第54話『前奏の街――鳴り始める兆し』
翌朝。
秋晴れの空はやけに澄んでいるのに、街の空気はどこか“乾いて”いた。薄い膜が鼻腔の奥に張り付くような違和感――昨夜、水鏡屋で《統合鏡》に灯った赤点の感触が、現実の肌触りを得て広がりつつある。
ジンは工房の中央に簡易の地図を掲げ、赤青黄のピンで街を三分割した。
「三手にわかれる。俺は鏡で全体を俯瞰しつつ、緊急の“返し”を回す。アレクとレンは神社と川べりのライン。ミユは学校と病院の両端を見てくれ。カズマとユウタは倉庫街から駅裏へ。……合図の鈴は三連短打、撤収は長一。いいな」
「おう!」「了解」「やる!」
短い返答が重なる。昨夜の一戦で揃った“和音”は、もう呼吸だけで鳴る。
*
午前十時。神社。
参道の空気はきれいに乾いているはずなのに、手水舎の水盤がほの暗く濁って見えた。風鈴の音がひとつ、裏返った貝殻のように“裏”で鳴る。
「……いる」
レンが鈴を握り、息を整える。
アレクは拝殿の梁を見上げ、目を細めた。「梁に札。しかも上下で対だ。普通と逆だな」
「順番に抜くと起動する」
ミユから回線越しの声。《統合鏡》に繋いだ小型端末は、簡易な“合奏回線”の役を担っている。
「だったら――同時だ」
アレクが拝殿の柱を蹴り、一息で梁へ跳ぶ。小さな体に宿る脚力は、軽さゆえに鋭い。レンは下で鈴を振り、拝殿の“鳴り”を一瞬だけ凍らせた。
ちりん。
上と下、二枚の札が同時に浮き、アレクの指とレンの“音”に挟まれて剥がれ落ちる。ひと呼吸ぶん、神社の空気が澄んだ。
だが境内の端――古い石灯籠の影が、わずかに伸びていた。赤子の泣き声の尾だけを取り出して薄めたような、耳の後ろを引っぱる不快な高音。
「アレク君、右端!」
呼ばれるより早く、アレクの杖が灯籠の根を突いた。砂の中から短冊大の札が飛び出し、黒い煤のように砕け散った。
「神社、一次処理完了。次、川だ!」
アレクが駆け出す。レンは鈴を胸元で抑え、拝殿へ頭を下げた。「すみません。少しだけ、音を借りました」
*
同時刻、川沿いの遊歩道。
ベビーカーを押す母親の列、ジョギングする老人、遠足の子どもたち。音が多い場所は“優しい”。ジンの言った通りだった。優しさはよく響く。だからこそ狙われる。
「音の底が重い……水面じゃなくて、水中で鳴ってる」
レンが欄干に手をかけ、目を凝らす。
ミユの声がまた届く。「川の音紋、いつもより低いよ。たぶん、沈めてある」
「なら――釣り上げるだけだ!」
アレクは欄干からひょいと身を翻し、護岸の階段を駆け降りた。膝まで水に飛び込み、目を閉じて“耳”で探る。水が鳴る。石が鳴る。魚が鳴る。札が鳴る――。
「ここだ!」
水中へ杖の石突きを沈め、渦をひとつ作る。渦の中心が“軽く”なる。沈んでいた箱が浮力を取り戻し、ぽこりと浮かび上がった。
レンが鈴を鳴らす。ちりん。浮かんだ木箱の蓋が勝手に弾け、内側から黒い霧が噴き出す。
「ミユ!」
「タグ投げます!」
彼方から飛ぶ薄い円盤が、霧の中心に吸い込まれた。円盤が点滅し、霧の“呼吸”が記録される。レンが追い鈴を三度、短く。霧は砂糖を熱で溶かしたときのように縁から崩れ、ゼラチンのように力を失って水に溶けた。
「川、一次クリア。札の痕跡、三つほど流れ下り。下流の橋へ回る!」
アレクが水を跳ね散らしながら駆け上がる。母親がハッと顔を上げ、泣きそうな赤子の背をさする。赤子は一拍おいて、ふぅと長い息を吐き、泣き止んだ。優しい音が戻る。
*
十一時。学校。
休校中の校舎は静かだ。だが“静けさ”にも種類がある。息を殺す静けさと、眠っている静けさ。今日の静けさは前者に寄り始めていた。
ミユは音楽室の鍵を開け、薄暗い室内に入る。一歩で匂いが分かる。古い楽器、本棚、床ワックス。そして――札の煤。
「……いた」
ピアノの屋根をそっと上げると、弦の間に極薄のフィルムが三枚、蜘蛛の糸のようにかかっている。鍵盤の“ド・ミ・ソ”に対応する位置。
「主和音で、街を調律するつもり……?」
ミユはポケットから細いピンセットを取り出し、指の腹ではなく空気の“抜け”で位置を決める。吸い寄せられる角度でつまみ、音を立てない角度で抜く。一本、二本――
最後の一本に触れた瞬間、背後の書庫からぴし、と紙が裂ける音。
(連動!)
ミユは手を止めず、左手でタグをひとつ書庫へ投げた。タグが書庫の“音”を掴む。紙ではない。木でもない。呼吸。人の呼吸。
「……誰か、いるの?」
返事はない。だが呼吸の“向き”がわずかに変わる。彼女を見た。
ミユは腰を落とし、そっとピアノの蓋を閉じた。鈴は持っていない。鈴の代わりに、音を出す“勇気”を胸の中心に掴む。
「私はここで作業を続けます。出てきてください。怪我をしていたら、包帯はあります」
十秒。二十秒。静けさが重さを増し、ちょうど三十秒で、書庫の影がほどけた。
出てきたのは、校内清掃の臨時バイトらしい若い男。目の下に隈。頬に紙やすりの粉。手には、小さな笛。
ミユは一歩も退かない。「それ、誰にも吹かせちゃいけない音だよ」
男はぎこちなく首を振った。「俺は……吹いてない。持ってるだけだ。もらったんだ。こいつを“響かせる場所”に置けって。……置いたら、いくらか、くれるって」
ミユは鼻の奥が痛くなった。
「笛を置いたの?」
男は小さく頷く。「二本。もう一本は、病院に」
*
正午前。病院。
ユウタとカズマが裏口から走る。自動ドアが息をするように開閉を繰り返し、風が廊下で迷子になっている。
「音が巻かれてる。廊下の角ごとに“追い風”が作られてる」ユウタが低く言う。
「言い方が難しすぎるんだよ! どこだ、笛は!」
「上だ。リハビリ室の天井、梁の間」
二人は階段を駆け上がる。カズマがドアを押し開けると、広い部屋の中央で理学療法士が車椅子の老人に声をかけている。声は届いているのに、届ききっていない。距離が伸びる。
「すみません! 天井に問題があるかもしれません!」ユウタが短く頭を下げ、梁へ視線を走らせる。
あった。梁の影に二本の短笛。色は病院の天井と同じ白。異物感がない。
「カズマ、肩に!」
「おう!」
カズマが身を屈め、ユウタがその肩へ飛び乗る。軽やかな動き。二人の体が“当たり前”のように重なる。ユウタの手が笛に触れた瞬間、笛が自分で震え、梁の隙間へ潜ろうとした。
「逃がすか!」
ユウタが指先で逆向きの“揺れ”を差し込む。《濁響》の最小単位。笛が力を失い、手の中へ転がり落ちた。
同時に、もう一本が反対側で震える。
「そっちは任せろおおお!」
カズマが肩でユウタを浮かせた反動で反対側へ飛び、木刀の石突きで笛を叩き落とす。衝撃で笛の内側の管が外れ、ただのプラスチックの筒に戻った。
リハビリ室の空気が一段軽くなり、療法士の声が自然に届いた。老人の目が柔らかくなる。
「ふぅ……!」
肩を回すカズマに、ユウタが小さく笑う。「ナイス“合奏”」
「へへ、俺も難しい言い方覚えたぞ。合奏!」
*
午後一時。駅裏倉庫。
“音の影”はすでに退いていた。昨夜に荒らした倉庫のシャッターは積み木のように並び、鍵穴だけが新調されていた。
「ここは囮だったな」ユウタが呟く。
カズマが口を尖らせる。「じゃあ、次はどこだ?」
ミユの声が回線に走る。「神社ラインと川ライン、一次二次処理完了。けど、学校と病院ルートにまだ“残響”がある。……たぶん、同時に鳴らす“合奏”の譜めくりが、今日の目的」
「譜めくり?」カズマが首を傾げる。
「演奏の直前、楽譜の角を少し折って次の小節がめくりやすくする。そんな感じ」
「なるほど……いや全然わかんねぇけどヤベェのはわかった!」
ジンの声が重なる。
『各班、いったん合流を。駅前広場へ戻れ。最後の“調弦”が入る』
*
午後二時。駅前広場。
昨日の戦いの痕は、夜のうちに清掃班とボランティアが見事に片付けていた。櫓の残骸は脇へ寄せられ、代わりに小さな舞台が仮設されている。市民祭の“慰労ミニライブ”だという。マイクチェックをする青年、スピーカーを拭く中年、手作りの旗を掲げる子どもたち。平穏の音が立ち戻っている――ように見えた。
「音量計、変動なし……のはずが、ノイズが下から上がってる」ミユが眉を寄せる。
レンが鈴を胸元で握る。「地下?」
ジンが鏡の前から短く答える。『駅の機械室。空調と配線のハブ。音の交差点だ』
「潜る」
アレクはためらわず階段を降りた。機械室は立ち入り禁止だ。だが今は誰かが鍵をこじ開けていた。鉄の扉がわずかに開き、冷たい風が頬を撫でる。
中は網の目のような配管とケーブル。耳鳴りのような高音が、耳ではなく骨で聞こえる。
「……これ、やばい」
レンの声が掠れる。
ミユが計測器を掲げ、針を見て青ざめた。「地下全体に“導音管”。笛の音を街へ配る“管弦”が組まれてる」
「つまり、ここがオーケストラピットってわけだ」
アレクが歯を食いしばる。「壊す。全部」
「待って。順番がある。適当に抜くと逆流する」ミユが足早に図を描き、タグで“止め弁”をマークした。「この三点を同時に止めれば、全体が“無音側”に落ちる」
「三点同時、合図は鈴三短。よし、いくぞ」
――ちりん、ちりん、ちりん。
三人の手が同時に動く。アレクがバルブを全力で回し、レンが錠を音で“眠らせ”、ミユがブレーカーに“柔らかい負荷”を流す。機械室の骨鳴りが一段低くなり、配管の唸りが消えた。
「止まった……!」
ほっと息をつくミユの肩に、アレクが軽く拳をコツンと当てた。「ナイス合奏」
だが、その瞬間だった。
地下の空気が“笑った”。
音にならない笑い。振動だけの、いやな笑い。
機械室の最奥、黒ずんだ金属箱が自分で蓋を開け、内側から薄い笛が一本、立ち上がった。
「自動起動……!」
ミユの声が上ずる。
笛は誰も吹かないのに、勝手に鳴った。ほんの一音。まるで舞台袖で鳴らされた“音合わせ”のA。
それに、街が応えた。
地上のスピーカーが一瞬、低く唸り、神社の風鈴が一拍遅れて返し、川の橋桁が微かに震えた。
「まずい、間に合わなかった!」
ジンの声。『撤収! 地上へ! 今の一音で――始まる!』
*
午後二時半。駅前広場。
空気が“重なった”。
昨日、商人が張った膜は、今日はもっと薄く、もっと広く、もっと優しく街に被さった。人は気づかない。だが音は気づく。
マイクを持った青年が「チェック、ワン、ツー」と発声した声が、ほんのわずかに“よく通る”。通り過ぎた子どもの笑い声が、やけに愛しい。近くのベンチで眠る老人の寝息が、やたらと優しい。
優しさが、よく響く。
だから――笛も、よく響く。
舞台袖。
黒衣の商人は、今日も笛を唇に当てない。横に掲げ、軽く顎で合図を送る。
ヴァイスが一歩、前へ出た。鎧の紋は昨夜よりも静かだ。だが静けさは、“鳴らない”静けさではなく、“鳴らす準備の”静けさ。
商人が目を細め、低く囁く。
「――合奏だ」
笛が鳴る。
それは、昨日のような鋭い命令の音ではない。柔らかく、甘く、懐かしい――“帰り道”の音。
広場の隅で、子どもが手を止める。ベンチの老人が小さく笑う。マイクの青年が一瞬、歌を忘れて遠くを見る。
アレクの胸が、内側から掴まれるように熱くなる。懐かしい景色が瞬きを挟んで入り込み、異世界の酒場、戦場の出立、仲間の声、別れの炎――全部が“帰っておいで”と囁く。
「……っ、レン!」
呼びかける声が少し遠い。
レンはもう鈴を構えていた。ちりん、と短く。
“帰り道”の音に“ただいま”の音で返す。
その一音は、アレクの胸の中に小さな灯を点す。目の前の“今”に焦点が戻る。
「――危ねぇ」
ミユがタグを束ね、一枚を高く掲げた。タグが空中でひっくり返り、裏面に記録された昨夜の“主題”が表に出る。
「合わせて!」
合図。
ユウタが《濁響鏡:小》を舞台の四隅に滑らせ、カズマが木刀の石突きでそれぞれを一度だけ鳴らす。
カン、カン、カン、カン。
四隅の“濁り”が、商人の“帰り道”の音に薄い膜をかける。
レンが鈴を二度、短く。
ミユのタグが一枚、商人の笛の“影”に貼り付く。
アレクが一歩、前へ。
「第二幕は終わりだろ。……第三幕は、こっちが始める!」
杖の石突きが石を打つ。
その“打”は、合図。
ジンの《統合鏡》が強く光り、街の至るところで“味方の音”が応えた。神社の風鈴が高く、川の橋桁が低く、学校のピアノが柔らかく、病院の足音が確かに。
合奏開始。
敵が街を楽器にするなら、こちらは街を“仲間”にする。
商人が、ほんの少し驚いた顔をした。
ヴァイスが一歩進み、刃を構える。
アレクは笑った。
小さな体の中で、鼓動が速く、しかし乱れずに鳴っている。
耳の奥で、仲間の音が揃っている。
「――やろうぜ」
ちりん。
鈴の一音を皮切りに、駅前広場の“第三幕”が本当に始まった。
*
最初の衝突は、刃と杖ではなく、音と音だった。
商人の笛が“帰り道”の主題を展開し、広場の空気を柔らかく撫でる。人々の記憶の中のやさしい音を“借りる”。
それに対し、ミユのタグが“いまここ”の音で返す。子どもの笑い、出店の鉄板の焼ける音、駅員の靴音――現実の、現在の、確かな音。
タグに記録された“いま”は、笛の“昔”に優しく重なり、過去に齧りつく力を少しだけ抜く。
ユウタの鏡が、刃の入りに半拍の濁りを差し込み、カズマの木刀がその半拍の“隙間”に重さを打つ。
レンの鈴が、仲間の戻る場所へ光を置き、アレクの杖が、その光へと道を拓く。
ヴァイスの刃が二拍で落ちる。
アレクの杖が半拍で潜り、ユウタの鏡が四分音符の“汚し”を与え、カズマの木刀が八分音符の“止め”を打つ。
ミユのタグが一拍の“記録”を添え、レンの鈴が二連の“帰還”を鳴らす。
それはもはや、戦いの手順ではなく、楽譜の読み替えだった。
「――君たちは、本当に愉快だ」
商人の目尻に、心底楽しげな皺が寄る。
笛が一段階、深く鳴った。
広場の空気がまた“重なった”。
今度は優しさではなく、誇り。
祭りを支える大人たちの背骨、太鼓のバチを持つ腕、旗を掲げる肩。
街の“誇り”を、笛は上手に撫でる。
善良なものほど、よく響く。
だから――危険だ。
「負けない」
レンが鈴を胸に押し当て、目を閉じた。
自分の中の誇り――不器用でも諦めない、創造主としての責任、妹として守られた記憶、それでも並び立ちたい願い。
鈴が鳴る。
優しさに、誇りで返す。
“借り物”の誇りではなく、“いまここ”の誇りで。
彼女の一音に、アレクの胸が熱を取り戻す。
小さな体で、いま立っているという誇り。
ミユの指先が震えを止める。
“怖くても進む”誇り。
カズマが木刀を握り直す。
“背中を預けられる”誇り。
ユウタが鏡の角度を一ミリだけ変える。
“役割を果たす”誇り。
ジンの鏡が、静かに輝きを増す。
“全員を生かして帰す”誇り。
音が、重なった。
第三幕は、もはや“敵の合奏”ではない。
“街と俺たちの合奏”だ。




