第66話『指揮台の奪還』
夜は軽やかな足取りで街を駆け上がり、屋根から屋根へと移りながら、放送塔の尖った影へ絡みついていった。白く光る月は、高く、冷たい。塔の先端に取りつけられた円形のアンテナ群は、風を受けてごう、と低く鳴き、まるで巨大な楽器の胴のように夜気を震わせている。
水鏡屋の裏口から出た六人は、言葉少なに歩幅を合わせた。アレクは杖を、レンは鈴を、ミユは綴じ紐できっちり束ねたタグの束を抱え、カズマは木刀を肩に、ユウタは小型の結界器を胸元のポケットに忍ばせている。ジンは最後尾で全員の背中を見守りながら、視線だけで周囲の拍を点検していた。
街は鳴っていた。総譜に編み込まれた日常の音列――駅の終電が通り過ぎるときの短いベル、遅くまで開いているラーメン屋の鍋が煮立つ音、自転車のチェーンの規則的な回転、遠い港のサイレン。どれもが、今夜はとりわけ頼もしく聞こえた。休符はある。だが、もう以前のように勝手気ままには広がらない。こちらが耳を澄ませば、街は拍を返してくれる。
「――確認。塔周辺、静かすぎる」ユウタが呟く。吐息も白くならない冷えた夜。
「罠ってやつだな」カズマが笑ってみせる。「いいぜ、正面から抜けてやる」
「正面は最後」ジンが短く遮った。「ここは“合図”が生まれる場所だ。音を乱せば、こちらの総譜も歪む。迂回する。裏配電から入る」
塔の根元は、公園のように整えられた芝と遊歩道が取り巻いていた。夜間は立ち入り禁止だが、鍵そのものが“音”になっている。ジンが地面に指を当て、低く囁くように塔に「許可」を求めると、フェンスのロックが小さく拍を刻んで緩み、扉がひとりでに開いた。
「よくもまあ毎回そんなことができるよな」アレクが感心半分、呆れ半分で言うと、ジンは肩をすくめた。
「相手が“街”なら、お願いの仕方次第だ」
配電室は塔の基礎の北側に半ば埋め込まれていた。鈍い金属の扉を開けると、冷えた油と鉄の匂い。床は二段ほど下がり、壁の盤面には色とりどりの計器が並ぶ。奥へ続くメンテナンス用の通路は暗かったが、ただ暗いだけではない――アレクは足を止めた。
(……音が、いない)
暗闇が音を吸っているのではない。暗闇そのものが、音のための器官を持っていない感じ。無響室の中に喉を突っ込まれたような居心地の悪さ。総譜に乗っている街の音が、ここだけ踏み外している。
レンが無意識に鈴を握りしめる。掌に伝わる真鍮の冷たさが、心を落ち着かせた。
「大丈夫」自分に言い聞かせるように、レンは小さく呟いた。「怖くても、拍は自分で刻める」
「隊列変更。俺とユウタが先行。アレクはレンの半歩前。ミユはタグの準備。カズマは後衛で“返し”。ジンさんは……いつも通り、全部見てる役」
「勝手に役をふるな」ジンは苦笑したが、配置に異論はなかった。
通路の床は金属のグレーチング。足を置くたびに薄い音が下へ抜ける。壁のケーブルダクトは巨大な腱のように脈打ち、塔の上部へと拍を送っている……はずだが、拍は途中で固着している。ねっとりと、幾層にも重ねられた“休符のベタ塗り”。塗布したのは、あの商人の手だ。
曲がり角を二つ越えたところで、ユウタが手を上げた。足を止める合図。先の闇に、チリ、と乾いた火花が浮いては消える。オシロスコープの縦線のような、孤立した光。
(札の“呼吸”だ)ミユは直感で理解した。貼り付けられた札が、ほんの瞬間だけ「吸って」「吐いて」いる。そこに拍をぶつければ爆ぜる。何もせずに通り過ぎれば、背中で起動する。そんないやらしい呼吸。
「わかる?」レンが肩越しに覗く。
ミユは頷き、タグ束から一枚、迷いなく取り出した。〈無歌〉。音そのものを否定するのではなく、「音が通る通路を別に作る」タグ。バイパス。
「レンさん、鈴をいちど“鳴らさないで振って”」
レンは言われた通りに鈴を振る。鳴らない鈴――だが、その無音の揺れが通路の壁面にささやかな波紋をつくる。ミユがタグをその波紋の上に重ね、軽く撫でた。
札の火花が二度、三度、リズムを探すように点滅――そして消えた。呼吸が別の道へ逃げていく。
ユウタが短く親指を立て、先へ進む。カズマが後ろで木刀を軽く地に当て、返しの拍をそっと残していく。何かが背面から追ってきたとき、その拍に足を取らせるために。
階段。狭い踊り場。さらに上。薄暗いガラス窓から、塔の骨組みの間に月が切れるのが見えた。ここからは屋外フロアも近い。
「止まれ」ジンの声が、空気を刺した。
次の踊り場に、影が立っていた。仮面。白と黒の境目に亀裂。目は空洞だが、そこにこちらを覗く“誰か”の気配がある。
「歓迎しよう、ちいさな奏者たち」
仮面の口は動かない。だが、声は塔全体から降ってきた。
「黒刃の譜は終曲した。なら、次は“指揮”の譜を学ぶ番だ」
「ごたくはいいからオジサンどいてくれない?」カズマが間髪入れずに詰める。木刀の切っ先が仮面の肩口へ――届く前に、踊り場の空気が一段、沈んだ。
(やられた!)
アレクが木刀と仮面の間に杖を差し込み、拍を横へ逃した。カズマが空振りの体勢で前に落ちる。落ちたところで床が一瞬だけ“鳴らず”、彼の足首がぬめっと掬われる。
「っぶね!」
後衛の返し拍が作動し、カズマの体を逆側へ跳ね返す。カズマはくるりと回って木刀を床に叩き、なんとか体勢を保った。
「この塔は私の手で“沈黙”へ転調してある」声が笑う。「拍を打てば打つほど、君たちの足場は薄くなるよ」
「それ、昨日までのやり方なら、な」アレクは歯を見せて笑った。「今夜は街の拍が背中にいる。お前の塗った休符は、上塗りし返せる」
仮面は片手を持ち上げた。踊り場の壁が剥がれ、内側から黒い紙片が幾十も覗いた。札。多重。紙片の群れが、一斉にこちらへと吐息を吐く。
「――ミユ!」
「はい!」
ミユのタグ束が空中で扇のようにひらく。〈移調〉〈返歌〉〈副主題〉〈逆位〉。目に見えない「別の譜面」を階段室に描き、札の吐息を横へ、上へ、後ろへ、すべて別の通路へ逃がす。
レンが鈴を振る。ほんのわずか、鳴らない音が鳴り、ジンの長い呼気がそれを塔全体へ押し広げる。塔は少しだけうろたえ、札の吐息が不揃いになった。
「今!」ユウタが階段の欄干を越え、仮面の横の隙間へするりと入り込む。カズマが低く滑り込み、アレクが正面から拍を叩く。
仮面は下がらない。下がる必要がないと、知っている動きだ。足場は彼の側にある。だが、足場が“彼だけのもの”ではなくなっていることを、彼――呪具商人は計算から外している。
「レン!」
「うん!」
鈴を一度、鳴らす。短く、低く。街じゅうに散っている当たり前の音が、一瞬だけこの踊り場へ集まる。揺れ、震え、床板のたわみの癖を“街の標準”に戻す。
ユウタの足の置き方が変わる。彼は床板の弱い部分ではなく、梁の直上だけを踏んで跳ね、仮面の脇を抜ける。
カズマの木刀が仮面の手首を叩き、紙片束がぱらぱらと落ちる。アレクの杖が床を一打。拍は塔の心臓に届き、塔の意識が一瞬だけこちらへ向く。
「――通る」
ジンが短く言い、全員が仮面を抜いた。仮面は追ってこない。追う必要がない、“指揮者”だからだ。次の踊り場、さらに上、さらに上。塔の芯へ。
「なぁ、レン!」走りながらアレクが叫ぶ。「お前の鈴の“鳴らない音”、だいぶ効くな!」
「鳴らしてないよ」息の切れた声でレンが笑った。「街に鳴ってもらってるだけ」
「同じことだ!」
笑い合う余裕は一瞬。次の階で、彼らは真正面から“指揮台”に出た。
放送ブース。全面ガラス張りの小さな部屋。内部には古いミキサー卓と新しいデジタルの配信機器が同居し、天井のスピーカーの丸い穴が蜂の巣のように並んでいる。
椅子は倒れていた。床には紙の資料とケーブルが散らばり、壁の時計は“00:00”で止まったまま。
ミキサー卓の中央――マスターフェーダーの位置に、黒い仮面が水平に置かれている。白と黒の境目に走る深い亀裂は、まるで笑い皺のようだった。
「置き土産」ユウタが吐き捨てる。「触れれば全系統起動。踏めば全系統起動。視線でさえ、起動条件になり得る」
「目を閉じる?」カズマが半分冗談で言う。
「誰かが指揮棒を振れば、起動だ」ジンがブースのガラス越しに機材の背面を見やり、配線の流れを頭の中で組み直す。「本当の危険はここじゃない。――送信室だ」
送信室はさらに上、塔の中枢。アンテナへ信号を送り出す心臓部。そこが掌握されれば、街中に「合図」が流れる。札は街じゅうに仕掛けられている。合図ひとつで、全部が一斉に目を開ける。
「二手に分かれる」ジンが即断する。「アレク、レン、ミユは送信室。私とカズマ、ユウタはブースを封じ、仮面のトリガーを無力化する」
「おい、俺も送信室の方が燃えるんだけど」カズマが抗議しかけたが、ユウタに肩を掴まれて黙った。「ここが崩れたら全部終わりだろ。派手なのは上でやれ」
「任せて」レンが鈴を握り直し、アレクに目で合図する。
「行こう!」アレクは小さな胸を張り、踵を返した。ミユがタグ束を抱え、二人の背を追う。
送信室へ続く最後の階段は、今夜いちばん音が少なかった。厚いコンクリートに包まれ、アンテナへ続く太いケーブルが床下を這う。息を吸うと、鉄と塗料の匂いの向こうに、紙の焦げるような匂いがほんのわずか鼻を刺した。
「あれは――札の焼け跡」ミユが顔をしかめる。
「先に誰かが通ってる」レンが言い、足を速める。
(ヴァイスじゃない。あれは終曲した。なら、いるのは――)
送信室の扉は重い。アレクは杖の石突きで扉の継ぎ目をコン、と叩いた。拍が返ってくる。中は――“息を潜めている”。
「開ける」レンが言い、鈴を一度、鳴らさずに振る。扉の蝶番が少しだけ柔らかくなり、アレクが押すと静かに開いた。
室内は暗い。壁一面のラックに点滅するランプは、すべて“0:0:0”と同じテンポで瞬いている。中心の送信機のマスターキーが、黒い何かで覆われていた。布ではない。紙でもない。――仮面の裏側のような、黒い膜。
「来たね」
声。背後。
三人が反射的に振り返ると、扉はいつの間にか閉じ、そこに白黒の仮面が倚りかかっていた。肩から下は人の姿。黒いローブの裾は塔の床を掃かず、浮いている。
呪具商人は笑った。顔は見えないが、声だけで分かる笑いだ。
「黒刃の終曲、お見事。――だから、次は君たちだ」
「次は、って何のレッスンだよ」アレクが杖を構える。
「“指揮”だよ、小さな勇者」仮面の目の空洞が、わずかに細くなる。「君が振れば、街はついてくる。振らなければ、街は迷う。創造主が鳴らせば、街は響く。鳴らさなければ、街は黙る。――試してみよう」
呪具商人は右手をわずかに上げた。送信機のマスターの黒い膜が、ひとりでに震え、一拍分だけ持ち上がる。
街のどこかで、風鈴の音が止まった。別のどこかで、信号の点滅が一瞬だけ反転した。さらに別のどこかで、寝ている赤ん坊が訳もなく泣き始めた。
「合図は、すでに街の中にある」
囁くような声。
「必要なのは、“指揮台”からのほんの一押し――拍をひとつ、転ばせるだけでいい」
「させるか」アレクが一歩踏み込み、杖の石突きで床を打つ。送信室の床は拍を返す。塔全体が一瞬こちらに耳を傾ける。
レンが鈴を握り、ミユがタグを広げる。
「レン」アレクは短く言った。「鳴らすな」
レンは頷いた。
「ミユ、書け」
「うん」
呪具商人は楽しそうだった。「いいね。選んだ。――ならば、こちらも“奏者”を呼ぼう」
黒い膜が送信機から剥がれ、室内の空気に漂った。膜は三つに裂けて、三体の“影”になった。狼、鳥、蛇――どれもヴァイスの影のように鋭くはないが、送信室という狭い“器”には過剰なほどに濃い。
「アレク!」ミユが叫ぶより早く、アレクは狼の影に突っ込んでいた。杖の石突きで鼻先を小突き、返す刀で床を響かせて影の足元を“濡らす”。影は濡れに弱い。休符で乾いたものほど、街の呼吸には脆い。
鳥の影が上から襲う。レンは鈴を鳴らさないまま、鈴の空洞を上に向ける。街のチャイムの余韻がそこに落ち、天井のスピーカーの穴を伝って鳥の羽根を“重く”する。鳥は落ち、アレクの杖が脇腹を叩く。
蛇の影は床を這い、送信機の背面――マスターの端子へ舌を伸ばす。
「行かせない!」ミユのタグが走る。〈副主題〉。蛇の動線に新しい“メロディ”を引き、蛇の動きの意味を別の方向へずらす。蛇は自分の尾を追い、輪になって回り始めた。
呪具商人は仮面の奥で小さくため息をついた。
「やはり、君たちは良い。――では、もう少しだけ難しくしよう」
仮面の額の亀裂が――開いた。
亀裂は口になり、口は笛を咥える。笛は見えない。だが、音が鳴った。
それは音ではなかった。音の“直前”。拍が落ちる“半拍前”。呼吸が喉でぐっと止まる、あの瞬間だけが拡大され、送信室に満ちた。
「――っ!」
アレクの足が半歩、空を踏む。レンの鈴が掌に貼り付く。ミユのタグの筆先が空白を撫でる。
何もかもが「まだ鳴っていない」方へ引き戻される。
(これが“指揮”……!)レンは歯を食いしばった。鳴らない音の帝王。鳴る直前の支配者。
「わかったかい?」仮面が愉快そうに言う。「君たちの街は、君たちの音で保たれている。――なら、私の沈黙でも保てるということだ」
「保たねぇよ」アレクが唸った。「それは、ただの“止め”だ」
「止めは、秩序だよ」
「違う。秩序は歩く。止まってる秩序なんて、腐るだけだ」
杖の石突きが床を叩く。カツン。半拍前の膜がわずかに裂ける。
レンがその裂け目に“鳴らない音”を通す。ミユが〈移調〉で裂け目を別の高さへ引き延ばす。
仮面の笛が、ほんの少しだけ音を外した。
「――ジン、聞こえるか」
インカムの細い線越しに、ユウタの声が落ちてきた。「ブース側、仮面のトリガーを“固定”。いつでも送信を切れる」
「送信は切るな」ジンが返す。「切れば、街の拍がここで“途切れる”。お前たちはただ、そこを“鳴らないまま鳴らせ”」
「難易度、常識外れだな」
「うちの常識だ」
アレクは笑った。
「聞いたろ。うちの常識だ!」
彼は半拍前の膜に、あえて自分の呼吸を合わせた。喉の奥で音を止め、その止めた“止め”に自分の拍を打ち込む。
――矛盾の拍。
鈴が鳴らないままに鳴り、タグが書かないままに記し、床が震えないままに震える。
呪具商人の笛が、初めてはっきりと音を外す。半拍前の膜が、二つに裂けた。
「行くぞ!」
アレクは狼の影を突き、鳥の影を蹴り、蛇の影を踏み割った。三つの影は煙のように散り、送信機の黒い膜は薄くなる。
「レン、ミユ――“そこ”!」
レンは鈴を送信機のマスターに当て、ミユは〈返歌〉でその“当たり”を塔全体に写す。街中の拍が、送信室に“賛成”の手を挙げる。
「――今だ、ジン!」
「受けた」
同じ瞬間、ブースの仮面の上に載っていたフェーダーが“動かないまま”降りた。落ちた拍は塔の芯でかすかに鳴り、街へ出る。
夜の街で、風鈴が鳴った。信号が正しい順に点滅した。赤ん坊は泣き止み、犬は尾を振った。
合図は、こちら側だった。
呪具商人は、しばし沈黙した。
「――やはり、良い。驚くほど、良い」
仮面が少しだけ傾ぐ。
「だが、忘れないでほしい。黒刃の譜が終曲したからといって、舞台が終わるわけではない。指揮台はひとつではない。街のどこにでも“合図”はあり、どこにでも“休符”はある。……そして、君の“元の身体”は、今も別の舞台で指揮棒を握っている」
アレクの背を、冷たい風が撫でた。
(――元の身体)
呪具商人の声は、鈴の背に針で小さく字を刻むように、レンの掌へも食い込んだ。
「それは、お前の口から言っていい台詞じゃねぇ」アレクは低く噛んだ。「元の俺は、俺が取り戻す。指揮棒を握るのも、下ろすのも、俺だ」
「そうであってほしい」仮面がわずかに頷く。「では、今日はここまでだ。――幕間は終わり。次は“全楽章”。小さな勇者、創造主、記譜者、その仲間たち。私の譜面台の前で、もう一度会おう」
仮面は壁から剥がれ、空気に溶けた。送信室のランプは“0:0:0”の点滅をやめ、普段通りの緑と橙に戻る。床に残った黒い煤は、指で触れると砂のように崩れた。
「……勝った、のかな」ミユが気の抜けた声で言った。
「“今は”勝った」レンが笑って答える。肩が少し、震えていた。「ありがとう、二人とも」
アレクは杖を肩に担ぎ、天井を見上げる。アンテナの向こうに月。
「まだ終わってねぇ。けど――拍は、こっちにある」
◇
ブースに戻ると、カズマが仮面の残骸を足でつついていた。
「おっそ、英雄様。もう片づけ終わってるぜ?」
「上も終わった」アレクが胸を張ると、カズマはにやりと笑って木刀の柄で彼の額をこついた。「頼りにしてるぜ、リーダー」
ユウタは機材の電源を一つずつ落とし直し、フェイルセーフのログを確認していた。「送信系、正常復帰。合図は我々のものだ」
ジンは窓の外を見ていた。街の灯は、いつも通り。いや、少しだけ明るい。
「……よし、帰るぞ」
全員が頷き、ブースを出た。階段を降りる途中、踊り場にいた仮面はもういない。誰もいない。ただ、壁に残った札の跡だけが、湿った黒として残っている。
配電室を抜け、外へ出る。夜風がまとわりついた汗をさらい、遠くの風鈴がひとつ鳴った。
アレクはふと振り返る。塔は黙って立っていた。合図を預かる者として、正しく“黙る”。鳴るときだけ鳴るために。
「レン」
水鏡屋へ戻る道すがら、アレクはふいに言った。
「俺……やっぱ、元の身体に戻りてぇ。だけど、今は戻れねぇ。戻ったら、街が困るからじゃない。俺が困るからだ。ホムンクルスの身体で戦ってる今の俺を、“捨てたくない”」
レンは鈴を胸に当て、ほっと息を漏らした。
「――うん」
その返事には、創造主としての責任と、ひとりの女の子としての正直さが、同じだけ入っていた。
「だからさ」アレクは照れ隠しに前を向いたまま早口で言った。「元の身体を取り戻す“方法”を探すのは、後回しにしない。ちゃんと探す。だけど、“戻る時”は俺が決める。音が選ぶタイミングで、俺が指揮棒を握る。――手伝ってくれ」
「もちろん」レンは笑った。
「私も」ミユが並んで言う。「それ、ノートの一番上に書くね。〈最終目標:アレク君の“戻る”を、アレク君の拍で〉」
「かっけーじゃねぇか」カズマが肩を組み、ユウタが小さく笑った。「達成指標が難解すぎるけどな」
「難しいほど、燃えるだろ」アレクが鼻を鳴らす。
ジンは何も言わなかった。ただ、皆の少し後ろで、歩調を合わせた。
◇
水鏡屋に戻ったのは、夜明け前だった。空は藍色から薄鼠へ。台所の窓辺の風鈴が、帰還を出迎えるようにちり、と鳴る。
工房に入ると、鏡の曇りは完全に消え、鏡面には街の拍が淡金色の線で走っていた。〈総譜:安定〉の印。
レンが鈴を鏡の前にそっと置く。ミユがノートを広げ、今夜の出来事を簡潔に記す。ユウタは器材の電源を落とし、カズマは木刀を壁に立てかけ、アレクは畳の上にどさりと座り込んだ。
ジンは窓を少し開け、朝の空気を一口、工房へ入れた。
「寝ろ」
短い一言に、全員が笑った。
「はい」
「おう」
「了解」
「いびき、うるさくすんなよ、アレク」
「うるせー、勇者のいびきは勝利のファンファーレなんだよ」
「却下」ユウタが即答し、笑いが柔らかく工房に落ちた。
灯りを落とす直前、鏡の端が一瞬だけ微かに揺れ、墨のような何かがふっと滲みかけて――すぐに消えた。
ジンの眼鏡がかすかに光る。
(……やはり、次がある)
だが、それは「次がある」という希望でもある。舞台が続く限り、拍は続く。拍が続く限り、彼らは鳴らせる。
窓の外で、朝一番の電車が遠くを走った。短いベルが、街に一日の始まりを告げる。
――合図は、こちら側だ。
そして、まだ誰も知らないままに、港の沖の霧の中で、最初の“全楽章”の譜面が静かに開かれつつあった。仮面の手ではない、別の誰かの指が、黒い紙の上に音符ではなく“休符”の形を連ねていく。
その最初の小節の上には、こう記されていた。
〈客演指揮者:アレックス・ホーク(原躯)〉
アレクは寝息を立てていた。小さな胸が、規則正しく上下している。レンは鈴を抱いて丸くなり、ミユはノートを胸に置いたままうたた寝をしていた。カズマはいびきをこらえ、ユウタは椅子に凭れて目を閉じ、ジンは最後まで灯りの残光が消えるのを見届けた。
夜は終わった。
朝は始まった。
拍は、彼らの側にあった。
――そして、次の“合図”もまた。




