第53話『合奏前夜――静寂の裂け目』
翌日。
水鏡屋の工房は、異様なほどの静けさに包まれていた。
アレクは机に突っ伏し、額に冷えた布を当てている。昨夜の戦いで負った傷は浅いものの、身体に残る“重さ”はまだ抜けきらなかった。小さな体に宿る大きな魂は、時にこうして反動を返す。
「……大丈夫?」
レンがそっと布を替える。鈴を握る手が微かに震えていることを、アレクは気づいていた。
「へっ、こんなのかすり傷だ」
強がる声。けれど喉の奥で、わずかに熱が揺れた。
ミユがノートを広げ、昨夜の“音の記録”を書き出している。
「……やっぱり、仮面の群れは全部で五十体以上。普通なら数で押しつぶされてた」
彼女の声は冷静に聞こえるが、筆を握る指先は汗ばんでいた。
カズマは床に寝転がり、天井を睨んでいた。
「ったく、ヴァイスの野郎……二拍で終わらせるとか言いやがって、マジで心臓止まるかと思ったぜ」
その口調は軽いが、握りしめた拳には爪が食い込んでいる。
ユウタは一枚の《濁響鏡》を磨きながら呟いた。
「だが……昨夜の戦いで確かに“揺らぎ”を刻めた。鎧の紋は完璧じゃない。あの男も無限ではない」
理屈を並べて冷静を装っても、瞳の奥に潜む疲労は隠し切れなかった。
そしてジン。
彼は工房の奥で《統合鏡》に向かい続けていた。鏡面には街の地図が浮かび、各所に小さな赤点が灯っている。昨夜、商人が残していった“音の痕跡”。それが今も街のあちこちで脈打ち続けていた。
「……やはりな」
ジンは眼鏡を押し上げ、振り返った。
「敵は駅前だけで終わらせる気はない。昨夜の広場は“試演”。本番はこれからだ」
工房の空気が凍る。
「ジン……次は、どこを狙ってくるの?」レンが震える声で問う。
ジンは鏡に浮かぶ赤点を指でなぞった。
「神社の境内、川沿いの広場、学校の音楽室、病院のリハビリ室……“音が絶えない場所”だ」
「……合奏」
ユウタの低い声に、全員が息を呑む。
呪具商人が言った言葉――合奏。
それはつまり、街全体を楽器として鳴らし、人々の恐怖と混乱を“主題”に仕立て上げるということだ。
「待てよ、それって……」カズマが跳ね起きる。
「街中が一斉に襲われるってことかよ!?」
「そうだ」ジンの声は冷徹だった。
「奴らはもう“旋律”を撒き終えている。あとは指揮者が笛を吹くだけだ」
アレクは布を跳ね飛ばし、勢いよく立ち上がった。
「だったら、やることは決まってる! そいつの笛をへし折ってやる!」
「アレク君……!」
レンが思わず呼ぶ。その声に宿る不安を振り払うように、アレクは拳を握った。
「今度は負けねぇ。昨日の俺たちはまだバラバラだった。でも今は違う。音を合わせれば、あの商人にだって勝てる!」
ミユが震える手をノートの上に置いた。
「……合奏には、合奏で返す」
その言葉に、全員の視線が交わった。
ジンはしばし黙っていたが、やがて短く頷いた。
「いいだろう。だが条件がある。……絶対に、誰一人欠けるな」
*
夜。
街の灯が静かに瞬く頃、廃工場では呪具商人が笛を磨いていた。
「小さな英雄たちは、ようやく“和音”を鳴らし始めたか」
その声は愉快そうで、同時に深い期待を含んでいた。
背後で控えるヴァイスが低く問う。
「次は、いつ」
「近い。今夜ではない。だが遠くもない。……合奏は祭りの後夜祭のように、唐突に始まる」
商人の指が笛の穴を撫でる。まるで舞台に立つ前の楽師のように。
「準備を整えよ。街はもう楽器だ。残るは――最後の“調弦”だ」
笛がひとりでに鳴る。
冷たい夜風に混じり、どこか遠くで鈴の音がかすかに響いた。
それは警鐘か、それとも希望か。
誰もまだ、答えを持ってはいなかった。




