第61話『総譜計画の始動』
翌朝。
水鏡屋の工房は、ふだんの静謐さを失っていた。机の上には広げられた街の地図、無数の札、結晶化した呪具の破片。壁際の《統合鏡》は夜通し稼働していたせいで薄く曇り、そこに走る光の線は蜘蛛の巣のように入り組んでいた。
アレクはまだ眠気の残る顔で椅子に腰かけ、杖の石突きをトントンと床に打ちつけていた。
「……よし。今日から“こっちの曲”を鳴らすんだな」
彼の赤い瞳には、眠気よりも決意の火が強く宿っていた。
レンは鈴を膝に置き、布で何度も磨いている。昨夜からほとんど休んでいないはずなのに、その指先は確かだった。
「一度も外さない。私が外したら、みんなの拍が崩れるから」
その声に、アレクは振り返って笑う。「外すもんか。お前の音が中心だろ」
ジンは冷たい目をして彼らを見やり、地図に赤い印を次々と書き込んでいく。
「配置はこうだ。学校のチャイム、神社の鈴、港の灯台サイレン、駅のベル。主要な“鳴り”をすべて一つの譜面に束ねる」
ユウタが補足する。「《統合鏡》を基盤にして、街の音の経路を上書きするんです。いわば“リミックス”です。向こうの休符が入っても、我々の基準音が先に響いていれば、飲み込まれません」
「問題は……敵が必ず邪魔してくるってことだな」カズマが腕を組んで口を挟んだ。「昨日だってヴァイスが出てきた。今度は奴だけじゃ済まないだろ」
工房の空気が一瞬、重くなった。
だがミユがノートを抱え、真剣な表情で前に出た。
「それでもやるべきです。あの人――呪具商人は、街そのものを楽器にしようとしている。なら、私たちが先に“街の楽譜”を取り戻せばいい」
力強い言葉に、皆の視線が自然と集まった。彼女の手は震えていたが、目は揺るがなかった。
ジンは小さく息を吐き、眼鏡を押し上げる。
「……よし。今日から三日間で“総譜”を完成させる。敵の妨害が来る前に、必ず」
◇
午前十時。
一行は四班に分かれて街へ散った。
アレクとレンは駅へ。
カズマとユウタは港へ。
ジンとミユは学校と神社を回る。
駅前は通勤の人波でごった返していた。だがアレクには、その雑踏の奥に潜むズレがはっきりと聞こえた。
「……鐘の音が半拍遅れてる」
発車ベルの音程が不自然に沈み、電車がホームを離れるたびに違和感が増していく。
「ここを正すのね」レンは鈴を握りしめ、ホームの柱に近づいた。
目を凝らすと、支柱の裏に黒い紙片が溶けるように貼り付いている。例の笑う仮面の印。
「アレク君」
「わかってる」
杖の石突きを叩きつけると同時に、レンが鈴を振った。
――ちりん。
澄んだ音が響き、札は黒煙を吐きながら剥がれ落ちる。
その瞬間、ベルの音程が元に戻った。澄んだ高音がホームに広がり、人々の顔からほんの少し強張りが消えた。
「成功……!」レンが息をついた。
アレクはにやりと笑う。「一拍目はオッケーだな」
◇
港。
海風に潮の匂いが混じり、サイレン塔が高くそびえていた。
カズマは木刀を担ぎ、塔の根元を見上げて口笛を吹く。
「ありゃ登るのか? ま、こういうの得意だしな」
「軽口はいい。行くぞ」ユウタが真顔で答える。
二人は梯子を登り、塔の中腹へ。そこにも黒い札がびっしりと貼り付けられていた。
「うへぇ……これ、ほとんど壁紙じゃねぇか」
「一気に剥がす。木刀で上段を叩け。僕が下段を剥がす」
「任せろ!」
ガンッ!
カズマの一撃で札が十数枚吹き飛び、ユウタが手際よく残りを剥がしていく。
サイレンが短く鳴り、澄んだ音色が港にこだました。
「よし……!」ユウタが冷静に頷く。
「ははっ、楽勝だな!」カズマが笑った。だが次の瞬間、波止場の影から黒い仮面の人形がぞろぞろと現れた。
「ったく、やっぱ来やがったか!」
木刀を振り抜き、人形の首元に貼られた札を次々と叩き割る。ユウタは冷静に支援し、二人のコンビネーションは乱れなかった。
◇
一方、ジンとミユは学校のチャイムを調整していた。
「ここが中心だ。授業開始の音。街の子どもたちの“時間の拍子”を決める」
ジンは低い声で言い、ミユに札の封印を任せる。
彼女の指が震えながらも確かに紙片を剥がすと、チャイムは澄んだ旋律を取り戻した。
「……できた!」
「よくやった」ジンの口元がわずかに緩んだ。
次は神社へ。
鳥居の奥に吊るされた鈴は、すでに黒い札で覆われていた。まるで音を吸い込むように沈黙している。
「ここを奪われては終わりだ」ジンは刀を抜き、札を斬り裂いていった。
ミユもタグを重ね、札の封印を補助する。
やがて、鈴が再び澄んだ音を響かせた。境内に風が通り抜け、空気が清らかに変わる。
「これで……街の“骨格”が整った」ジンが低く言った。
◇
夕暮れ。
水鏡屋に再び全員が集まった。
各所の主要な音を取り戻し、街の基盤は“総譜”へと繋がりつつある。
「よくやったな」ジンは皆を見渡した。「だがこれは序奏にすぎない。明日からは、敵が必ず妨害に出る」
「望むところだ!」アレクが拳を突き上げる。
カズマも笑いながら木刀を振った。「次は本番だな!」
ユウタは冷静に頷く。「敵が“休符”を仕掛けてきても、我々の譜面で上書きできる。……理論上は」
「理論を現実にするのが私たちだよ」ミユが言った。
レンは鈴を胸に抱き、真剣な瞳で皆を見渡す。「この街を、私たちの音で守ろう」
その夜。
外の風鈴が澄んだ音を立てた。だが、遠く離れた廃神社では、呪具商人がまた笛を吹いていた。
「第五幕、始まりの合図。君たちの総譜、どれほど持つか……楽しみだね」
闇に溶けるその音は、街全体に薄く、細く、忍び込んでいった。




