える)
「レン!」
「うん!」
鈴がもう一段、深く鳴った。鳴らないまま、鳴った。
光の厚みが増し、無音の灯を押し返す。呼び子の肩が微かに震えた。ヴァイスが剣を半歩、前へ出した。その刃は、しかし下がったままだ。護衛の位置。忠実。だが――ほんの一滴だけ、迷いが混じっている。
「ヴァイス」
アレクは目を逸らさず、呼んだ。
「お前、今、何を守ってる?」
「任務」
「違う。今だけは違う。――あの子供だろ」
「……」
ヴァイスの顎が、ほんの僅かに動いた。即答はしなかった。
ユウタが結界の張力を上げながらぼそりと言う。
「観測:ヴァイスの剣圧、低下。呼吸――二拍に一回、浅くなる。主対象の無音灯に同調している恐れ」
「だったら――巻き込んでやるよ」
アレクは杖を、港の“古い拍”に合わせて打ち込んだ。鐘石が内側で響き、港の梁が歌う。古い歌。誰も知らないはずの歌。けれど、体は覚えている。街全体が生まれるずっと前から、ここにあった歌。
呼び子の目が見開かれた。
〈それ――〉
「お前が鳴らしたかった歌だ」
〈――うん〉
呼び子の無音灯が、一瞬だけ柔らかくなった。押し合いではなく、重なり合いになる。重なった薄青の縞が、広がる。
「いまだ!」
ミユが叫ぶ。
「薄青の帯――“第三の道”! そこを通して、港底へ“歌”を流せる!」
「任せろ!」
ユウタが結界器を切り替え、薄青帯の真下に“響井戸”を開けた。海底へ直接、音を下ろすための擬似的な井戸。
カズマが木刀で拍を叩き、レンが鈴で厚みを足し、アレクが杖で“芯”を落とす。
灯が――落ちた。
港の底まで、ちゃんと落ちた。
穴は開かない。休符は埋まり、“当たり前”が満たされる。
〈……きれい〉
呼び子が呟いた。
〈やっぱり、きみたちは、きれいだ〉
〈だから――〉
その声を、別の声が遮った。
〈そこまでだ〉
呪具商人。
港じゅうのスピーカーが、今度は“低い大人の声”を鳴らした。
〈呼び子。戻れ〉
〈主祭の“本体”はこれからだ〉
呼び子の肩が跳ねた。ヴァイスが即座に一歩前へ出て、子どもの前に立つ。剣が持ち上がる。任務へ戻る動き。
アレクは踏み出し――かけて、止まった。レンの指が、彼の背中をつまんだのだ。半拍戻せ、の合図。
「追わない」
レンが小さく言う。
「今そこで“勝つ”より、もっと大事な勝ちがある」
「……わかってる」
呼び子は一度だけこちらを見た。口の形で、言った。
――ありがと。
ヴァイスの肩がそれを遮り、二人の影は仮面の割れ目へと溶けていく。
〈主祭は一日限り〉
呪具商人の声が、港の骨へ染みるように響く。
〈“灯”は鳴った。合図は整った。――次は、“誰の歌で街を満たすか”だ〉
〈夜、頂で会おう〉
仮面が崩れ、板の舞台が海へ沈み、霧の綿が風に解けた。港は、嘘みたいに静かになった。鈴の光だけが、まだ薄く波打っている。
しばらく、誰も喋らなかった。
最初に息を吐いたのは、カズマだった。
「……胃が減った」
緊張の糸が、ぷつ、と切れ、全員がふっと笑う。ユウタが即座に頷いた。「糖と塩分の補給が必要だ」
ミユが慌てて鞄を探る。「おにぎり、ある。さっき作ってきたやつ」
「最高!」
アレクは、鈴を抱え込んで座り込んだレンの隣に腰を下ろし、彼女の肩に頭をコツンと当てた。
「レン、ありがとう」
「こちらこそ……助けてくれて、ありがと」
二人は笑い合い、すぐに真顔へ戻る。まだ終わっていない。全然終わっていない。
鏡が、工房から小さく鳴った。ジンの声だ。
「よくやった。港の呼吸は安定、街の拍も戻り始めている。――だが、これで終わりではない」
「わかってる」
アレクが立ち上がる。
「主祭は“夜、頂”」
ユウタが復唱する。
「場所は――おそらく、旧区の山上神社。街の古い拍の頂点」
ミユが地図を広げ、タグで補助線を引いていく。「灯台、駅前、港。全部、そこへ向かって線が収束してる。頂の鏡池に“祭壇”が築かれてる可能性が高い」
「行こう」レンが言う。「灯を、鳴らし切る」
アレクは海を振り返った。
霧はもう薄い。ただの海。
けれど、耳にはまだ、あの薄青の縞の揺れが残っている。呼び子の無音の声が、脳の奥のどこかで、まだ微かに鳴っていた。
(鳴らそう)
(最後まで、こっちの歌で)
アレクは杖を肩に担ぎ、港を背にした。
街は、夕闇へ溶けていく。
主祭は――これからだ。
“馬鹿拍”とは、本来の意味として一般的に使われる言葉ではなく、この小説用に作った造語です。
カズマというキャラクターは頭で理屈をこねるよりも、勢いと根性で場を打開するタイプですよね。
彼がリズムや式に従わず、とにかく大きく単純に「ドンッ!」と音をぶつける――
その素朴で直球の打点を表現するために、「馬鹿みたいに単純な拍」という意味で「馬鹿拍」と呼びました。




