第45話『祭の前日』
秋の夕暮れは短い。
昼の温度を抱えた空が、ふっと息を吐くみたいに色を失い、群青と橙のあいだから一番星が顔を出す。駅前広場には組み上がった櫓が黒い影を落とし、商店街の通りには屋台の骨組みが等間隔に並んでいた。紅白の幕、提灯の紐、巻かれた延長コード。子どもたちの歓声と金槌の音とが重なって、明日の賑わいを約束している。
その喧噪から少し離れた裏通りを、アレックス・ホークは短い脚で歩いていた。白髪の前髪を風が揺らし、赤い瞳が細くなる。
(……匂う。火じゃねぇ、鉄でもない。――呪具の匂いだ)
ホムンクルスの器は軽く、足取りは子どもそのものだ。けれど魂は異界の勇者のまま、危うい気配に敏感だ。鼻腔にふっと、湿った紙と古い墨の刺激が残る。視線を通りの端へ滑らせると、配電箱の裏に黒い紙片がひらついていた。
「レン、ここ」
呼ぶと、鈴を持った少女が駆け寄ってくる。ミカガミ・レン。緊張で指先がこわばっていても、目はまっすぐだった。
「うん……見える。六角形の紋、中心に仮面印。明日、起動させるつもりだ」
ミユも追いつき、睫毛を伏せて紙片をのぞく。カスガイ・ミユ。小学生らしい仕草と、学びに裏打ちされた目の確かさが同居している。
「触ったらだめ。外の音で上書きする――レンさん、お願い」
レンは頷いて、鈴を一振り。
――ちりん。
澄んだ音の輪が空気にほどける。紙片の紋様が一拍ぶるりと震え、黒い煤を吐きながら剥がれた。ミユが素早く封呪袋に滑り込ませ、口紐を結ぶ。
「ナイス。明日の“偽太鼓”を一枚、黙らせた」
アレクが笑うと、レンの肩の力がすこし抜けた。
「でも、これは氷山の一角。広場、商店街、神社、その周辺――“音が集まる場所”にはほぼ全部、仕込まれてるはず」
「だよな。派手好きな連中だ」
アレクは顎を上げ、暮れかけた空を睨んだ。
(――来る。明日、ぜったい来る)
◇
水鏡屋の工房では、ミカガミ・ジンが机いっぱいに広げた地図へ赤い印を増やし続けていた。印は点、線、そして面へ。にじむ赤は、街の鼓動を別の“囃子”に乗っ取ろうとする意志の軌跡だ。
「――今夕だけで八カ所。小型の起動札が見つかった」
ジンが指先で印をなぞる。
「起動条件は“音”。明日の大祭は一日限りだ。その短い時間に、街の耳を奪う仕掛けだろう」
アレク、レン、ミユが戻ると、工房の空気は熱を帯びた緊張で満ちた。壁一面の棚に並ぶ薬瓶が薄く音を返す。
「カズマとユウタは?」
「倉庫街の調査、継続中です」ミユが答える。「仮面人形の“試作型”があったって。札は首の後ろ、動力は分散……」
「分散なら個の破壊に意味が薄い。核が別にある」ジンは短く断じた。「核は、櫓だ」
レンが鈴を握り直す。
「櫓に貼られた札の群れを止められれば、街全体の上書きは防げる」
「ただし“核”を守る刃が来る」アレクが言う。「ヴァイス。前座は済ませた。次は本気で斬りに来る」
工房の灯が、ジンの眼鏡に冷たい反射を宿した。
「班を分ける。明日――午前は札の掃討、午後は巡回。夕刻、全員で広場に集合。各自、役割を明確にする」
ジンは手早く紙片を配る。そこには分単位の行動予定と、合図、退避経路まで書き込まれていた。
「レンは鈴術の主担当、ミユは解析補助とシールド。アレクは迎撃の先頭に立つ。ただし――」
ジンの視線がアレクで止まる。
「“無茶”はするな。お前が倒れれば、妹も、街も落ちる」
「わぁってるよ」
アレクはそっぽを向いて肩をすくめた。小さな背中に、短い沈黙が落ちる。
「……ジン」
振り返った赤い瞳は、子どもの体に似合わない硬さを帯びていた。
「俺の目標は“元の身体に戻る”だ。それでも、明日は――この姿で前に立つ。守るって決めたから」
レンが息を呑む音がした。ミユがそっと手を握る。
ジンはほんのわずか眉根を寄せると、予定表に視線を落とした。
「ならば、立たせるための段取りをこちらが用意する。それが大人の役目だ」
◇
夜、商店街の灯が一本、また一本と落ちていく。屋台の主は布をかぶせ、提灯を外し、最後の手直しを確認して店を閉めた。風が通りを抜けて、紅白の幕を揺らす。
水鏡屋の裏庭では、木製の練兵人形が三体、並べて立てられていた。アレクが杖を回し、足運びを確かめる。ホムンクルスの軽さは利点にも欠点にもなる。踏み込みの重さが足りない――ならば角度と軌道で補う。
「はっ!」
杖が弧を描き、人形の首もと(仮面の位置に印をつけてある)を正確に叩く。木が鈍い音を返す。
「……今の、軽い」
ジンの声が背後から飛ぶ。
「ヘリをじらすな。刃を滑らせる角度まで詰めろ」
「注文多いな、おっさん」
「おっさんではない。兄だ」
レンが苦笑して水差しを持って来る。
「二人とも、休憩。アレク君、喉乾いたでしょ」
小さなグラスに入った水がひんやりと喉を下りる。アレクは息を吐き、夜空を見上げた。星が増えていた。
「レン」
「ん?」
「明日、怖かったら逃げていい。いや、逃げてくれ」
言い切ってから、アレクは自分で苦笑した。
「創造主に言う台詞じゃねぇな。でも、本気で思ってる」
レンは鈴を胸に当て、ゆっくり首を振った。
「逃げないよ。私は創造主で、パートナーだから。……それに、明日こそ、私の研究の“意味”を証明できる気がするの」
「意味?」
「うん。ホムンクルスって“魂の器”でしょ。器は空虚じゃなくて――誰かと誰かをつなぐ“面”にもなれる。アレク君と、街と、世界と。私、明日、それをやる」
アレクはしばらく彼女を見つめて、それから小さく笑った。
「やっぱ、天才だわ。ちょっと変わってるけど」
「“ちょっと”じゃない?」
「うん。だいぶ」
二人の笑い声が、裏庭にほどけた。
◇
夜の十時を過ぎると、街はさすがに静まった。道の脇に積まれた木箱、覆われた屋台、櫓の柱に残る木屑。遠くの線路を電車が一本だけ通り過ぎ、その音が消えたあとに、虫の音が立ち上がる。
アレクは一人、裏口からそっと出て、商店街の端まで歩いた。祭りの前夜の匂いがする。油と、木と、紙と、期待と。
(――俺は異物だ。異世界から、ホムンクルスの器で飛び込んできた。けど)
赤い瞳を閉じる。掌を握る。
(この街を“守りたい”って思うのは、筋書きでも任務でもなくて、俺の本音だ)
「独りで出るな、ガキ」
背後から低い声。振り向けば、ジンが外套を羽織って立っていた。
「ちょっと風に当たるだけだって」
「風の中には刃も混じる」
「お前は詩人かよ」
「兄だ」
ジンが肩で息をしているのに気づき、アレクは片眉を上げた。
「寝てないな?」
「寝るのは祭が終わってからでいい」
「倒れたら意味ねぇだろ」
「倒れない」
短い応酬のあと、二人の間にわずかな沈黙が落ちた。
「……ありがとう」
アレクがぽつりと言うと、ジンがわずかに目を瞬いた。
「何がだ」
「段取りとか、結界とか、ぜんぶ。俺、口で文句言ってるけど、助かってる」
「ならば明日、結果で返せ」
「上等」
◇
同じ頃、倉庫街。風のない闇が、錆びたシャッターや無数のパレットを曖昧に呑みこんでいる。
カズマが木刀を担いで身をひそめ、ユウタが手の内で札を返す。
「なぁユウタ、祭り前夜に夜勤って、俺らまじ偉くね?」
「喋るな。息がこぼれると足音になる」
「へーい……っと、来たな」
薄闇の中で、人影が二つ、三つと増える。仮面。糸のない操り。札が喉元で赤く点滅している。
「俺、右。お前、左な」
「了解。核は後頭部」
二人は同時に動いた。カズマの木刀が仮面を跳ね上げ、ユウタの札が喉元に吸い込まれる。封印の光、崩れ落ちる人形。
だが、三体目は速かった。縫い合わされた影の脚が地を滑る。仮面の奥で、赤い光が一瞬だけ“笑った”。
「こいつ、強化型――!」
「任せろォ!」
カズマは踏み込んだ。床板が鳴り、木刀が弧を描く。触れた瞬間に紙が裂ける手応え。
「うしっ」
ユウタは崩れた肩をひょいと避け、残骸を麻袋に詰めながら言った。
「笑ったな、今」
「見えた?」
「見えた。あれは人形じゃない、“観ていた”」
二人は顔を見合わせ、頷く。
「――明日、本物が来る」
◇
日付が変わる頃、路地の奥の空気が冷えた。
黒いローブの男――呪具商人が、月を背にして立っている。指先で一枚の札をくるくると弄び、微笑んだ。
「一日限りの大祭。良い“舞台”だ」
その背後に、黒刃のヴァイスが影のように浮かんだ。銀髪が月光に沈む。
「排除対象、再確認」
「創造主の小娘と、その器に宿る英雄の魂だ。だが、順序を間違えるな」
商人は札をぱちんと弾く。
「街の“耳”を奪うのは太鼓、広場、神輿。その三点で音が重なる瞬間――鈴を鳴らす彼女は、核の音を乱す。だから」
「だから、先に創造主を折る」
ヴァイスの声に、人間の抑揚はない。ただ、従順と冷徹がある。
「“折れ”ばいい。死ななくてもいい。泣けば、器も揺らぐ」
商人は笑い、闇に紛れた。
ヴァイスは視線を上げる。遠く、黒い塊のような櫓が夜に立っている。
「――任務、開始は夜半」
◇
水鏡屋の居間では、布団が三枚、廊下にもう二枚。レンは珍しくうつ伏せで眠っていた。ミユは薄い毛布を胸まで引き上げ、呼吸を落ち着ける。カズマはいびきをかき、ユウタは本を顔に乗せたまま意識を落としている。アレクは目を閉じているが、眠ってはいない。耳は外の気配を拾い、心は明日に向けて静かに燃えていた。
(元の身体に戻る――それは俺の目標だ。けど、順番がある)
(まずは、守る)
赤い瞳がそっと開く。のっぺりとした天井、奥の壁にかかる古い振り子時計。こち、こち、と時間を削る音。
ふいに、鈴の音がした。幻聴ではない。廊下の向こう、玄関側。
アレクは跳ね起き、杖をつかんで飛び出した。
「――レン?」
玄関に立っていたのは、寝間着姿のレンだった。靴は履いていない。鈴を胸に抱き、目を細めている。起きているのか、夢の中なのか境目の顔だ。
「どうした」
「……鈴が、鳴いた気がして」
「お前の鈴だろ」
「うん。でも、外の鈴。ひとつ、遠くで」
アレクは一歩、扉へ近づく。
夜の路地は静まり返り、風もない。提灯の残り香と木の匂い。遠くで猫が鳴く。
「――気のせい、かな」
レンが小さく笑う。アレクは扉から手を離し、彼女の肩を軽く押して居間へ戻した。
「寝ろ。明日、鈴の音を街じゅうに響かせるんだろ」
「うん。……おやすみ、アレク君」
「おやすみ」
レンが布団に潜り込むのを見届け、アレクはふたたび玄関に立った。扉の桟に耳をつける。
――ちりん。
今度は、はっきりと。鈴の音が、遠く、重なって鳴った。
同じ高さの音が三つ。広場、通り、神社――。
(試し鳴らしか。いや、挑発だ)
アレクは奥歯を噛みしめる。
「上等だ。聞こえたぞ」
◇
夜半。
ジンは工房で最後の結界実験を終え、ペンを置いた。机の端に置いた紙切れに、短い文字を書く。
《明日一日で終わらせる》
そして静かに灯りを落とした。
◇
明け方の空が、濃紺から墨色へ、そして薄青に滲んでいく。
水鏡屋の屋根の上に、アレクは立っていた。頬に冷たい風。腹の底に、熱をひと握り。
遠くで、太鼓の練習がひとつ鳴る。
返すように、アレクは短く息を吐いた。
「――来いよ。ぜんぶ、守ってやる」
そのとき、通りの角で一人の男が掲示板に何かを貼った。素知らぬ顔のまま歩き去る。板に残るのは、お祭りの案内に紛れ込む一枚の黒い札。
薄青の空の下で、黒はやけに目立った。
けれど、それを見たものはいない。
ただ、鈴の音だけが、誰の耳にも届かぬところで、そっと鳴った。




