第65話『指揮台の影』
夜が明けた。
黒刃ヴァイスとの戦いから一夜。街は表向き、何事もなかったかのように日常を取り戻しつつあった。
駅前では始発を待つ人々が並び、商店街では八百屋の主人が野菜を並べ始める。港では漁船が戻り、荷を降ろす音が響いていた。
だがそのどれもが――ほんの少しだけ軽やかに聞こえた。
休符の膜が薄れ、総譜に街の音が組み込まれたからだ。
誰もそれに気づかない。だが、水鏡屋の仲間たちは確かに知っていた。昨夜、あの工房で自分たちが守ったものが、こうして「日常の響き」となって街全体に流れていることを。
水鏡屋の工房。
アレクは朝食を平らげた後、床に座り込んで杖を抱きしめていた。
「……よく寝た!」
胸を張って言うが、顔にはまだ疲労の影が残っている。戦いの余韻は簡単には消えない。
レンが湯気の立つカップを差し出した。
「ココア、また作ったよ」
「おお、昨日の勝利の味だな!」
アレクは受け取って、一口で火傷しそうになる。
「ちょっと熱い……っ」
「だから言ったのに」
レンは呆れ顔で笑う。
ミユはノートを膝に置き、昨夜の記録を丁寧に書き込んでいた。
〈黒刃・終曲。残紋消滅。呪具商人、撤退〉
震える筆跡ではなく、落ち着いた線。彼女自身もまた、少しずつ強くなっている証だった。
「よくあんな冷静でいられるよな」
カズマが木刀を壁に立てかけながら言う。
「俺なんて、正直最後の方は“やべぇ、死ぬかも”って思ってたぞ」
「珍しいな」
ユウタが皮肉を込めて笑う。
「君が本音を吐くなんて」
「おい、俺だって怖いもんは怖ぇんだよ!」
そんなやり取りをしながらも、全員の心は同じ方向を向いていた。
――黒刃を退けた。しかし戦いは終わっていない。
ジンは工房の机に広げた地図を睨んでいた。
そこには駅、神社、学校、港、商店街といった街の要所が線で結ばれ、その中央に赤い印が描かれている。
「……指揮台」
低く呟いた声に、皆が視線を向ける。
「次に奴らが狙うのはここだ」
「指揮台?」
レンが首を傾げる。
ジンは頷き、説明を続けた。
「街の中心部にある放送塔だ。市民祭のときは太鼓と笛の音を全体に響かせる役割を持っていた。だが同時に、“合図”を街中に流せる場所でもある」
ユウタが鋭い目を向ける。
「つまり、あそこを掌握すれば総譜ごと乗っ取れる」
「その通りだ」
ジンは眼鏡を押し上げた。
「黒刃を差し向けたのは囮に過ぎん。商人の狙いは、最初から“指揮台”だった可能性が高い」
アレクは杖を握り締め、立ち上がった。
「なら守るしかねぇだろ! 街の拍を全部奪われたら終わりだ!」
レンも鈴を握りしめて頷いた。
「……絶対に、渡さない」
その日の午後。
水鏡屋の一行は二手に分かれ、街の様子を探ることになった。
アレク、レン、ミユは駅前から放送塔へ向かう。
カズマとユウタは倉庫街と港を巡り、不審な動きを探る。
駅前広場は賑やかだった。昨日までの不穏さが嘘のように、子どもたちが遊び、大人たちが買い物袋を提げて歩いている。
だがアレクは眉をひそめた。
「……おかしい」
「どうしたの?」
ミユが不安そうに尋ねる。
「音が……濁ってる」
普段なら賑わいに混じって一定のリズムがある。靴音、笑い声、呼び込みの声――それらが自然に調和して街の“音楽”になる。
しかし今は、どこかに異音が混ざっていた。まるで太鼓の皮に小さな穴が空いているような、不快なズレ。
レンが櫓の柱を見て息を呑む。
「また……札が」
そこには昨日と同じ、笑う仮面の紋が刻まれた紙片が貼り付けられていた。
アレクが剥がそうとしたが、指先に黒い煙がまとわりつき、皮膚を焼きそうになる。
「やめて!」
ミユが叫び、急いで封札を取り出して押し当てる。
札が反応し、紙片は炭のように崩れ落ちた。
「……一つだけじゃない」
レンが辺りを見渡す。
「きっと、街中に仕掛けられてる」
「全部探して潰すのは無理だ」
アレクは唇を噛んだ。
「じゃあ狙いはやっぱり――」
「放送塔」ミユが静かに言った。
「全部を一度に起動させるための“合図”。あそこから流される」
一方その頃、倉庫街。
カズマとユウタは錆びたシャッターの前に立っていた。
「……音がするな」カズマが耳を澄ます。
「笛の音だ」ユウタが頷く。
シャッターの隙間から聞こえるのは、不協和音のような低い笛の響きだった。
カズマが勢いよく木刀でシャッターを叩くと、錆が砕けて内部が見えた。
そこには――数十体の仮面の人形が立ち並んでいた。
首の後ろに札が貼られ、赤黒い光を点滅させている。
「……これは」
ユウタが険しい顔になる。
「試作型の兵だな。ヴァイスの影を量産してやがる」
人形たちが一斉に首をもたげ、無機質な動作で動き始めた。
カズマは木刀を振り上げ、吠える。
「だったらまとめてぶっ壊すだけだ!」
倉庫街に戦闘の音が響き渡った。
夕刻。
水鏡屋に戻った仲間たちは報告を持ち寄った。
「札は街中に仕掛けられてる」アレクが言う。
「それを一斉に起動させる“合図”が放送塔から流されるはずです」ミユが補足する。
「倉庫街では兵の量産が始まっていた」ユウタが低く告げた。「ヴァイスの影を模した人形だ」
ジンはしばらく黙っていたが、やがて結論を下した。
「……指揮台を抑えるしかない。奴らが“合図”を流す前に」
アレクは拳を握りしめる。
「上等だ。次はあそこが決戦の舞台だな!」
レンは鈴を胸に抱き、静かに目を閉じた。
(絶対に……守る。みんなの音も、街の音も。もう誰にも奪わせない)
外の空には、すでに夜の帳が降り始めていた。
放送塔の上に、月が白く輝いている。
――指揮台をめぐる最終局面が、いま幕を開けようとしていた。




