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転生のホムンクルス-最強勇者は魔法が存在する現代日本に転生しました-  作者: エア


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第46話『当日・午前の掃討戦』

 夜がほどけ、東の端に薄い金が差した。

 駅前通りのシャッターが一斉に上がり、パン屋の窯が香りを吐く。店先では野菜箱が並び、商店街の貼り紙は「本日――一日限り 秋の市民祭」の文字で埋め尽くされていた。提灯はまだ灯っていない。けれど白地に赤の紐が朝の光を受け、からからと心地よく揺れている。


 水鏡屋の玄関先に、六人が立った。

 アレックス・ホークは小さなランドセルを背負っていた。中には教科書ではなく、包帯、魔力回復の飴、予備の札、短いロープ。それから、レンが前夜詰めた小瓶が三つ。

「飲むなよ」

 レンがじっと覗き込む。

「見るからに飲むなって顔じゃねぇか」

「“緊急時のみ”。書いておいた」

 小瓶のラベルには、細い字で〈鈴共鳴促進・一口/三分〉〈清め霧・半径三歩〉〈応急活性・子供量〉とある。

「任せろ。必要になる前に片づける」

 アレクはにやりと笑って、赤い瞳を細めた。


 ジン・ミカガミは簡潔に確認を繰り返す。

「午前は掃討。札の回収と無力化が第一。戦闘は極力避ける。……ミユ、記録係兼バックアップ。ユウタ、札の判別と封じ。カズマは前衛だが、音を立てすぎるな。レンは鈴術の主担当。アレクは……」

「はいはい、先走らず、先頭で殴りすぎず、撤退も判断する。わかってら」

「言うだけなら誰でもできる」

「うるさいな、兄ちゃん」


 軽口に笑いがこぼれ、緊張がわずかに和らいだ。

 ジンが地図を広げる。赤い印は昨夜よりさらに増えている。

「順路は三本。A:駅前広場→旧図書館通り→神社境内。B:アーケード→裏路地→旧印刷所。C:倉庫街→川沿い緑道→第二小学校前。……各隊、九時集合、十一時再集合。十二時にはいったん水鏡屋に戻る。午後は再編して巡回。夕刻、広場に全員集合だ」


「おう!」

 小さな声と重めの声が、同時に上がった。


     ◇


 Aルート。

 駅前広場はまだ骨組みの段階で、太鼓の皮が朝日に乾いている。青年団が縄を締め、子ども会の役員がテントの脚を抑えていた。

 アレク、レン、ミユの三人は、柱の影、テントの裏、電源分配の箱、音の集まるポイントを素早く確認していく。

「ここ」

 レンが膝をつき、排水格子の内側を指さす。

 格子の縁、ほんの一ミリの段差に黒い紙片が差し込まれていた。湿り気を吸い、紙は石のような硬さになっている。

「起動条件は“太鼓の三打ち”。でも、予備起動で“笛のロングトーン”にも反応する。――鈴で上書きするね」

 レンが鈴を一つ、優しく鳴らす。

 ――ちりん。

 細い輪の音が、格子の内側に潜り込み、紙の表面の紋様を一度、二度、三度――ゆるませていく。

「もう一回」

 ミユがそっと言う。

 レンがうなずいて、呼吸を合わせ、今度は短く二回、からん、からん。

 紙片がぱり、と小さく割れ、黒い煤が滲む。それをミユがピンセットでつまみ、封呪袋に落とし込む。

「回収完了。札番号A—017」

 ミユの記録帳に素早い字が走る。描かれた図面には、小さな×印が増えていく。


「よし!」アレクが親指を立てた。「次!」

「急がない。鈴は“音の術”だから疲労が遅れて来る。テンポを刻んで」

 レンの注意にアレクが舌を出す。

 彼らは櫓の影から影へ、都市の鼓膜を撫でるように移動した。ゴミ箱裏、マンホール、掲示板の裏、ベンチの脚。音が反響する小さな穴場に、ことごとく札は差し込まれている。敵は街の“響き”を知っている。ならばこちらは、街の“耳”を取り返すだけだ。


「おはよう、レンちゃん。――何してるの?」

 声に三人が振り向くと、青年団の法被を着た近所の大工が立っていた。

 レンは即座に笑顔を作って頭を下げる。

「おはようございます。えっと……音漏れチェックです」

「音漏れ?」

「はい。太鼓の音が地面に逃げちゃうと、のりが悪くなるから。格子のとこに詰め物がないかとか」

「へぇ、今どきはそんなこともするのか。偉いなぁ」

 大工は素直に感心し、邪魔しないように離れていく。

 アレクが小声で囁く。

「すげぇな、即興嘘が上手すぎる」

「嘘じゃないよ。今日の**“音”は街の命**だから」

 レンの横顔には、昨夜誓った覚悟が揺るがずに乗っていた。


 旧図書館通り。

 静かな石畳の路地に、朝の光がまっすぐ落ちる。ここでは札が貼り付けではなく、紙鳴りを仕込むタイプに変わっていた。古書店の看板、風見鶏、路地の角にぶら下がるチラシ束。

「“風”で鳴らす設計。笛術系が混ざってる」ミユが眉を寄せる。

「笛なら、鈴で反転できる。――アレク君、風止めて」

「了解!」

 アレクが杖を軽く地面に打つ。衝撃の膜が彼らの周囲に薄く張り、路地の流れが止まったように静かになる。

 レンが鈴をひと振り。

 紙束からぷつぷつと黒い泡が浮かび、糊が切れて落ちる。そのたびミユの封呪袋がふくらんでいった。


 神社境内。

 朝の掃除を終えた宮司が、井戸端でひと息ついていた。

「おはようございます」

 レンが頭を下げると、宮司は目を細める。

「おや、ミカガミの娘さん。弟くんは一緒かな」

「え、弟……?」

 アレクがむっとするのを、レンが肘でつついて笑顔のまま受ける。

「今日は別班です。境内の“音の逃げ穴”見させてください」

「ほう、音の。……いいだろう。気になるところがある。拝殿の脇の板がね、どうも昨夜から鳴くんだ」

 案内された板の裏、板釘の影。札が釘頭の円に沿って切り抜かれ、ぴたりと貼られていた。

「巧い」ミユが低く唸る。「釘の共鳴周波数を利用してる。太鼓の“裏の拍”で起動するように」

「つまり、太鼓が盛り上がるほど危ないってことだな」

「でも、裏がわかれば表もわかる」レンが鈴を構える。「“一拍、先に”鈴を入れて、釘の響きをずらす」

 からん。

 鈴の小さな音は、朝の空気に混じって消えた。……ように見えたが、板の裏の黒はすっと色を落とし、紙がひとりでに剥がれた。

「A—053、回収」ミユが囁き、封をする。


 境内の端で、アレクは小さく息を整えた。

 鈴が鳴るたび、胸の奥で何かが共鳴する。器としての身体が、音にほんのわずか反応しているのがわかる。

(……ホムンクルスの器は“空っぽ”じゃない。レンが言ったとおり、面だ。音を渡し、繋ぐ面)

 その実感が、彼の背筋をひやりと撫でていく。

(なら、俺という面がぶれたら、音も歪む。――だから、立つ)


     ◇


 Bルート。

 アーケードの朝は眩しい。天井の透明板に淡い光が揺れ、シャッター裏に空気が籠る。

 カズマが木刀を肩に担ぎながら鼻歌を歌い、ユウタが呆れた目で黙らせる。

「リズムが残る。音だ。敵の飯になる」

「はいはい先生……っと、いたな」

 ゲームセンターの看板裏。ビリヤード台の搬出口。クレーンゲームのガラス上部。札が三枚、三角形を作って貼られている。

「三角配置……“位相固定”。一枚だけ剥がしても、他が補うやつだ」ユウタが目を細める。

「三人で一気に、だな。せーのッ」

 カズマの木刀の柄で角をこじり、ユウタが札を滑り抜く。残る一枚を、通りがかった女子高生が不思議そうに見ているのに気づいて、カズマが笑う。

「祭りの前の“ゴミ拾い”。お兄さんたち、エコなんで」

「……カズマ」

「わーってるって、冗談だよ。お嬢さん、今日の祭りは一日限り。楽しんで帰りな」

 軽口は、怖がらせないためだ。彼の不器用なやさしさを、ユウタは知っている。


 裏路地は湿った匂いがした。喫茶店の裏口、空き瓶のケース、段ボールの山。

 札は紙に紛れ込むと見分けがつかない。ユウタは匂いで判断する。古い墨、奇妙な糊、指先に残るざらつき。

「これ」

 彼がひょいと指さすと、カズマは反射で掴んで剥がす。

「B—031、回収。……で、ユウタさぁ、なんで嗅いだだけでわかるわけ?」

「札は“書”だ。書は墨の呼吸でできている。呼吸が嫌な方向にねじれていれば、嗅げばわかる」

「お前、ちょっとカッコいいな」

「いつもだ」

「ハイハイ」


 旧印刷所の前で、小柄な老女がほうきを手に立っていた。

「おや、昨日の坊や」

 ユウタが会釈する。昨日、ここで仮面の“試作型”を倒したことを、老女は知らない。

「今日は祭りだよ。あんたらも楽しみな」

「ええ。――そのための、下準備です」

「ご苦労さん」

 老女が笑う。

 カズマが小声で言った。

「こういう笑顔、守るのは燃えるな」

「燃える前に湿らせておけ。火事になる」

「先生、比喩がうまい」


     ◇


 Cルート。

 倉庫街から川沿いへ。風が川面を走り、芦がこすれる。

 ジンは単独で歩いた。外套の中に封呪の箱、靴音は一定だ。

 橋の欄干の裏に、長い札が等間隔で貼られているのを見つける。

「“波形起動”か」

 札は川の流れに合わせてゆっくりと脈打ち、橋全体を共鳴箱に変えようとしている。

 ジンは無言で箱を開き、銅の小片を一枚ずつ欄干に置いていく。

 ――ち、ち、ち。

 微細な金属音が、札の呼吸をわずかに乱す。

 五枚目を置いたとき、反対側の欄干で音がひとつずれた。

 ジンは迷わず歩を進め、欄干の内側、影の深い部分に指を滑り込ませる。

 そこに一枚、逆向きの札。

「主位相」

 指先で札の角をつまみ、捻る。紙がさく、と音を立てて裂けた。

 欄干全体の札が一斉に息を止め、黒が色を失う。

 ジンは箱に札を収め、外套を整えた。

 (……三つのルート。敵は、街の“耳”を食う気だ)

 彼は歩調を変えない。川は相変わらず、淡い光の下で流れている。


     ◇


 十一時前。

 三つの隊は、それぞれの合図で一時集合地点に戻りつつあった。

 A隊は神社の境内で宮司から温かいお茶を受け取り、B隊はアーケードの片隅でラムネ瓶をあけ、Cは橋のたもとで簡易のパンをかじる。

 回収した札は合計百二十八枚。ミユの帳面は×印と数字で埋まり、ユウタの封呪袋はどずんと重い。レンの鈴は少し熱を帯びて、アレクの指は白い粉を少し吸っている。カズマの木刀には、見えないくらいの薄い紙の繊維がついていた。


「午後は休みなしだな」

 アレクが息を吐く。

「ううん、昼に一回“街の音”を整える」レンが首を振る。「鈴の音で上書きしたけど、穴もできてる。太鼓の音が逃げないように、こちらで“響きの橋”をかけたい」

「橋?」

「うん。櫓と神社と広場の三点を、細い糸みたいな響きで結ぶの。鈴で形付けて、ミユちゃんの魔法で固定、ユウタ君の札でマーク。……やってみたい」

 ミユがぱっと顔を上げた。

「できると思う。やります」

 ユウタも頷く。

「理屈は合ってる。やる価値がある」

 ジンは時計を見た。

「十二時に帰投。食事十五分、準備十五分、出発。午後は“橋掛け”を優先して巡回と監視。――敵はそれを嫌う。必ず邪魔を入れるはずだ」


 カズマが立ち上がって伸びをする。

「よーし、腹減った。レンさんの弁当、期待してるからな!」

「えっ、作ってないよ?」

「……だよな!」

 アレクが吹き出した。

「パンでがまんしろ。祭りの屋台は夜までおあずけだ」


     ◇


 水鏡屋に戻ると、居間には簡単な昼食が並べられていた。

 パン、スープ、卵、果物。それぞれが手早く口に運びながら、短い報告を重ねる。

 ミユが札の型を三種類に分類し、ユウタが起動条件を手帳にまとめ、レンが“橋掛け”の図案を紙に描いた。ジンは地図に新しい赤印を足し、アレクは全体を俯瞰するように椅子の背に座って聞いた。


「で、午後の動きはこうだ」

 ジンが新しい紙を机に置く。そこには三つの糸が、地図の上で細く結ばれている。

「第一糸:広場の櫓から神社へ。第二糸:櫓から旧図書館通りへ。第三糸:櫓からアーケードの東端へ。最短で渡す。各糸に“目印札”を流す。敵が切ろうとすれば、位置がわかる」

「私とミユちゃんが糸を鳴らして、ユウタ君が札を“結ぶ”。アレク君とカズマ君は前で守る」

「俺とカズマが盾だな。――来るなら来い」

 アレクは短く息を吐き、手のひらに鈴の冷たさを感じた。

(ここまでの掃討は“前座”。午後からが本番だ)


     ◇


 午後一時。

 街はもう、いつもの顔ではなかった。

 買い物客に混じって、法被の青年団、子ども会の親たち、カメラを持った老人、そして祭りを目当てに来た見知らぬ顔。

 道端の会話は弾み、笑顔は増える。――だが、その底で、昼にもかかわらず太鼓の練習がどこからともなく響く。昨日までの試し打ちとは違う、微妙に湿った音だ。

 アレクのうなじが、かすかに粟立つ。

(……また偽太鼓がまぎれてる。午前にあれだけ剥がしても、まだある)


 第一糸を張る。

 レンが櫓の下で鈴を鳴らす。

 ――ちりん。

 ミユが一歩後ろで掌を前に出し、「固定」と一言。透明の薄い膜が鈴の音の軌跡を撫で、空間に細い線を残す。

 ユウタが札を二枚、並べて空中に滑らせる。紙は空気に吸い込まれるようにかすれ、目に見えない糸に結び目だけが灯る。

 アレクとカズマはその前を歩き、通行人の流れを自然にずらしながら、目に見えない道を護る。

「すげぇ……見えないのに“道”って感じがする」

「道はいつだって見えない。踏んだあとに、あったことがわかる」

「あー、それ好きだわ。先生、詩人じゃん」

「兄に言え」


 道の角、アーケードの入口で、糸がぴんと震えた。

 ミユがはっと顔を上げる。

「鳴らされた!」

 レンが即座に鈴を打ち返す。

 ――からん。

 震えは収まり、代わりに通りの向こうで紙の破れる音がした。ユウタが走って角に回る。

 靴跡。紙片。見慣れぬ男の影が、群衆に紛れて去っていく背中。

「切ろうとしたな」

 ユウタが札を拾い上げると、表には同じ仮面の紋。

 アレクの口元が歪んだ。

「いる。そばに」


 第二糸。

 旧図書館通りの石畳に、細い音が走り、影の角をさらう。

 糸がまた震える。今度は二度。

 アレクが反射で飛び出し、見えない敵の指を叩くように空気を切った。杖の先が硬いものを捉え、乾いた手応え。

 黒い袖口から、細い紙片が落ちる。男が舌打ちして背を向けた――が、逃げない。

 振り返った顔は仮面。午前に見た“人形”ではない。人間が仮面を被っている。

「真人……!」

 カズマが木刀を構える。

「アレク!」

「わかってる!」

 二人の距離が詰まる。仮面の男は手品のように紙を宙へ散らす。紙は風を掴み、刃に変わる。

 アレクが一歩、踏み込む。軽い身体を利点に、足首で角度を作って紙刃の間合いをくぐる。

 杖が一閃。

 仮面のこめかみをかすめるだけに叩く。面頬が揺れ、男がたたらを踏む。

 カズマの追撃が、首の後ろへ。木刀が鈍く吸い込まれ、背中の札がぱりっと割れた。

 仮面が床に落ち、男の顔が露わになる。

 怯えた若者の目。

「……なんで」

 カズマが木刀を引く。

 ユウタが静かに後ろ手を取って座らせ、紙片を押収する。

「雇われだ。露店で“配られた”。貼れば運が良くなる」

 ミユが唇を噛む。

「やっぱり……祭りに便乗してる」

 レンが鈴を握り直し、目だけで謝る。「ごめん」

 若者はうなずけなかったが、涙のかわりに息を吐いた。

「これ以上は……やらない」

 ユウタが短く頷き、通報を装う形で宮司に引き渡す段取りを整える。人を罰するのが目的じゃない。糸を切らせないのが目的だ。


 第三糸。

 アーケードの東端に、糸の結びが灯る。

 その瞬間、空気がひやりと変わった。

 人の声の高さがひとつ下がる。足音が少なくなる。影が濃くなる。

 アレクは、背骨の奥で**“来る”を聞いた。

「――レン、ミユ、ユウタ、下がれ」

 彼らの足が同時に止まる。

 群衆の向こう、逆光の中に、漆黒の輪郭が立つ。

 銀の刃。鎧の継ぎ目に赤い呼吸**。

 黒刃のヴァイス。

「糸。切断対象、認識」

 機械のような、しかし深い井戸の底から響くような声。


 昼の光が、ほんのわずか陰った。

 祭りはまだ始まってもいない。――それでも、舞台は整っていた。

 レンが一歩前に出そうになるのを、アレクが素早く遮る。

「午後だ。こいつに今、付き合う時間はない」

 ヴァイスの仮面のような顔が、わずかに傾いた。

「回避、推奨。夜に、舞台を用意してある」

「上等。――夜まで生かしといてやる」

 アレクは視線で仲間に合図を送り、糸を守る陣形のまま、ゆっくりとヴァイスの死角を作った。

 鈴が一度だけ鳴り、糸が強くなった。

 ヴァイスは刃を下ろし、影に溶けるように退いた。

 去り際、彼の鎧の紋が一瞬だけ、アレクの赤い瞳と同じ色に瞬いた。

(……見たか、今の)

 アレクは胸の奥が冷たくなるのを感じた。器が、魂が、どこかで呼応する感覚。

(――気のせいじゃねぇ)


     ◇


 午後二時半。

 三本の響きの橋は街の上に張り終わり、目には見えないが確かな“筋”ができた。

 広場の地面から、神社の石畳から、アーケードの天井から、軽くつつけば同じ鈴の音が返ってくる。

「これで太鼓の音は、逃げない」

 レンが額の汗を拭う。鈴の輪の内側が、ほんのり温かい。

 ミユが結び札の数を確認し、ユウタが“鳴らされた時の通知”の準備を終える。

「やることはやった。――あとは守るだけだ」

 アレクが空を見上げる。

 太陽は傾き始めていた。提灯に灯りが入るまで、あと数時間。

 カズマが腕をぐるぐる回して肩を鳴らす。

「体、温めとく。夜は跳ねるぞ」

「跳ねる前に、食え。落ちる」

 ユウタがパンを差し出す。

「おお、先生優しい」

「黙って食べろ」


 ジンが小さく頷く。

「十六時に一度戻る。装備の再確認、心拍と魔力のチェック、補給。十七時、広場に集合。――“一日限りの大祭”を、無事に終わらせる」


 レンは鈴を両手で包み込み、そっと目を閉じた。

(“面”は、ぶれない。――ぶらさない。私が鳴らせば、アレク君が立つ。アレク君が立てば、街が立つ)

 目を開くと、赤い瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。

 言葉はいらなかった。

 約束は、もう鳴っている。


     ◇


 そのころ、倉庫街の外れの廃工場。

 呪具商人は、小さな太鼓を軽く指で叩いていた。三打ち、休符、二打ち。

 天井から吊られた無数の紙が、音に合わせて微かに震える。

 ヴァイスが影から現れる。

「報告。糸を張られた」

「見ていたとも。美しい“橋”だ。――だが、橋があるなら、落とし穴も用意しておかねばな」

 商人は笑い、手元の札束を扇のように広げる。

「夜に踊ろう。鈴と太鼓、刃と器、創造主と魂。舞台は一夜限り。……滑稽で、甘美だ」


     ◇


 十六時。

 水鏡屋に戻った六人は、短い沈黙で互いの顔を見た。

 アレクの拳には新しい包帯。レンの鈴には細い朱の紐。ミユの帳面には、空白のページが一枚だけ残っている。カズマの木刀は布で磨かれ、ユウタの札は数が揃い、ジンの外套は微かに香を含んだ。


 ジンが言う。

「ここまで、上出来だ」

 アレクが鼻で笑う。

「上出来なら、このまま最後まで通る」

「そうだ。最後まで」

 レンの声は小さいけれど、鈴のように澄んでいた。


 外では、最初の提灯に火が入った。

 ゆっくりと暮れていく空の下で、街の耳は、もう彼らの方を向いていた。

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