第41話『不穏な日常からの崩壊の予兆』
市内の空気は、目に見えない埃のような不安で満ちていた。
小学校の臨時休校は続いている。けれど校舎は完全に沈黙してはいない。先生と数人の児童、保護者ボランティア、業者が出入りして、割れた窓の交換や焦げた床の張り替えを進めているのだ。復旧の足音と同時に、誰も説明できない小さな異変が、じわじわと日常の隙間から入り込んでいた。
午前十時。清掃に招集された子どもたちが体育館に集められ、簡単な注意事項を聞かされて解散した。
アレクはミユ、カズマ、ユウタと一緒に、図書室の埃払いを割り当てられる。扉を開くと乾いた紙の匂いが鼻を刺した。窓際のブラインドは半分壊れていて、細長い光が本棚の背表紙に縞模様を描いている。
「じゃ、手分けして棚を拭くか」カズマがマスク越しに声を張る。
「酸性とアルカリは分けるといい。インクが滲む」ユウタが無造作に薬剤のスプレーを二本持って渡した。
「へいへい――って、おい」
アレクが指さした。百科事典の分厚い背を伝って、黒い雫がぽたり、と落ちた。最初は水かと思ったが、床に当たった瞬間、墨のように濃く広がる。
「……インク?」ミユが囁く。
「いや、違う。匂いが“死んだ魔力”だ」アレクの赤い瞳が細くなる。
次の瞬間、棚の隙間から同じ黒い液がじわりと滲み出て、古地図の箱を濡らした。箱の蓋が自動で開き、内側に刻印された文字が浮かび上がる。赤黒い、見覚えのある紋――呪具の核に描かれていたものと酷似していた。
「先生!」
ミユが声を上げるより早く、ユウタが白い布を広げて箱を覆い、手早く簡易封印の札を四隅に貼る。
「応急措置だ。これ以上は拡がらない。……誰かが“ここに置いた”んじゃない、図書室という“場所”そのものが呼吸している」
「場所が……呼吸?」
カズマが眉をひそめる。
「呪具の霧が校舎に薄く沈着して、弱い共鳴で“反応”している。もはや点ではなく、膜だよ」ユウタは淡々と結論を述べた。
同じ頃、隣の音楽室では別の異変が起きていた。誰も触れていないはずのメトロノームが、最初はゆっくり、次第に狂ったようにカチカチと速度を上げ、やがて針が千切れんばかりに左右へ振れ、ぱきんと折れた。黒板にチョークで書かれた音階が、勝手に半音ずつ降下して低い不協和音の模様に変わる。
先生は「機械の故障だ」と言った。けれど、その場にいた子どもの何人かは、耳の奥に残るひどく冷たいささやきを聞いていた。――ツギハ、ドコ? ダレ?
誰も口には出さなかった。ただ、昼休みの笑い声が少し薄くなった。
翌日。商店街では目新しい露店がいくつも出ていた。「開運グッズ」「学業成就」「安産祈願」。黒い紐のペンダント、光沢のあるカード、小瓶に入った赤い砂。値段は妙に安い。
おばあさんが一つ手に取って、首に掛けた瞬間、顔色が悪くなってベンチに腰を下ろした。店主は慌てて水を渡したが、彼女は「大丈夫」と繰り返しながら、ペンダントだけは離そうとしない。
子どもたちの間では黒い表紙のノートが流行り始めた。触るとひんやりとして、表紙の中央に小さな六角形が印刷されている。めくったページに、持ち主の名前が何度も“うっすら”浮かび上がるのが面白いのだという。
「それ、どこで買ったの?」ミユが訊くと、子は楽しそうに笑った。
「駅の近く! 露店の人が“特別に安くしておくよ”って。ねぇ見て、この“レン”って字、勝手に出てくるの!」
レン――。
ミユは息を呑んだ。「貸して」
ノートをひったくるように受け取ると、目の前でパタンと閉じ、すぐさまアレクへ連絡を入れた。
水鏡屋に戻って簡易鑑定を施すと、表紙の裏に薄く塗られた呪墨が検出された。持ち主の“気配”を吸い取り、特定の名前に反応して浮き出る仕掛け。
「完全に狙い撃ちだな」
アレクは舌打ちする。
「名前を媒介にして、レンを“招く”呼び鈴みたいなもんだ」
「……私の、名前」レンは静かに呟いた。指先が僅かに震えている。
ジンはノートを一瞥し、封印箱へ無造作に放り込んだ。「焼却する。……露店の追跡は俺がやる。お前たちは店を出るな」
「でも――」レンが顔を上げる。
「レン」ジンの声は冷たいが、いつもより少しだけ低く柔らかい。「外は今、味方の空気じゃない」
その晩、商店街の監視カメラは一斉にノイズを撒き散らし、映像が途切れた時間帯があった。復旧後、通りの影でローブ姿の人影が一瞬だけ映る。フードの奥の笑みは、画質の荒さの向こうで、はっきりと“こちら側”を見ていた。
水鏡屋の夜。
作業台の上で、レンは卒業研究のノートを広げ、ホムンクルスと魂の安定式の手直しを続けていた。アレクは彼女の隣に座り、鉛筆の転がる音やページのめくれる気配を聞きながら、ただ黙って寄り添っている。
ふいに、床下から“コツ”と乾いた音がした。
レンが顔を上げる。
「……今、聞こえた?」
アレクは立ち上がり、床の継ぎ目に耳を当てる。次の“コツ”は、はっきり“リズム”を持っていた。短く二度、間を空けて一度。扉を叩く合図のように。
レンの魔法陣が、薄く、呼応するように脈動した。青白い光の帯が微かに濃淡を繰り返し、遠くの調律に合わせているかのようだ。
「やめよう」
アレクが袖を引く。
「今は開けんな。向こうからノックしてきてる――招くな」
レンは唇を嚙んで頷いた。理性は同意しているのに、心のどこかが“開けて確かめたい”と囁いていた。自分の手で作った陣、自分の選んだ式、自分の――創造主としての責任。
「リンクが、深くなってる」
レンは小さく言う。
「アレク君と、私の。呪具の波と、私の……」
アレクは首を横に振る。
「呪具は“リンク”を餌にする。結び目が強くなるほど、相手も強く引っ張れる。……だから守る。お前の結び目を“こっち側”に固定する」
殊更に軽口を叩かなかった。
レンはそれだけで胸が少し軽くなるのを感じる。
その夜、鏡台の前に立ったレンは、奇妙な遅延を見た。自分が瞬きをすると、鏡の中の少女はほんの一拍遅れてまぶたを閉じる。唇を動かすと、遅れて同じ動きが追いかけてくる。
喉が乾く。視線を外そうとした瞬間、鏡の奥の“レン”は、こちらの動きとは違う角度で微笑んだ。
がちゃん――鏡はジンの手で布ごと覆われ、壁から外された。
「不用意に“水面”を晒すな」
ジンの声が部屋の温度を一度下げる。
「名と面は、呪いの入口だ」
休校中でも、子どもは外へ出る。退屈と好奇心は、いつだって厄介なコンビだ。
カズマは近所の公園で、低学年の子らが“黒いビー玉”で遊んでいるのを見つけた。内側に赤い糸が封じられたような、奇妙なガラス玉。転がすたび、表面に小さな“ひび割れの紋”が走っては消える。
「それ、どこで手に入れた?」
カズマがしゃがみ込む。
「ひみつ!」と得意げに笑う子の手をそっと取り、カズマはビー玉を指先で弾いて取り上げた。
ピシ、と微細な罅が玉の中で光る。嫌な手応え。
「返してよ!」
子どもが泣きそうになる。
カズマは苦笑しながら頭をかいた。
「ごめん、あとで“もっとすげぇやつ”渡すから。これは危ない」
そのやり取りを、通りの向こうから誰かが見ていた。黒いパーカーのフードを目深に被った若い店員風の男。手首についた札の端が、風に揺れて赤い線を覗かせる。
“流行”は、周到に仕掛けられていた。
ユウタは別の路地で、電柱の根元に貼られた小さな符を見つけた。手のひらより少し大きい、街角広告に紛れた“集音”の札。通る人の話し声、笑い声、ため息――名と願いを拾い、どこかへ送っている。
「通信経路が街そのものになっている」
ユウタは静かに呟いた。「これで“誰が何を恐れているか”がわかる」
「――レンだ」
アレクが即答する。
「“レンという名前が増えている”」
ユウタは頷く。
「だから街が彼女の名に反応する。名前の出現頻度を媒介にした簡易なスイッチみたいなものだね。……呪具商人は、人混みを“器”にするのが上手い」
ある夕方、ミユは学用品店の店頭で足を止めた。
ショーウィンドウに並ぶ万年筆の一本が、インクも入っていないのに、自動で先を走らせている。白い紙の上に、細い文字が何度も繰り返し刻まれていく。
レン。レン。レン――。
「やめて……!」
ミユが駆け寄ろうとした瞬間、ペン先が折れて、紙面に赤黒い染みがゆっくり広がった。背筋が凍る。
震える指で、ミユはスマホのショートカットから水鏡屋へ通話を繋いだ。「レンさんの“名前”が……また……!」
店主は「最近のデモ機は質が悪い」と苦笑していたが、ミユの目には、ショーウィンドウのガラスに貼られた極小の符が見えていた。目立たない場所に、子どもの指でも隠せる薄さで。
“誰かが”ここに置いた。悪意を、目立たぬように丁寧に。
夜。レンは作業台の前で両手を組み、深く息を吸って吐いた。
「怖い」と、初めて口にした。「怖いよ。自分の名前が、自分じゃない“どこか”で勝手に動いてるみたいで。私の輪郭が、ちょっとずつ削られていく感じ」
アレクは椅子の背に座り直し、真っ直ぐ彼女を見た。
「怖ぇのは当たり前だ。でも、輪郭は削らせねぇ。お前の名前は、お前が自分で決める。俺がそうさせる」
「どうやって?」
「簡単だ。――呼び戻す」アレクはにやりと笑った。「名前は“呼ぶ”ためにある。相手が奪いに来るなら、こっちは強く呼べばいい。“こちら側”の声で」
ジンが工具棚から古い木箱を取り出し、その中から澄んだ音色の小さな鈴を出した。
「名呼鈴。古式の結び直しだ。……レン、お前の魔力で音を乗せろ。アレク、お前はそれを受け止めて、体内の“器”で共鳴させる。二人のリンクを“こっち側”で再調律する」
レンは頷いた。アレクも「任せろ」と短く答える。
鈴が一度、澄んだ音を鳴らした。青白い波紋のような音が、工房の壁と天井を柔らかく撫でる。波紋は床の“コツ”を吸い込み、鏡の遅延を追い越し、街灯の下に張られた薄い膜を優しくたわませた。
呼ぶ声が、静かに、しかし確かに届いていく。
――レン。
――ここにいる。
――わたしの名前は、わたしのもの。
音が消えたあと、工房は深い静けさに包まれた。
レンは肩の力が抜け、アレクはほっと息を吐く。ジンは何も言わず、鈴を布で包んで箱に戻した。
「効いたのかな」ミユが恐る恐る尋ねる。
ユウタが窓の外の街灯を見た。「波形が変わった。今夜の街は、さっきより静かだ」
「やったじゃねぇか」カズマが笑う。「爆弾より鈴のほうが効くとはな」
アレクは肩をすくめた。
「爆弾の出番は、いつだって最後だ」
ジンは眼鏡を押し上げ、静かに告げる。
「――今夜は勝っただけだ。明日はわからない。だが“こちら側”の音を、忘れるな」
その夜の二時。
水鏡屋の表の看板に、小さな蛾が数匹、ひっそりと留まった。羽は黒く、縁取りが赤い。蛾は音も無く羽ばたいて、看板の字の上をなぞる。“水鏡屋”の“鏡”の字を、しつこく。
屋根の上。
黒刃のヴァイスが、街の静けさを見下ろしていた。胸の亀裂は薄い札で押さえられ、瘴気はほとんど漏れていない。
彼は今夜の結び直しの“音”を、微細な振動として確かに感じ取っていた。
(調律。敵、適応)
(次段階――周辺を“満たす”。個ではなく、場で押し流す)
路地の奥では、呪具商人が愉悦に満ちた口笛を吹いていた。
「よい夜だ。鈴の音も、恐れの音も、すべてがよく響く。――次は、“祭り”だよ」
その言葉が、夜の膜をやわらかく震わせる。
街のどこかで、誰かが夢の中に赤黒い六角形を見る。誰かが寝返りを打ち、誰かが寝言で名前を呼び、誰かが朝の目覚ましを止めた瞬間に、ほんの小さく指先を切る。
ささいな出来事が、薄い糸で繋がっていく。
「大丈夫」と人は言うだろう。「気のせいだ」と。
だが、気のせいほど、気づいた時には遅いものはない。
水鏡屋の灯りが落ちる。
鈴は箱の中で静かに眠り、アレクとレンの寝息が同じリズムで重なる。
ジンは窓辺で夜明け前の空を眺め、わずかに目を細める。
(――明日、来る)
彼は刀に手を置き、極薄の結界をもう一枚だけ張った。
その透明な膜は、朝焼けの一番手前の色と同じくらい、目に見えない強さを持っていた。




