第60話『街が鳴る――総譜の罠』
夜明け前、街はまだ眠っていた。
人通りのない交差点に、信号機の点滅だけが規則正しいリズムを刻んでいる。
そのリズムが、ふ、と半拍だけずれた。
誰も気づかない歪みは、信号機から横断歩道のスピーカーへ、電柱の変圧器へ、路面電車のパンタグラフへと、細い糸のように這い広がっていく。
廃神社。
黒い霧を膝元にまとわせ、呪具商人は笛を指で転がした。
「――いいよ。街はよく鳴る。骨組みも、舗装も、川底の石も、全部が楽器だ」
背後、社殿の闇からヴァイスが現れる。鎧の継ぎ目には昨夜の戦いで剥がれた紋の欠け目がまだ残り、そこからかすかな冷気が漏れていた。
「準備、完了。配備した“休符札”は二百一。交差点、送電盤、広報スピーカー、学校のチャイム」
「チャイムはいいね」商人は愉悦を含んだ吐息を漏らす。「子どもたちの時間を支配する音だ。そこに休符を差し込めば、“不安”は自ずと合唱になる」
ヴァイスは短く一礼した。「標的は」
「変えないさ。勇者の魂と、創造主の鈴。あの二音が欲しい」
商人は空を見上げ、薄く笑った。「第四幕――街ごと息を止め、彼らの内側だけに音を残す。そこで奏でる二重奏が、どれほど甘美か。ね、ヴァイス」
「命令、承る」
◇
水鏡屋。
いつもより早い朝食の湯気が、食卓に薄い膜を作っていた。
レンは味噌汁の蓋を少しずらし、塩梅を確かめる。指先にはまだ微かな震えが残っている。昨夜、鈴を狙われた恐怖は、完全に消え去ってはいなかった。
「……大丈夫。私は逃げない」
小さく息に乗せてから、椀を並べる。
「よっしゃ、今日の目標!」
ちゃぶ台の向こうで、アレクが勢いよく手を挙げた。「呪具の“休符札”をぜんぶ見つけて、ぜんぶ止める!」
カズマがすかさず相槌を打つ。「異議なーし! 試合前の校庭整備みたいなもんだ。土の穴、埋めときゃ足が取られねぇ!」
ユウタは湯呑を持ち上げ、一拍置いてから冷静に続ける。「広域だ。位置の推定には“街の音の地図”が要る。ジンさんの統合鏡で粗を出し、ミユと僕で現場特定、カズマが札を叩き落とし、レンさんが封印……アレクは護衛と突破」
「りょーかい!」アレクは赤い瞳を輝かせる。「俺が前を開ける。休符が来ても、腹で鳴らす!」
レンはそんな彼を見つめ、自然と笑みを浮かべた。
「……頼りにしてるね」
ミユもノートを抱え、頷く。「昨日の“無音”を超えたのは、アレク君の鼓動だった。今日も、私たちはそれに合わせて動こう」
新聞を畳んだジンが、壁の《統合鏡》へ歩み寄る。
鏡面には街の俯瞰が薄く浮かび、交差点や学校、広報スピーカーの位置に細い糸のような光が走っていた。
「……嫌な音が増えている」
ジンは眼鏡を指で押し上げ、短く言う。「四班に分かれる。俺とユウタは拠点監視と全体把握。アレク、レン、ミユは駅前から学校ルート。カズマは倉庫街から役所筋。見つけたら即時報告、各自で封印手順に移れ」
「了解!」
一斉に声が重なり、湯気の膜がぱっとほどけた。
◇
午前八時。
駅前のロータリーに、通勤の足音が戻ってきていた。市民祭の翌日だというのに、人々はいつもの時間にいつもの場所へ向かっていく。
アレクは人の波の間をすり抜け、耳と足裏で“街の鼓動”を拾っていく。
(……一拍、ズレてる)
信号機の点滅。横断歩道のメロディ。地下の換気口のファンの回転。
目には見えないズレが、微細なむかつきのように胃の底をひっかいた。
「ミユ、ある?」
「うん。ここの交差点、音の層が二枚――いや三枚。重なってる」
ミユはタグを筆先で撫で、〈今〉〈ここ〉を順に貼る。重なった層のうち、一番薄い“異物”が浮かび上がる。
「いた……ガードレールの裏」
しゃがみ込むと、灰色の金属面に黒い紙片が溶け込むように貼りついていた。六角形の中心に、笑う仮面――呪具商人の印。
「レンさん」
「うん」
レンの鈴が、短く、二度。
カン、と紙片の“縁”だけが金属から浮いた。その隙にミユがタグで“抑え”、アレクが杖の石突きで的確に“剥がす”。
「回収!」
袋に入れると、紙片はあっという間に炭のように崩れた。
「次!」
アレクの合図で、三人は走る。
横断歩道のボタンの裏、案内板のフレームの中、地下道の手すりの継ぎ目――同じ札が立て続けに見つかった。
「早すぎる……」レンが息を弾ませる。「どれだけ撒いたの、あの人」
ミユは眉を寄せ、タグ束を持ち替えた。「全部で二百以上。私たちのルートだけでも三十はある」
「なら、三十全部抜けばいい!」
アレクは笑って、次の角へ飛び込む。
◇
倉庫街。
カズマは木刀を肩に担ぎ、シャッター列を一棟ずつ見て回っていた。
(昨日の“人形工房”、別棟にもあるはずだ)
鼻腔にかすかな金気――古い鉄の匂いが混じる。
「いた」
シャッターのスリットから覗くと、薄闇の中に仮面を被った影が二十、いや三十。首の後ろに札。
「よし、先に札な」
カズマはスリットに札を差し込み、木刀の先でまとめて引っ掛けた。力任せに引くと、十枚ほどがずるりと剥がれ、影が一斉に崩れる。
「っしゃ!」
奥から、ひときわ大きな影が起き上がった。白い仮面に黒の縁取り――昨日の“試作型”に近い。
「一本勝負だ!」
カズマは歯を見せて笑い、正面から走った。
◇
午前十時。
小学校の正門前。
授業はまだ再開されていないが、校舎の保全作業で先生たちの姿がちらほら見える。
ミユが校内の音を拾い、アレクがフェンスを飛び越え、レンが鈴で“外からの音”を足場にする。
「チャイムのスピーカー、逆相が噛んでる」ユウタの声が端末から飛ぶ。『職員室前、掲示板の裏。ジンさんの鏡に反応』
「了解!」
三人は昇降口へ駆け込み、掲示板の裏へ回り込む。
いた。
黒い紙片。仮面の印。
「――ちりん」
鈴が鳴る。
剥がれた。
封印。
「よし、次!」
踵を返した、その瞬間だった。
――チャイムが鳴った。
授業の始まりでも終わりでもない時間に、校舎全体のスピーカーが一斉に啼いた。
いつも聞き慣れた、明るい旋律。
だが、半拍だけ――遅い。
音の端が濁って、壁の中へ染み込む。
校庭の旗の影が、微かに重くのしかかったように伸びた。
「休符の“予告”……!」ミユが顔を上げる。「まず“日常の音”をずらして、感覚を麻痺させるつもり」
アレクは奥歯を噛み、拳を握った。「上等だ。ずらされる前に、片っ端から剥がす!」
◇
正午。
街の至るところで、小さなズレが積み上がっていた。
役所の時計が十二時を三秒遅れて告げ、商店街のBGMがいつもより半音低い。
電車のドア開閉音が、妙に間延びして聞こえ、川沿いの風鈴が、風が止んでも鳴っている。
「――広報です。本日は……」
スピーカーの声が、ふいに途切れた。
そして、街全体へ、やわらかい笛の音が流れ出す。
(来た)
水鏡屋の《統合鏡》の前で、ジンは息を殺した。
鏡面の街図に、薄い波紋が一斉に広がる。
ユウタが端末を叩き、即座に音圧と周波数を抽出する。「中心は――駅前と神社の中間、旧商店街の電柱ライン。そこから扇状に拡散」
「封鎖線を張る。アレクたちに連絡――」
その時だった。
鏡面の一角が、黒く“沈んだ”。
――休符。
「……っ」
ジンは反射的に鈴の小片を取り出し、鏡面の端に置いた。
(息を止めに来たか。なら、こっちの肺で吸ってやる)
低く、腹から声にならない声を出す。音にもならない“息”。
鏡面の黒が、ほんの針の先ほど持ち上がった。
「ユウタ、地鎮を続けろ。俺が肺になる」
◇
午後一時。
笛は止まらない。
柔らかく、懐かしく、日常を包み込むようでありながら、その実、確実に“息”を奪っていく旋律。
アレク、レン、ミユの三人は、札を剥がしながら中心へ向かっていた。
「旧商店街の電柱、上段の碍子の裏!」ミユの指が迷いなく指す。「そこから“息止め”が流れてる!」
レンが鈴を鳴らし、アレクが電柱を駆け上がる。子どもの身体の軽さは、こういう時だけは武器だ。
「っし!」
紙片を剥がし、袋に落とす。
足場へ戻ろうとした瞬間、世界が――一瞬、黙った。
休符。
「――!」
足裏の感覚が消え、視界の奥行きが失われる。
アレクは床のない場所へ踏み出し、バランスを崩した。
「アレク君!」
鈴が鳴る――はずが、鳴らない。
鳴らないはずの鈴が、レンの胸で震えた。
ちりん。
音の膜に針穴が開き、アレクの足裏に“踏む場所”が戻る。
「助かった!」
反動で電柱に腕を回し、なんとか着地する。
「……まだ来る」
ミユが肩で息をしながら言った。「休符、波状。二秒おき、今度は三秒――」
「タイミング、こっちで合わせる!」
アレクは荒い息の底で、心拍をメトロノームに変えた。
吸う。吐く。吸う。吐く。
(二で落ちて、三で戻る。じゃあ、俺は一で足を出す)
次の休符。
世界が黙る“一瞬前”に、アレクは一歩を出し終えていた。
黙る。
戻る。
彼の足はすでに次の踏み場にある。
「行ける!」
笑って、次の電柱へ飛ぶ。
◇
旧商店街の中程。
人影のないアーケードの天井に、黒い札が等間隔に並んでいた。
(ここが“共鳴管”……)
レンの背筋に冷たい汗が伝う。
ミユがタグを準備し、アレクが杖を握り直す。
「三手同時。私が“いまここ”を開ける。レンさんが鈴で縫う。アレク君が落とす」
「了解!」
三、二、一――
タグが飛び、鈴が鳴り、杖が跳ぶ。
札が落ちる。
落ちた穴から、冷たい風が吹き上がった。
そして、そこへ――足音。
「排除対象、再確認」
ヴァイス。
鎧の胸には欠けた紋。
だが、その周囲には新しい細工が施され、欠け目の周りを黒い糸のような紋が縫っている。
「修復、早っ……!」
「いや、修復じゃない」ユウタの声が端末越しに冷たく響く。『“余殃”を増幅している。痛みを痛みで縫ってる。無理矢理の延命だ』
「無理矢理でも、刃は刃」
アレクは一歩前へ。「来いよ」
刃が降る。
休符が落ちる。
鈴が鳴らない。
アレクの胸が鳴る。
ミユのタグが開け、レンの鈴が縫い、アレクが“踏む”。
木刀の打音が、どこかで届く――カズマも別筋で戦っているのだ。
ジンの低い“息”が、街全体の肺の役割を果たしているのが分かる。
刃と杖が三度、四度と交錯した。
ヴァイスの足元がわずかに波打つ。
(押せる――)
アレクが踏み込み、杖の石突きを胸の欠け紋へ――
「――良い音だ」
笛。
アーケード全体が、ふっと“消えた”。
見た目はそのまま、しかし音の実体が削ぎ落とされる。
床の軋みも、金具の緊結も、蛍光灯の微かな唸りも。
残るのは、三人の“内側の音”だけ。
(やるしかない)
アレクは歯を食いしばり、胸の鼓動をもう一段、深く沈めた。
鼓動を“太鼓”に、呼吸を“笛”に、血潮を“弦”に――
(俺の中に、みんなの音を入れろ)
レンの鈴が、鳴らない世界で震える。
ミユのタグが、文字だけで“引っかかる”。
アレクの脈が、二人の道を作る。
踏む。打つ。切る。
――ぱん。
また一枚、紋が剥がれた。
「……確認。三紋、残存」
ヴァイスの声に、初めて微かな息が混じる。
商人の笛が、遠くで笑った。
「上等。第四幕は、ここまで」
休符が解け、街の音が一斉に戻った。
アーケードの蛍光灯が鳴き、風鈴が追い風を受け、遠くの踏切が鳴る。
ヴァイスは薄い膜の向こうへ沈み、商人の気配も遠のいていく。
「待て――!」
アレクが追おうとした肩を、レンの鈴がそっと引いた。
「追わないで。いまは“街”を戻すのが先」
ミユが頷く。「中心は剥がした。後は残りの札を――」
その時、端末からジンの声。
『駅前ライン、封鎖完了。広報スピーカー復旧。……よくやった』
「っす!」アレクの顔に笑みが戻る。「こっちは旧商店街の共鳴管を落とした! ヴァイスにも一枚!」
『確認した。……戻ってこい。次の段取りを詰める』
◇
夕暮れ、オレンジの層が街を包む。
水鏡屋の工房に戻った一同は、床に円を描くように座り込んだ。
ミユがタグ束を揃え、レンが鈴を磨き、カズマが木刀の刃こぼれを撫で、ユウタが鏡の縁を拭う。
アレクは杖を抱え、天井の梁を見上げた。
ジンは《統合鏡》の前で腕を組み、ゆっくりと口を開く。
「今日で分かったことは三つ。ひとつ、休符は“街の骨”に入り込む。ふたつ、アレクの内音とレンの鈴、ミユのタグで穴を開けられる。みっつ、ヴァイスの紋は残り三」
彼は視線を上げ、皆を見渡した。「商人は、合奏を楽しんでいる。次は必ず、こちらが“舞台”を決める」
「舞台を……?」
レンが目を瞬かせる。
ユウタが頷いた。「今までは向こうの譜面で踊らされた。次は、こちらの譜面で」
カズマが口角を上げる。「つまり、こっちから“仕掛ける”ってことだな」
アレクは拳を握った。「街を守る曲、俺たちで書く!」
ミユは静かにノートを開き、空白のページに大きく三文字を書いた。
〈総譜計画〉
「街の各所に“正しい拍”を置く。神社の鈴、学校のチャイム、駅の発車ベル、灯台のサイレン――それを一本の譜面で結び直す。休符が来ても、私たちの譜面が先に鳴っている状態を作る」
レンが息を呑む。「街じゅうをひとつの楽器に……」
ユウタは鏡の上へ薄い図を重ねた。「信号系、電力系、拡声系。ジンさんの《統合鏡》をハブにして、主要ノードを“結び直し”ます」
ジンが短く頷く。「やれる。だが危険だ。中心は水鏡屋――必ず狙われる」
重い沈黙。
それでも、誰も目を逸らさなかった。
レンが鈴を胸に抱き、真っ直ぐに言う。
「来てもらおう。ここで終わらせる」
アレクがにっと笑う。
「俺たちの家で、俺たちの曲を鳴らす」
カズマが木刀を立て、ユウタが鏡を置き、ミユがタグ束を開く。
小さな合奏団が、静かに呼吸を合わせた。
外では、夕風が鈴のように街路樹を鳴らしていた。
呪具商人は、どこかの屋根の上で笛を回し、遠くの空を眺めている。
「第五幕――君たちの舞台。期待しているよ、勇者。創造主。伴奏者たち」
笛が一度、宙を切った。
夜が、降りてくる。
明日、街は“こちらの譜面”で目を覚ます。
そして――敵もそれを聞く。
小さな水鏡屋の奥、灯りの下で、レンの鈴がひときわ澄んだ音を立てた。
その音は、もう誰の命令でもない。“私たち”の拍だった。




