第68話『まねごと』
鐘石が鳴った――鳴らないはずの腹が、確かに一拍だけ応じた。港の空気が微かに震え、霧の粒がいっせいに身じろぎする。その揺らぎの奥から、スピーカーが、もう一度だけ咳払いのようなノイズを吐いた。
〈――よく、来たね〉
今度ははっきりと聞こえた。幼く、乾いていて、それでいて耳の奥へ真っ直ぐ落ちてくる声。アレクは思わず笑って、口角だけで返す。
「お前、誰だ」
〈だれだと、おもう〉
霧の中の笑いは、悪意でも嘲りでもない。ただ、からかうような調子。それが逆にアレクの心臓を指先で触る。息が、半拍だけ早くなる。肩の後ろでレンの指が小さく押した。拍を戻せ、の合図。
「……“俺”のまねごと、って線もあるな」
〈うん。まねごと。――でも、まねは、ほんものに、さわるよ〉
霧がふっと薄くなり、灯台の白が一段、明るさを増した。レンズの向こう、影がわずかに首を傾げる。指揮棒の握りが、ほんの少しだけ、深くなる。その仕草――筋肉の連動、肘の角度、手首の返し――が、アレクの体は覚えているものだった。
「やめろ」
アレクは低く言った。
「それ以上、俺を使うな」
〈ぼくは、きみをつかってないよ〉
〈きみが、ぼくを、つかってる〉
「屁理屈だな」
カズマが堤防の上で舌打ちした。
「声の主、姿見せな」
〈みせないよ。ここは――まだ前奏だから〉
その言葉と同時に、堤防の下で水音が跳ねた。黒い鱗のようなものが波間に幾枚も浮上し、重なり合って円を作る。霧の綿がそこへ落ち、たちまち漆黒の輪が海面に口を開けた。波に乗って滑るのではない。輪そのものがこちらへ寄ってくる。円環の内側は、水であり、穴だった。
「結界、底から逆流!」
ユウタが叫ぶ。携行器の網目が一気に膨らみ、堤防の下へ張り付く。「“穴”に触るな!」
「ミユ!」アレクが呼ぶより早く、ミユはタグ〈灯標〉〈波切〉を二枚束ね、輪の縁へ投じた。タグは紙切れでしかないのに、落ちる前に柔らかく膨らみ、遠浅の海のように輪の縁の起伏を“見せて”くれる。穴は波ではなかった。音の無い部分――休符の綿を圧縮して作った、無音の渦。
「鈴、貸して!」レンが片膝をついたまま、鈴の腹を海へ向ける。鳴らないまま、音のある光がふわ、と落ちた。光は水面に触れず、輪の表面だけを撫でて滑る。輪が嫌がるように縮む。半径がひと呼吸分だけ小さくなる。
〈きれいだね〉
スピーカーの声が、無邪気に言った。
〈きみたちは、ほんとうに、きれいだ。だから――ぼくは、ほんとうに、うれしい〉
「嬉しいのは結構だけどよ!」カズマが木刀の峰で堤防の杭を叩き、拍を戻す。
「その“輪っか”、しまって帰れ!」
〈帰らないよ〉
〈きょうは、拍を――ひとつ、借りにきただけ〉
輪が揺れ、堤防の縁に黒い舌のようなものを伸ばしてくる。舌は水でも霧でもない。乾いていて、それでいて濡れていた。触れれば、奪われる。
「アレク」ジンが短く呼ぶ。「“鳴らせ”」
「――っし!」
アレクは杖を構え、石突きで堤防を叩く……直前、ほんの一瞬だけ目を閉じた。見ない。耳で行く。足裏で行く。骨で行く。堤防に通っている鋼材の節が、呼吸に合わせて膨らんだり縮んだりする。その節の上に足を置き、石突きの先で“息の合う点”を探る。
コン。
音は小さかった。だが、堤防全体がそれに応じて、ごく微かに“安堵”した。港が安堵する拍。輪の舌がピリ、と痙攣する。そこへ、レンの鈴の光が落ちる。ミユのタグが補助線を描き、ユウタの結界が輪の縁に“指をかける”ための網目を作る。カズマの木刀が、子どもの頃の遊びのリズムで杭を叩き続ける。
輪が縮んだ。ひと回り、ふた回り。海へ引き戻される。
――その時、灯台の上の影が、初めて指揮棒を横に掃いた。
世界が、微かに滑った。
堤防の石が、半枚ぶんずれたように感じられる。ユウタの網目の節が一箇所だけ“ほどけ”、ミユのタグが指先から滑り落ちそうになる。レンの鈴の腹の光が、一瞬だけ“音を失いかける”。カズマの叩く拍が、脳の中で半拍遅れる。アレクの足裏が、空を踏む。
「――ッ!」
レンの手がアレクの肩甲骨を押す。戻れ。拍へ。
アレクは歯を食いしばり、堤防をもう一度、今度は深く叩いた。骨ごと落ちるように。
コン。
港が息を吸い、吐く。輪の舌がピシャリと引っ込み、海の上に黒い唇が残る。
〈……すごいな〉
少年の声が、感嘆を混ぜた。嘘のない感嘆。
〈ぼく、まけるな、これじゃ〉
〈だから――〉
灯台の影が指揮棒を上げる。
霧の中の別の場所で、人影がひとつ、起き上がる気配がした。ヴァイスか、と反射的に思う。だが、刃の気配はない。あるのは――ざわり、と乾いた草を払いのけるような気配。何かが這い出す。
「わるいが、時間ぎれだ」
ジンが立ち上がった。
「撤収」
「まだ――」
「撤収だ、アレク」
声の鋭さに、アレクは舌打ちを飲み込んだ。ミユは素早くタグを束ね、ユウタは結界の楔を逆流しないように畳み、カズマは杭を最後に一度だけ叩いた。レンは鈴の腹の光をそっと封じる。港が“当たり前”を取り戻す。
霧は、拍に従って深呼吸を続ける。輪は縮んだまま動かず、灯台の影はそれ以上棒を振らなかった。
〈――また来てね〉
少年の声だけが、最後に落ちた。
◇
水鏡屋に戻ると、時計の針は夜の九時を指していた。工房の蛍光灯がやけに白く、机の上の図面のインクが濃く見える。全員、口数が少ない。息がまだ戦いの拍で揃っていて、崩したら崩れたままになる気がした。
沈黙を破ったのはミユだった。
「記録、まとめます」
彼女の声は静かだった。がさ、とノートの頁がめくられ、鉛筆が走る。
〈港・第二接触〉
・無音の輪:休符圧縮体。海面に円環として出現。
・対処:鐘石+鈴光(鳴らざる音)、杭拍(幼時リズム)、結界網(底面保持)、タグ〈灯標〉〈波切〉(補助線・刃)。
・影:灯台上の“指揮棒”。一度のみ横掃し→世界に半拍の滑り。要注意。
・声:少年。嘲笑・敵意ではなく、観察者の調子。「前奏」「拍を借りる」。
・撤退:合図は此方。呼吸を戻して終了。
「ありがとう」
レンが小さく言う。彼女は鈴の腹から薄い錬金ガラスを一枚外し、光に透かして筋道を確認した。そこには、微かな“ひっかき傷”があった。灯台上の横掃し――世界の滑り――が、鈴の内側にも痕を残したのだ。
「修復できる?」
アレクが覗き込む。
「できる。……でも、たぶん、同じことを三回やられたら、割れる」
「割れたら?」
「鳴らない音が、鳴らないまま消える。――だから、割らせない」
言い切る声が頼もしくて、アレクはふっと息を吐いた。
「なぁ、今の声」
カズマが木刀を横に置き、天井を見上げる。
「あれ、やっぱ“お前の声”に似てたぞ」
「似てる」
ユウタが認める。
「音域、テンポ、息の置き方。完全一致ではないが、時折、奇妙に重なる」
「本体か、影か」ジンが腕を組む。
「どちらにせよ、“声”をこちらへ落としてきたということは、向こうも『合図』を本格的に取りに来た。……明日が“主祭”だ」
工房の空気がすっと冷えた。
「まだ、祭りはやらない」
ミユが自分に言い聞かせるように呟く。
「私たちが鳴らすまで、始めない」
「そうだ」ジンが頷く。「“灯を鳴らす”。それが合図になる」
「で、明日は具体的に何を?」
アレクが身を乗り出す。
「二手に分かれる」ユウタが即答した。
「港:灯台下の旧ホーン室にて“灯鳴”の中核を据える。街:駅前~大通りに散った“仮面札”の残りを除去・反転。……“灯”は一本ではない。港で鳴らしても、街で“偽の太鼓”が鳴れば、上書きされる」
「港は俺とレンだな」
アレクは迷いなく言った。
「鈴、鳴らせるの、レンだけだから」
「安全な方にしとけ」
ジンが静かに言う。
「灯台下は罠の巣だ。視線、滑り、声。おそらくヴァイスも出る。……アレク、レン、ミユ。三人で港へ行け。ユウタとカズマは街。俺は――」
「いいの?」
レンが顔を上げる。
「お兄ちゃんは?」
「俺は両方見る。港の拍と街の拍を繫ぐ“通奏低音”だ。鏡を通して常時連絡を入れる。……何かあれば、呼べ。必ず行く」
アレクはジンと目を合わせ、短く頷いた。殴り合った夜、握手をしなかった朝。言葉にしなかった約束が、そこにある。
「じゃ、決まりだな」
カズマが立ち上がる。
「ユウタ、準備。ミユ、明日の弁当頼んだ!」
「君は戦場に弁当を持ち込む天才だな」
ユウタが半眼で返し、しかし頷いた。
「炭水化物、糖、塩分。必須だ」
「よし、肉だな!」
「肉は冷えると硬くなるから、根菜の煮物とおにぎりだと思う」
ミユが微笑みながらメモに書き加える。
「唐揚げは少し」
「すごいよミユちゃん。戦の弁当詳しい」
レンが目を丸くし、すぐ真顔に戻って鈴の内側へ細い筆で金の線を一本足した。
「……これで大丈夫」
鏡の淡金が、ぼうっとひときわ強く光った。〈承〉。
街は、まだ持ちこたえている。
港は、呼吸を合わせようとしている。
◇
夜半。
アレクは一人、工房の奥の小部屋に座っていた。膝を抱えて、杖を横に置き、天井の木目をぼんやり見ている。眠い。が、眠れない。さっきの声が、耳の奥で反芻される。
〈――よく、来たね〉
昔。あの世界。仲間。焚き火。夜明け前の寒さ。刃の冷たさ。血の温度。互いの呼吸の速さ。笑い声。嘘。祈り。
それらが、霧の向こうの「声」に、少しずつ吸い寄せられていく感覚。
(持ってかれそうになってる)
(でも、俺は――)
ふいに、襖がわずかに開いた。
「起きてる?」
レンだった。髪をゆるく束ね直して、裸足で畳に上がる。鈴は持っていない。彼女自身の小さな拍だけが、部屋に入ってきた。
「……眠れない?」
「まぁな」
アレクは苦笑して、膝に顎を乗せる。
「そっちは」
「眠れない」
レンも苦笑して、アレクの隣に座った。肩と肩が、子どもの骨同士で軽く触れる。
「怖い?」
「怖ぇよ」
「私も」
短い沈黙が、ふたりの間に座った。
「でもね」
レンは言葉を選ぶようにゆっくり続けた。
「怖いっていう気持ちがあるから、“当たり前”を守れる気がする。怖くなかったら、平気で壊しちゃうと思うし」
「……そうかもな」
アレクは小さく笑う。
「俺、昔は怖くなかった。怖がる暇もなかった。だから、たぶん、壊した」
「今は?」
「今は……怖い。だから、壊さねぇで、守る」
レンは満足そうに目を細め、アレクの肩に頭をちょこんと預けた。
「じゃあ、明日も行けるね」
「あぁ」
「一緒に鳴らそう。“灯”」
「鳴らす」
ふたりは、ようやく目を閉じた。ふたりの呼吸は自然にそろい、拍は静かに落ち着いていく。襖の外で、誰かが立ち止まっていた。ミユだ。彼女はそっと襖から離れ、廊下の暗がりで小さく両手を合わせた。祈り、ではない。
ただ、「拍のお願い」。明日、みんなの拍が揃いますように。
◇
明け方。
港の霧は、昨日よりも薄かった。灯台の上には誰もいない。が、指揮棒の気配だけは、相変わらずそこにいるかのように感じられた。
「行くよ」
レンが鈴を抱えて言う。
「了解」
アレクは杖を握り直す。ミユはタグ束を胸に当て、目を閉じた。ユウタとカズマは街へ走っていった。ジンは鏡の前で指を鳴らし、工房と港と街を繫ぐ見えない弦を、一本一本、チューニングする。
堤防の“三番杭”に、レンが膝をつく。鈴の腹は、もう「灯」の色をしていた。透明ではなく、白でもなく、淡く黄緑がかった音の色。
アレクは堤防を、コン、と叩く。
ミユが〈灯標〉を投げる。
ユウタの結界が遠くで網目を張る。カズマの木刀の拍が街のどこかで響く。ジンが鏡の前で小さく頷く。
「――鳴らすよ」
レンが目を開け、鈴を、鳴らさずに鳴らした。
工房の梁が応え、駅前の空気が揺れ、港の水面が細かく震えた。灯台のレンズの奥で、何かが一瞬だけ“驚く”。指揮棒が、わずかに遅れる。
光が鳴った。
鳴った光はまっすぐに伸びず、港の拍に合わせて波打った。波は輪を作る。輪は鐘石の腹に重なり、かつて海に合図を送った“古い歌”をもう一度だけ呼び起こす。
〈――〉
スピーカーは鳴らなかった。
代わりに、灯台の上で“誰か”が初めて明確に息を呑んだ。
その息は、アレクの昔の仲間が戦の前に必ずついた深い息――それと同じだった。
アレクは笑った。
「起きろよ。――祭りは、こっちが始める」
霧が大きく吸い、吐いた。
波止場の縄が一斉にきしみ、カモメが遅れて二羽、甲高く鳴く。フォグホーンが正しい音程で短く鳴った。
それは、確かに“合図”だった。
同時刻、街の大通り。
カズマの木刀が、仮面札の貼られた電柱を峰でなでるように叩く。ユウタの結界器が、札から噴き出す微細な無音を網へ吸い上げ、処理する。仮面の印は、白い灰になって風へ溶けた。
「港、鳴った」ユウタが小さく言った。
「こっちも“拍”だ」カズマが笑う。「行くぞ、最後まで!」
水鏡屋の工房で、ジンが鏡に向かって、極小の拍をひとつ落とす。
――総譜:更新。
ページはめくられ、金の線が新しい段へ伸びた。
今度の譜面は、音符が増えていた。
休符はまだある。だが、その間に、確かな音が書かれている。
灯が鳴り、街が応じ、港が呼吸し、人が走る。
そして、霧の奥で、誰かが、初めてほんの少しだけ――困ったように笑った。




